東方異人録   作:かまきりバニラ

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『一年経過』

 魔法の森の木々が、重苦しい湿気を含んだ風に揺れている。かつては死の象徴でしかなかったその瘴気も、今のアサヒにとっては、生活の一部というべき馴染み深い匂いへと変わっていた。

 

 あれから、一年の歳月が流れた。

 

 「……来たな」

 

 アサヒが低く呟くと同時に、頭上の腐肉を思わせる蔦の隙間から、巨大な影が躍り出た。

 数十対の節足が空を掻き、粘り気のある毒液を撒き散らしながら、大百足の妖怪がアサヒの喉笛を目指して急降下する。

 

 囮として立ち尽くすアサヒに、焦りの色は微塵もない。

 

 「アオ」

 

 短く名を呼ぶ。その刹那、アサヒの影から溶け出すように現れた黒髪の少女が、静かに右手をかざした。

 

 「……えいっ」

 

 アオの言葉と共に、虚空から巨大な氷塊が顕現した。それは物理法則を無視した速度で射出され、大百足の眉間を容赦なく貫く。妖怪は悲鳴を上げる暇もなく、その圧倒的な質量の暴力によって地面へと叩きつけられ、氷の破片と共に沈黙した。

 

 アオの能力はまさに万能。

 

 彼女は文字通り、何にでもなれる。ある時はアサヒを守る強固な盾に、ある時は獲物を穿つ鋭利な剣に。

 

 形状だけでなく、現象そのものさえ彼女の意のままだ。

 

 火を放ち、大地を隆起させ、植物を操る。その理不尽なまでの力は、ライトノベルに登場するチート主人公のそれをも凌駕していた。

 

 だが、その強大な力には、明確な欠落があった。

 

 「けが、ない? ごしゅじんさま」

 

 アオは、倒した妖怪には一瞥もくれず、アサヒの元へと駆け寄る。その足取りに迷いはないが、彼女の瞳に宿るのは、自身の意思ではなく、常にアサヒという指標だけだった。

 

 彼女には個としての思想も、善悪の判断基準も存在しない。

 

 アサヒが守れと言えば守り、殺せと言えば殺す。他者の言葉は、彼女にとっては吹き抜ける風と同じ、無意味な雑音でしかない。アサヒが不在の際、彼女はただ静止し、主の帰還を待つだけの装置へと戻る。

 

 「ああ、助かった。完璧だよ、アオ」

 

 アサヒがその頭を撫でると、アオはわずかに目を細め、満足げに服の裾を掴んだ。

 

 彼女には、アサヒの居場所へ即座に到達する瞬間移動の能力すら備わっている。しかし、そもそも彼女がアサヒの側を片時も離れようとしないため、その力が必要とされる場面は極めて稀だった。

 

 万能だが、できないこともあった。

 

 概念をねじ曲げること。

 

 死者を蘇らせる、失った記憶を無理やり取り戻す、あるいは世界の理そのものを書き換える。そうした根源的な領域にだけは、彼女の手は届かない。あくまでも事象の具現化という枠組みの中に彼女は留まっている。

 

 魔法の森の薄暗い邸宅での共同生活が始まってから一年。アサヒを取り巻く環境は、生きるための生存から、この世界で生きていくための生活へと、明確にそのフェーズを変えていた。

 

 『居候を続けたいなら、少しは食い扶持を稼いできなさいな。私の人形の材料費だってタダじゃないのよ』

 

 アリスのそんな現実的な通告を受けてから、アサヒは人里に頻繁に顔を出し、一種の便利屋のような仕事を請け負うようになっていた。

 

 人里に住まう人間たちにとって、里の外は常に妖怪の脅威に晒された危険地帯だ。

 行方不明者の捜索、街道を塞ぐ異形の排除、あるいは魔力の影響を受けた作物の回収――。

 

 舞い込む依頼のほとんどは、事実上の妖怪退治と同義だった。

 

 現代的な常識しか持たぬ外来人であったアサヒが、そんな過酷な依頼を平然とこなせているのは、ひとえにアオの存在があるからに他ならない。

 

 「ごしゅじんさま、次、あっち」

 

 アオは、アサヒの斜め後ろという定位置から決して動かない。

 

 彼女は、アサヒがこの一年で何度も「その呼び方は恥ずかしいからやめてくれ」と頼んでも、頑ななまでに彼を『ごしゅじんさま』と呼び続けている。彼女にとって、アサヒは単なるパートナーではなく、自らの存在を定義し、意味を与えてくれる絶対的な基軸なのだ。

 

 依頼の最中、アオが振るう力は文字通り圧倒的だった。

 

 人里の自警団が束になっても敵わないような獰猛な妖怪を前にしても、彼女は表情一つ変えず、アサヒの「やれ」という一言で、それを塵へと変える。

 

 

 

 便利屋と式神少女。

 

 

 

 人里ではいつしか、そんな二人の噂が広まっていた。

 

 奇妙な服を着た外来人の青年が、見たこともない強力な魔法を操る無口な少女を連れて、どんな厄介事も解決してくれる。

 

 そんな風評は、当初の好奇の視線を、次第に頼もしさを含んだ信頼へと変えていった。

 

 だが、どんなに里の人々と打ち解け、感謝の言葉を投げかけられても、アオの瞳が誰かを捉えることはない。彼女の世界に存在するのは、自分を呼び覚ました太陽と、それ以外の背景だけだった。

 

 人里の活気ある目抜き通りを、アサヒとアオは手慣れた足取りで進んでいく。一年前はあれほど突き刺さるようだった好奇の視線も、今では便利屋という日常の一部として、里の風景に溶け込んでいた。

 

 「ごしゅじんさま、あのお店。依頼主、まってる」

 

 アオが指し示したのは、里の外れに近い米問屋。

 

 今回の依頼は、近隣の森に夜な夜な現れていた異形の妖怪――「オオムカデ」の駆除だ。誰かに被害が及ぶ前に始末してほしいとのことだった。

 

 店先に立つと、中からかっぷくのいい主人が不安げな表情で飛び出してきた。

 

 「おお、アサヒさん! 待ってましたよ。それで、例の件は……」

 

 「終わりました。派手にやったので当分は他の妖怪も寄り付かないはずです」

 

 アサヒがそう告げると、主人は「ああ、よかった!」と、目に見えて安堵の表情を浮かべた。

 

 「さすがはアオちゃんとアサヒさんだ、本当に助かった。これ、約束の報酬と、それからこれはうちの蔵で獲れたばかりの新米だ。持っていってくれ!」

 

 差し出された報酬の入った袋と、ずっしりと重い米袋を受け取る。アサヒが受け取ろうとするより早く、アオが当然のように手を伸ばし、自らの能力で質量を軽減しながら、それをひょいと抱え上げた。

 

 「……ごしゅじんさま、荷物、もつ。わたしの、しごと」

 

 「いや、これくらいは----」と言いかけて、アサヒは苦笑して口を閉じた。一度こうなると、アオは頑として譲らない。

 

 「……相変わらず、仲のいいことで。アオちゃんも、アサヒさんの言うことしか聞かないんだから」

 

 主人が感心したように笑いかけるが、アオはその言葉に返事をすることもなく、ただアサヒの影に隠れるように寄り添う。

 

 「また何かあれば鈴奈庵か、寺小屋の方に伝言を入れておいてください」

 

 「ああ、頼りにしてるよ! 達者でな!」

 

 背後で振られる手を後に、アサヒは一つ息を吐いた。

 

 「……アオ、少しは里の人にも愛想を振りまいてみないか?」

 

 「……いらない。ごしゅじんさまの 声、だけ あれば」

 

 アオは表情一つ変えず、淡々と、けれど絶対の真理を口にするかのような響きで答えた。

 

 鈴奈庵へと向かう道すがら、アサヒの視線は自然と、自分の斜め後ろを歩くアオへと向けられた。

 

 彼女は、一年前と変わらぬ純白の衣を纏い、ただひたすらにアサヒの歩幅に合わせて歩いている。

 その姿は健気ですらあるが、同時にアサヒの胸中には、拭いきれない、そして誰にも打ち明けられない違和感が澱のように溜まっていた。

 

 (……どうして、ここまで俺なんだ?)

 

 アオがアサヒに抱く忠誠心は、もはや信仰に近い。

 

 かつて、一度だけ正面から問い詰めたことがあった。

 

 どうして、俺の言うことしか聞かないんだ? もっと自分の意思があってもいいんじゃないか、と。

 

 その時、アオはただ不思議そうに首を傾げるばかりで、アサヒにとっては、納得のいく答えではなかった。

 

 たまたま、あの時あの場所に自分がいて、たまたま、あの本を手に取った。ただそれだけの偶然が、彼女という強大な存在のすべてを縛る枷になっているのではないか。あるいは、彼女を実体化させた際に、強制的な隷属でも組み込まれていたのではないか?

 

 もし彼女に明確な思想があり、自分以外の言葉を受け入れる余地があれば、もっとこの世界を楽しめるのではないか?

 

 自分に万が一のことがあったとき、彼女はどうなってしまうのか?

 

 そうした疑念や不安は、いつしかアサヒの独り言にすらならなくなった。

 

 誰かに話せば、アオという存在そのものを否定してしまうような気がしたからだ。

 

 アリスに相談すれば贅沢な悩みと切り捨てられるのが目に見えている。

 

 だから、アサヒはこの思考を、自分だけの深い闇の中に閉じ込めている。

 

 「……ごしゅじんさま?」

 

 アオが足を止め、心配そうに考えに耽るアサヒの顔を覗き込んできた。

 その銀色の瞳には、偽りのない純粋な愛情と献身だけが宿っている。

 

 「……いや、なんでもないよ。少し考え事をしていただけ」

 

 アサヒは無理に口角を上げ、彼女の頭を軽く撫でた。

 

 手のひらから伝わる柔らかな髪の感触。

 

 それは生身の人間と何ら変わらない温もりを持っているのに、その内側にある理だけは、理解できずにいた。

 

 「ん。ごしゅじんさまが、元気なら、いい」

 

 アオは満足げに目を細め、再びアサヒの影に寄り添った。

 




次回に続きます

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