高度育成高等学校の空気が、いつもと違っていた。
それは、校舎の廊下に漂う静けさがいつもより深いとか、
教室に入ってくる生徒たちの足音が妙に重いとか、
そういう分かりやすい異変ではなく、もっと皮膚の内側を薄く撫でられるような、
まだ何も起きていないはずなのに、すでに何かが終わった後のような、
そんな奇妙な違和感だった。
堀北鈴音は自席に鞄を置き、椅子を引く前に一度だけ教室全体を見渡した。
誰も騒いでいない。
普段なら朝から無駄に明るい声を出す者や、
昨日の出来事を大げさに語る者や、
試験の結果を気にして落ち着かない者が一人や二人はいるはずなのに、
その日の教室は、まるで全員が同じ悪夢を別々の場所で見てきたかのように、
言葉を探しながら黙っていた。
「……変ね」
堀北は小さく呟いた。
特別試験の結果発表日。
それ自体は珍しいことではない。
この学校にいる限り、試験とは日常の延長であり、
勝敗とは教室の空気を塗り替える天候のようなものだ。
だが、今日の沈黙は敗北の沈黙ではなかった。
怒りでもない。
悔しさでもない。
恐怖ですらない。
むしろ、それは――理解できないものを前にした人間が、最初に選ぶ沈黙だった。
堀北が席に着こうとしたそのとき、教室の扉が開き、茶柱佐枝が入ってきた。
いつも通りの無表情。
いつも通りの歩幅。
いつも通りの黒いスーツ。
けれど、堀北には分かった。
ほんのわずかに、茶柱の視線が教室の一点を避けている。
そこは、綾小路清隆の席だった。
朝のホームルームが始まっても、綾小路は来ていなかった。
遅刻。
そう片付けるには、あまりにも静かすぎた。
「全員、席に着け」
茶柱の声は普段と変わらなかった。
それなのに、その声が教室の壁に当たって返ってくるまでの時間が、
いつもより長く感じられた。
誰も冗談を言わない。
誰も椅子を鳴らさない。
誰も、綾小路の空席について触れない。
その異常さが、逆にその空席を巨大な穴のように際立たせていた。
「昨日まで実施されていた特別試験、最適化選抜試験の正式な結果が確定した」
その名称が告げられた瞬間、教室の空気が微かに揺れた。
最適化選抜試験。
学年全体を対象とし、個人評価、班評価、協力行動、情報管理、
そして最終投票を組み合わせた複合型の特別試験。
ルールは複雑だった。
説明された時点では、誰もがいつものように思っていた。
また学校が面倒な制度を作ってきたのだと。
だが、終わってみれば違った。
あの試験は、単なる競争ではなかった。
一人一人の判断が、
別の誰かの逃げ道を少しずつ塞いでいくように設計された、冷たい迷路だった。
「結果は既に各自の端末にも送信されている。
クラス全体のポイント変動については後で確認しろ」
茶柱は淡々と続けた。
淡々としすぎていた。
それは教師として冷静であろうとしている態度ではなく、
感情を入れた瞬間に何かが崩れてしまうことを知っている人間の声だった。
堀北は机の上に置いた端末へ視線を落とした。
通知が一件。
試験結果通知。
指先が動かない。
普段の堀北なら、誰よりも早く結果を確認し、
点数、順位、ポイント、ペナルティ、今後の戦略まで一気に思考を進める。
だが、その日は違った。
開いてはいけない。
そんな幼稚な直感が、彼女の指を止めていた。
「茶柱先生」
沈黙を破ったのは平田だった。
彼の声は震えていなかったが、いつものような柔らかさもなかった。
「綾小路くんは……どうしたんですか」
その問いが出た瞬間、教室の全員が呼吸を止めたように見えた。
誰もが聞きたかった。
だが誰もが聞けなかった。
空席の意味を言葉にしてしまえば、それは現実になる。
そんな迷信じみた恐れが、教室全体を縛っていた。
茶柱は平田を見た。
それから、ほんの一瞬だけ堀北を見た。
その視線の意味を、堀北は理解できなかった。
理解したくなかった。
「綾小路清隆は、本日付で退学処分となった」
音が消えた。
本当に、教室から音が消えたように思えた。
窓の外で風が木々を揺らす音も、廊下を歩く足音も、
誰かが飲み込んだ息の音さえも、堀北の耳には届かなかった。
ただ、茶柱の言葉だけが、頭の中で何度も形を変えずに反響していた。
綾小路清隆は。
本日付で。
退学処分。
「……は?」
須藤が立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、やけに鋭く響いた。
「いや、ちょっと待てよ。退学って……綾小路が?なんでだよ」
誰も須藤を止めなかった。
止められるわけがなかった。
誰もが同じことを思っていたからだ。
なぜ綾小路なのか。
よりによって、なぜあいつなのか。
目立たず、騒がず、余計なことを言わず、けれど気づけばいつも必要な場所にいて、
誰かが崩れそうになる前に最低限の支えを差し出し、
勝利の中心には立たないくせに、敗北の決定的な瞬間だけはなぜか回避してきた男。
その綾小路清隆が、退学。
言葉だけなら成立する。
制度上もあり得る。
この学校では、誰であろうと退学になる可能性がある。
だが、それでも堀北の中にある何かが、強く否定していた。
綾小路清隆が、こんな形で消えるはずがない。
「理由を説明してください」
堀北は自分の声が思った以上に冷静だったことに、自分で少し驚いた。
しかし、内側は違った。
胸の奥で、氷の板のようなものが音もなく割れていく感覚があった。
「試験規定に基づく結果だ」
茶柱は答えた。
「それだけでは納得できません」
「納得する必要はない。結果は結果だ」
「綾小路くんの個人評価点は、退学ラインに届くようなものではなかったはずです」
堀北は端末を開いた。
指が自然に動き始めていた。
結果画面には班ごとの評価、個人ごとの加算と減算、
最終投票の履歴、クラスポイントの増減が並んでいる。
だが肝心な部分には閲覧制限がかかっていた。
退学者確定処理。
対象者、綾小路清隆。
理由、総合最適化判定。
その一文だけが、異様なまでに無機質に表示されていた。
総合最適化判定。
人間一人を学校から消す理由として、それはあまりにも綺麗すぎる言葉だった。
「先生」
堀北は顔を上げた。
「この総合最適化判定とは何ですか」
茶柱はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、堀北は確信に近いものを得た。
教師は知っている。
少なくとも、何かを隠している。
「今回の試験では、個人の得点だけでなく、
班全体、クラス全体、学年全体の損益が複合的に評価された。
その結果、最も排除による損失が少ないと判定された者が退学対象となる」
「排除による損失が少ない……?」
軽井沢の声がかすれた。
「そんなの、意味分かんない……」
幸村が小さく「ふざけるな」と呟いた。
松下が端末を握りしめた。
佐倉が泣きそうな顔で綾小路の席を見た。
堀北は、何も言わなかった。
言えば、何かを間違える気がした。
最も排除による損失が少ない者。
その言葉だけ聞けば、綾小路は確かに該当するのかもしれない。
目立った役職はない。
人望を広く集めているわけでもない。
クラスの表向きの中心でもない。
彼がいなくなっても、表面上の機能は止まらない。
だが、それは表面上の話だ。
堀北は知っている。
このクラスが何度も崩壊を免れてきた裏側に、彼の影があったことを。
自分が何度も前に進めた理由の一部が、彼の存在にあったことを。
それなのに、学校の判定は彼を損失が少ないと評価した。
まるで、人間の重さを数字で測り、その数字に名前を付けただけのように。
「本人は……綾小路くんは、何と言ったんですか」
堀北の問いに、茶柱は目を細めた。
「何も」
「何も?」
「あいつは結果を聞いても、異議を申し立てなかった」
教室がまたざわめいた。
異議を申し立てなかった。
それが何を意味するのか、誰にも分からなかった。
諦めたのか。
認めたのか。
あるいは、最初から知っていたのか。
堀北の胸の奥で、冷たいものがさらに深く沈んでいった。
「そんなわけないでしょう」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「綾小路くんが、何もせずに退学を受け入れるなんて」
茶柱は答えない。
その沈黙が肯定にも否定にも見えて、堀北の苛立ちは静かに増していった。
「先生。私はこの結果に異議を申し立てます」
「期限は過ぎている」
「では、確認請求を出します」
「それも認められない」
「なぜですか」
「今回の処理は試験終了時点で確定している。
生徒側からの再審請求は制度上存在しない」
完璧だった。
あまりにも完璧に閉ざされていた。
まるで、誰かが最初から逃げ道を塞ぐために作ったルールのように。
堀北はそこで初めて、自分の手が強く震えていることに気づいた。
怒りではない。
恐怖でもない。
これは、もっと質の悪い感情だ。
自分が理解できない盤面の上に立たされているという屈辱。
そして、その盤面の中心から、
綾小路清隆という存在がすでに取り除かれているという事実。
「……誰が」
堀北の口から、言葉が漏れた。
誰に向けたものでもなかった。
だが、その言葉は教室全体に落ちた。
「誰が、彼を退学にしたの」
誰も答えなかった。
平田も、須藤も、軽井沢も、櫛田も、松下も、佐藤も。
誰も。
全員が互いの顔を見た。
誰かが知っているはずだ。
誰かが関わっているはずだ。
誰かが押したはずだ。
誰かが選んだはずだ。
そうでなければ、綾小路清隆が退学になるはずがない。
だが同時に、堀北は思った。
もし、この教室の誰も知らないのだとしたら。
もし、龍園も、坂柳も、一之瀬も、南雲も、下級生たちさえも、
誰一人として自分がやったという自覚を持っていないのだとしたら。
それは、単独犯よりもずっと恐ろしい。
茶柱は出席簿を閉じた。
「ホームルームは以上だ。今日から通常授業に戻る」
通常授業。
その言葉に、教室の誰も反応しなかった。
綾小路清隆が退学になった朝に、通常など存在するはずがなかった。
茶柱が教室を出ていく。
扉が閉まる。
その音を合図にしたように、教室の中で押し殺されていた感情が一気に漏れ出した。
「ありえねえだろ……」
「なんで綾小路くんが……」
「誰か、何か知ってるんじゃないの?」
「でも、本人が何も言わなかったって……」
そのざわめきの中で、堀北だけは動かなかった。
端末の画面を見つめ続けていた。
退学者確定処理。
対象者、綾小路清隆。
理由、総合最適化判定。
何度読んでも、意味は変わらない。
けれど、堀北にはその言葉の裏に、別の文章が隠れているように見えた。
これは偶然ではない。
これは敗北ではない。
これは誰か一人の悪意でもない。
もっと大きく、もっと冷たく、もっと複雑な何かが、
綾小路清隆という存在を学校から切り離した。
堀北はゆっくりと立ち上がった。
軽井沢が顔を上げる。
「堀北さん……?」
その声には、不安と期待と、少しの縋るような響きが混ざっていた。
堀北は答えなかった。
答えられることなど、まだ何もない。
ただ一つだけ、決めたことがある。
「調べるわ」
その一言に、周囲の視線が集まった。
「綾小路くんがどうして退学になったのか。
誰が何をしたのか。何が彼をそこまで追い込んだのか。全部、調べる」
「でも……学校が認めないなら……」
「認めさせる必要はないわ」
堀北は端末を閉じた。
画面から消えた綾小路の名前が、逆に胸の奥に焼き付いた。
「私は、真実を知りたいだけ」
そのとき、堀北はまだ知らなかった。
自分がこれから追うことになる真実が、
誰か一人の名前に辿り着くものではないことを。
龍園翔でもなく。
坂柳有栖でもなく。
一之瀬帆波でもなく。
南雲雅でもなく。
七瀬翼でも、宝泉和臣でも、天沢一夏でもなく。
もっと残酷で、もっと逃げ場のない答えに辿り着くことを。
そしてその答えの中には、堀北鈴音自身の名前も含まれていることを。
綾小路清隆の席は、空いたままだった。
机の上には何もない。
教科書も、ノートも、筆箱もない。
まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、綺麗に片付いていた。
だが、椅子だけがわずかに引かれていた。
昨日まで誰かがそこに座っていたことを、かろうじて証明するように。
堀北はその椅子を見つめた。
胸の奥で、言葉にならない感情が静かに燃え始める。
怒りか。
後悔か。
執着か。
それとも、ようやく自分でも認めざるを得なくなった喪失感か。
名前を付けるには、まだ早かった。
だから堀北は、ただ一つの問いだけを胸に刻んだ。
誰が、綾小路清隆を退学にしたのか。
その問いは、教室の静寂の中で、音もなく刃のように研ぎ澄まされていった。