東方異人録 作:かまきりバニラ
茜色に染まった人里の出口。約束の団子屋の前で、アリス・マーガトロイドは苛立ちを隠さずに立っていた。
「遅いわよ。それに……何、その奇妙な連れは」
アリスの鋭い視線が、アサヒの服を掴んで離さない少女、アオに注がれる。アサヒは額の汗を拭い、簡潔に事情を説明した。鈴奈庵で手に取った黒い妖魔本が、自分の声に反応して人の形に変質したこと。そしてアオと名付けたこと。
「本が、実体化した……?」
アリスの眉が跳ね上がった。彼女は無造作にアオの前に歩み寄り、その白磁のような頬に手を伸ばそうとする。
だが、指先が触れる直前。
バチッ、と。
乾いた音と共に、アリスの手が弾かれた。
「っ……痛っ」
アリスが指先を抑えて後退する。彼女の表情から余裕が消え、戦慄に近い驚愕が上書きされた。上海人形たちが主人の危機を察し、槍を構えてアサヒたちの周りを激しく飛び回る。
「アサヒ、あなた……自分が何を連れているか分かっているの? この子の内側に流れている魔力、並の妖怪どころじゃないわ。底が見えない……まるで、純度の高い魔力の結晶が歩いているようなものよ」
「魔力の結晶……?」
「ええ。人里の連中が気づかなかったのは、この子があなたの意志に合わせて、無意識に存在を『静めさせていた』からでしょうね」
アリスは忌々しげに、しかしその瞳には魔法使いとしての抑えきれない熱が宿っていた。アオは無表情のまま、アリスの視線を静かに受け流し、ただアサヒの腕に顔を埋める。
「……いいわ。こんな場所で話すことじゃない。さっさと帰るわよ」
アリスは吐き捨てるように言うと、足早に森の方角へと歩き出した。その背中は、かつてないほど緊張感に満ちていた。
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人里の喧騒が遠ざかり、再び魔法の森の湿った冷気が三人を包み込む。
アリスの邸宅に戻るなり、彼女は休む間もなく棚から古びた銀の鎖と、魔力を遮断する触媒が塗り込まれた布を取り出した。
「その子は私の目が届くところで、徹底的に術式を解析させてもらうわ」
アリスはアオをアサヒから引き離そうと、今度は慎重に魔力障壁を張った手で彼女の肩を掴もうとした。アリスの本音は、魔法使いとしての危機感、そしてそれ以上に「自立して動く人形」という究極の造形物への、抑えきれない独占欲だ。
だが、アリスの手が届くよりも早く、アオが動いた。
「……こないで」
アオの呟きと共に、邸宅の床がわずかに震える。
アリスの手は、アオの体に触れることさえできなかった。そこには目に見えない「拒絶の境界」が張られており、アリスが力を込めれば込めるほど、反発する魔力が部屋の空気をピリつかせる。
「なっ……! 私の魔力を真っ向から押し返しているというの?」
アリスは唇を噛み、アオの瞳を覗き込んだ。そこには憎しみも怒りもなく、ただ「無」がある。アリスという存在を、自分に関わりのない背景としてしか認識していない、冷徹な拒絶。
アオはアサヒの影に隠れるように移動し、彼の服をぎゅっと握りしめた。
「ごしゅじんさま……この人、きらい」
「き、嫌いって……そんなはっきり……」
アサヒが困惑して声を漏らすと、アリスは屈辱に顔を赤く染め、天を仰いだ。
「……分かったわよ。もういいわ。この子は『持ち主』であるあなた以外、一切の干渉を許さないようね」
アリスは手に持っていた鎖を乱暴に机に放り出した。魔法使いとしてのプライドはズタズタだが、彼女ほどの使い手であれば理解せざるを得なかった。アオを物理的に拘束しようとすれば、この家どころか魔法の森の一部が吹き飛ぶ。
「アサヒ。その子の手綱を握れるのは、世界中であなた一人だけのようね。……責任、取りなさいよ?」
アリスはやれやれと溜息をつき、淹れ立ての紅茶を一口啜った。その視線は、アサヒの隣でようやく安堵したように表情を緩めたアオを、鋭く、しかしどこか諦めたように見つめていた。
魔法の森に佇むアリスの邸宅。暖炉の火が爆ぜる音だけが響くリビングで、アサヒはソファに座り、目の前にちょこんと腰掛けたアオと向き合っていた。
アリスは少し離れた場所で、上海人形を侍らせながら、あえて無関心を装って耳をそばだてている。
「なあ、アオ。いくつか聞いてもいいか?」
アサヒの問いに、アオは銀色の瞳をぱちくりとさせ、静かに頷いた。
「君は、どこから来たんだ? あの本になる前のこと、何か覚えてるか?」
アサヒの最初の質問に、アオは首を小さく横に振った。
「……わからない。きづいたら、くらい はこの中にいた。ずっと、だれかが ページを めくるのを まってた」
「誰かって……それは、俺のこと?」
「……わからない。でも、あなたの こえ は、ほかのだれとも ちがった。だから、でてこれた」
アサヒは少し視線を落とした。自分自身も記憶を失っている。この少女もまた、自分と同じように「以前」を持たない存在なのだという事実に、奇妙な同質感を覚える。
「じゃあ、君ができること……さっきの魔法みたいな力についてはどうだ? 何か使い道を知ってるのか?」
「……しらない。ただ、ごしゅじんさまが こまると、からだの なかが あつくなる。それを 外にだすと、バチッてなる」
「……本能で動いてるってわけね」
離れた場所から、アリスが冷めた声で補足した。
「その子は高度な術式の集積体だけど、それを制御する『マニュアル』が欠落してるのよ。あるいは、持ち主であるあなたがそれを読み解かない限り、鍵はかかったままかもね」
繋がらないパズル
アサヒはその後も、外の世界のこと、幻想郷のこと、あるいは彼女自身の「願い」について問いかけてみた。しかし、返ってくるのは「わからない」「しらない」「ごしゅじんさまと いっしょ」という、断片的で幼い言葉ばかりだった。
アオは、アサヒの困惑を察したのか、少しだけ不安そうに彼の顔を覗き込んだ。
「ごしゅじんさま……わたし、役にたたない?」
「あ、いや。そんなことはない。ただ、君のことをもっと知りたいと思っただけなんだ」
アサヒが慌ててフォローすると、アオは安心したように、また彼の袖をぎゅっと掴んだ。
結局、何一つ具体的なことは分からなかった。
彼女がなぜ人里の貸本屋に紛れ込んでいたのか。なぜ、記憶を失ったアサヒの声にだけ反応したのか。
「……ま、今はそれでいいか」
アサヒは小さく溜息をつき、アオの頭にそっと手を置いた。今度はアオも拒絶せず、猫のように目を細めてその感触を受け入れている。
背後でアリスが「甘いわね」と鼻で笑う音が聞こえたが、その声には先ほどまでの刺々しさはなく、どこか奇妙な共同生活を受け入れ始めたような響きがあった。
アリスは持っていたティーカップをソーサーに戻すと、芝居がかった動作で指を二本立て、アサヒの鼻先に突きつけた。
「いい? これからあなたのすべきことは、その子の謎を解明すること。なんでもいいわ。とにかく謎を解明しなさい。大事なことだから二回言ったわ」
アサヒは、そのあまりの勢いに気圧されて、思わず「分かった、分かったから」と両手を上げて応じた。アリスは満足げに頷くと、不意にその表情を魔法使いらしい真剣なものへと戻す。
「いい? 冗談で言っているんじゃないのよ。あなたが彼女の『根源』を知ることは、ここでの生存戦略そのものなのよ」
アリスの言葉は重かった。
アサヒは、自分の服を掴んだまま、無垢な瞳でこちらを見つめているアオを見やった。
「……謎、か」
記憶を失った自分と、正体不明の魔導書の少女。
二つの欠落したピースが、この魔法の森で重なり合っている。
「……ああ、やってみるよ。時間はたっぷりありそうだから」
アサヒがそう答えると、アオは自分の名が話題に出ているのを察してか、「なぞ……?」と小さく首を傾げた。その仕草はあまりに人間らしく、とても世界を揺るがす魔導書には見えなかったが、アサヒの胸には、この少女を正しく理解しなければならないという静かな使命感が芽生えていた。
「そうこなくっちゃ。まずは、その子が何に反応して、何に興味を示すか……しっかり観察することね。食事や睡眠が必要なのかさえ、まだ分からないんだから」
アリスはそう言うと、再び上海人形たちに指示を出し、部屋の片付けを始めた。
外はすっかり夜の帳が下り、魔法の森特有の、怪しくも静謐な闇が邸宅を包み込んでいた。
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