綾小路清隆の退学が告げられた朝から、
教室の空気は目に見えない膜を張られたように重く、
誰かが少し声を上げるだけで、その膜が破れてしまいそうな危うさを帯びていた。
だが、重さの感じ方は全員同じではなかった。
「いや、まあ……綾小路が退学ってのは驚いたけどさ」
最初に気まずそうに口を開いたのは池だった。
「でも正直、そこまでクラスに大ダメージかって言われると……どうなんだ?」
その一言で、教室の空気がさらに冷たくなった。
「ちょっと池くん、それ本気で言ってるの?」
軽井沢が低い声で言った。
池は慌てて手を振る。
「いや、悪口じゃねえよ。ただ、綾小路って目立つタイプじゃなかっただろ?
平田とか堀北とか櫛田みたいにクラスをまとめてたわけでもないし、
須藤みたいに体育系で点を取るわけでもないしさ」
「分かるかも」
篠原が小さく頷いた。
「退学は可哀想だと思うけど、綾小路くんがいなくなったからって、
クラスが急に崩壊する感じはしないっていうか……」
「だよな」
本堂も続いた。
「ぶっちゃけ、あいつって普通だったし。
何考えてるか分かんねえけど、特別すごいことしてた印象はない」
その瞬間、須藤の拳が机を叩いた。
鈍い音が教室に響き、池たちの肩が跳ねる。
「ふざけんなよ」
須藤の声は、怒鳴り声ではなかった。
だからこそ、余計に怖かった。
「お前ら、あいつにどれだけ助けられてきたか分かってねえのかよ」
「いや、助けられたって……」
池が言い返しかけたが、須藤の目を見て口を閉じた。
須藤は昔の自分なら、きっと池たちと同じようなことを言っていただろうと思った。
綾小路は地味だ。
綾小路は普通だ。
綾小路がいなくても何とかなる。
そう思っていた時期が、自分にもあった。
だからこそ、腹が立った。
池たちにではない。
そう見えるように振る舞い続けていた綾小路と、それを見抜けなかった自分自身に。
「俺が退学になりかけたとき、動いてくれたのは誰だと思ってんだよ」
須藤は歯を食いしばりながら言った。
「表で声を上げたのは鈴音かもしれねえ。平田も櫛田も動いてくれた。
でもな、あの時、俺が完全に終わらないように
裏で流れを作ってたのは、綾小路だったんだよ」
教室の何人かが、驚いたように目を見開いた。
池も篠原も本堂も、そこまでは知らなかった。
須藤は拳を握りしめたまま、綾小路の空席を見た。
「俺はバカだからよ、全部は分かんねえ。でも、あいつがいなかったら、
俺はとっくにこの教室にいなかったかもしれねえんだ」
「須藤くんの言う通りだよ」
平田が静かに口を開いた。
その声は穏やかだったが、いつものような柔らかい逃げ場はなかった。
「綾小路くんは、目立つ形でクラスを引っ張るタイプじゃなかった。
けれど、誰かが気づく前に危ない場所を埋めたり、
衝突が大きくなる前に流れを変えたり、
僕たちが見えていないところで何度も支えてくれていた」
「でも、それって具体的に何をしたんだよ」
本堂が納得できない様子で言った。
「何となくすごかったって言われても、正直分かんねえよ」
その問いは乱暴だったが、ある意味では当然だった。
見えない貢献は、見えないままでは評価されない。
綾小路清隆という生徒は、まさにその見えない場所に居続けた。
堀北はゆっくりと席を立った。
「なら、具体的に言うわ」
教室の視線が彼女に集まる。
「私たちがこのクラスで最初にクラスポイントを失ったとき、
綾小路くんは未熟だった私の判断の穴を埋めてくれた。
私が前に出すぎれば引き戻し、逆に踏み込めないときは、
私が自分で答えに辿り着いたように見える形で道を作った」
堀北はそこで一度言葉を切った。
認めたくはなかった。
だが、認めなければならなかった。
自分の成長の陰には、綾小路清隆がいた。
自分が実力で掴んだと思っていたものの中に、
彼がそっと差し込んだ足場がいくつもあった。
「彼は自分の手柄にしなかっただけよ。何もしていなかったわけではない」
「でも、堀北だって最初は綾小路のこと普通だって思ってただろ?」
池の言葉に、堀北はわずかに視線を落とした。
「いいえ」
短く、しかしはっきりと否定する。
「少なくとも私は、最初から普通ではないと思っていたわ」
その言葉に、池だけでなく周囲の空気もわずかに揺れる。
「無気力に見せる振る舞い、必要以上に目立たない立ち位置、
そして状況の把握の仕方、どれも、偶然や性格で片付けられるものではなかった」
堀北は静かに続ける。
「だからこそ、私は彼を使える存在として見ていた」
その言い方に、軽井沢がわずかに眉をひそめる。
「ただし、それは評価ではなく判断だったわ」
教室が静まり返る。
「私は彼の実力を認めていた。けれど、その意味を正しく理解していなかった」
その言葉は、自己弁護ではなく、明確な否定だった。
「彼がどれだけのものを見て、
どれだけの選択を裏で行っていたのか――そこまでは見えていなかった」
「……けどよ」
池はまだ納得しきれない顔をしていた。
「そんなすごいなら、なんで退学になったんだよ。
実力があるなら、回避できたんじゃねえのか?」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
それは全員が心の奥で抱いている疑問でもあった。
綾小路清隆なら防げたはずだ。
綾小路清隆なら逃げられたはずだ。
綾小路清隆なら、学校の理不尽すら利用して、
何事もなかったような顔で席に座っているはずだった。
それなのに、彼はいない。
軽井沢が唇を噛んだ。
「……清隆は、何でもできるわけじゃない」
その声は震えていた。
普段なら強がりで隠すはずの感情が、隠しきれずに滲んでいた。
「何でも分かって、何でも先回りして、何でも平気そうな顔してたけど……
だからって、傷つかないわけじゃないし、追い詰められないわけじゃない」
軽井沢は机の下で手を握りしめた。
彼女だけが知っている綾小路清隆がいた。
冷たいようで、必要なときには必ずそこにいてくれた綾小路。
自分が一番惨めで、一番弱くて、
一番誰にも見られたくなかった部分を知っていながら、
それを嘲笑わなかった綾小路。
そんな彼の存在を、池たちの「普通だった」の一言で
片付けられることが、どうしても許せなかった。
「彼がどれだけのことを背負ってたか、みんな知らないでしょ」
「軽井沢さん……」
「知らないくせに、いなくなっても平気みたいに言わないでよ」
その言葉は鋭かった。
だが、それ以上に痛々しかった。
篠原は気まずそうに目を伏せた。
「別に、平気って言ったわけじゃ……」
「同じよ」
軽井沢は遮った。
「分からないから軽く言えるのよ。
見えてなかったから、大したことないって思えるのよ」
櫛田がそこで、穏やかな声を挟んだ。
「でも、池くんたちの気持ちも少し分かるよ」
その言葉に、軽井沢がきっと櫛田を見る。
櫛田はいつものような笑顔を浮かべていなかった。
「綾小路くんって、自分から誰かに感謝されるようなことをしなかったから。
助けても、助けたって分からないようにするし、
頑張っても、頑張ってないみたいに見せるし、
きっと知らない人から見れば、本当にただ静かな男子に見えたと思う」
「櫛田、お前まで……」
須藤が言いかけるが、櫛田は首を振った。
「だからこそ、怖いんだよ」
彼女の声が少しだけ低くなる。
「見えないものは、簡単に切り捨てられる。
今回の試験がそうだったんじゃないかな」
教室の空気がまた変わった。
それは、綾小路個人への評価から、
今回の退学そのものへの疑念へと少しずつ向きを変えていく空気だった。
「表に出ている貢献だけを評価するなら、綾小路くんは低く見られる。
でも本当は、表に出なかった部分にこそ、彼の価値があった。
もし学校がそれを意図的に無視したなら……
ううん、もし私たち自身も無視していたなら」
櫛田はそこで言葉を止めた。
彼女は自分の中にある黒い感情を、表に出さないように慎重に蓋をした。
綾小路清隆を完全には信用していなかった。
利用しようとしたこともある。
邪魔だと思ったこともある。
だが、それでも彼がこのクラスにとって無価値だったとは絶対に思えなかった。
「私たちも、彼を見落としていたのかもしれない」
その言葉に、堀北は何も言わなかった。
言えなかった。
「……きよぽん」
教室の後方で、長谷部波瑠加がぽつりと呟いた。
その声は小さかったが、周囲の会話を一瞬で止めるほど重かった。
長谷部は綾小路の席を見ていた。
いや、見ているというより、
そこにまだ彼がいるように思い込もうとしているようだった。
「なんで、何も言わなかったんだろうね……」
誰も答えられない。
長谷部は無理に笑おうとした。
けれど、その笑みはすぐに崩れた。
「いつもそうだったよね。大事なことほど、何でもないみたいな顔してさ。
こっちが気づいたときには、もう全部終わってるの」
佐倉愛里は、ずっと俯いたままだった。
彼女の膝の上に置かれた手は震えていた。
「私……何もできなかった」
か細い声だった。
「清隆くんには、たくさん助けてもらったのに。
私が困ってたときも、怖かったときも、ちゃんと見てくれてたのに。
なのに、綾小路くんがいなくなるとき、私は何も知らなかった」
三宅明人が静かに息を吐いた。
「それは俺たちも同じだ」
彼は壁にもたれながら、低い声で続けた。
「清隆は、俺たちの前でもあまり自分のことを話さなかった。
無理に踏み込まれるのを嫌がってるようにも見えたし、
俺たちもそれでいいと思ってた。
けど、今になって思うと、それは距離を尊重していたんじゃなくて、
ただ見ないふりをしていただけなのかもしれない」
「みやっち……」
長谷部が苦しそうに名前を呼ぶ。
三宅は綾小路の空席から目を逸らさなかった。
「清隆は友達だった。少なくとも俺はそう思ってた。
でも、友達が退学になるような試験で、俺は何もできなかった」
「感情論だけで考えても仕方がない」
冷静な声が響いた。
幸村輝彦だった。
その発言に、長谷部が一瞬だけ怒ったように顔を上げる。
「ゆきむー、今それ言う?」
「ああ、言うべきだと思う」
幸村は眼鏡の位置を直しながら、端末の画面を見つめていた。
「残念だと思っていないわけじゃない。
むしろ、俺だってかなり動揺している。だが、感情だけで騒いでも何も分からない」
彼は端末を机の上に置いた。
「今回の退学処理は、個人評価点だけで決まっていない。
表示されているのは総合最適化判定。
つまり学校側は、綾小路を残すことと切ることを、
何らかの基準で比較した上で、切る方が全体最適だと判断したことになる」
「そんなの、おかしいだろ」
須藤が言う。
「もちろんおかしい」
幸村は即答した。
「だが、制度としては成立している可能性がある。厄介なのはそこだ。
学校が不正をしたのではなく、ルールの中で綾小路を
退学にできる構造を作っていたなら、正面から抗議しても覆らない」
堀北の目がわずかに細くなる。
幸村の分析は冷たい。
だが、必要だった。
感情で綾小路の価値を叫ぶだけでは、真相には近づけない。
「つまり、綾小路くんは誰かに嵌められたってこと?」
軽井沢が尋ねる。
「単純な意味では違うかもしれない」
幸村は慎重に言葉を選んだ。
「誰か一人が綾小路を狙ったなら、痕跡が残る。
だが今回の試験は、複数の要素が絡んでいる。
個人評価、班評価、クラス内投票、他クラスとの損益、
ポイント移動、行動ログ……それらが全部重なって、
最終的に綾小路が最も切りやすい生徒として浮かび上がった可能性がある」
「最も切りやすい……」
軽井沢が苦しそうに呟く。
その表現はあまりにも残酷だった。
だが、学校が彼をそう見たのなら、否定できない現実でもあった。
「綾小路は目立たない。表向きの役職もない。
周囲に過剰な信頼を集めているようにも見えない。
だから数値化された場合、彼の損失は低く見積もられる」
幸村は言葉を続けた。
「だが実際には、彼の価値は数値化しにくい部分にあった。
つまり、今回の試験は綾小路のようなタイプを排除するのに極めて相性が良かった」
堀北はその言葉を胸の中で反芻した。
綾小路のようなタイプを排除する試験。
それは偶然なのか。
それとも、誰かがそうなるように設計したのか。
「じゃあ、きよぽんは……学校にとって都合が悪かったから切られたってこと?」
長谷部の問いに、幸村はすぐには答えなかった。
「可能性の一つだ」
「もう一つは?」
「俺たちが、彼の価値を学校に示せなかった」
その言葉が、教室全体を刺した。
池も篠原も本堂も、言葉を失った。
さっきまで「大ダメージか分からない」と言っていた彼らでさえ、意味は理解できた。
自分たちが彼を軽く見ていたこと。
見えない貢献を知らなかったこと。
知らなかったから評価できなかったこと。
そしてその無理解が、今回の最適化に利用されたかもしれないこと。
「……俺たちのせいって言いたいのかよ」
池がかすれた声で言った。
幸村は首を横に振った。
「そう短絡的に言うつもりはない。だが、無関係だったとも言えない」
その言葉に、堀北はわずかに息を呑んだ。
無関係だったとも言えない。
それは、彼女がホームルームの終わりから胸の奥に抱えていた不安そのものだった。
誰か一人の犯人を探せばいい。
そう思いたかった。
龍園か。
坂柳か。
一之瀬か。
南雲か。
下級生か。
あるいは学校か。
けれど、もしそうではないのなら。
もし綾小路清隆の退学が、誰か一人の悪意ではなく、
全員の無理解と判断と沈黙の積み重ねによって生まれたものだとしたら。
「鈴音」
須藤が低く声をかけた。
「調べるんだよな」
「ええ」
堀北は即答した。
「なら俺も手伝う。難しいことは分かんねえけど、
綾小路がこのまま消えたままなんて納得できねえ」
「僕も協力するよ」
平田が続いた。
「彼が何をしてきたのか、何が評価されなかったのか、
それを整理する必要があると思う」
「私も」
櫛田が手を挙げた。
その笑顔はいつもの完璧なものではなく、少しだけ影を含んでいた。
「クラスのみんなから話を聞くなら、私が動いた方がいい場面もあると思う」
「……あたしも、やる」
軽井沢が小さく言った。
「何ができるか分かんないけど、何もしないのは嫌」
長谷部も顔を上げた。
「私たちも協力する。きよぽんのこと、ちゃんと覚えてる人間がいるって、証明したい」
佐倉は涙を拭いながら頷いた。
三宅も黙って頷く。
幸村は端末を操作しながら言った。
「まずは試験中の各自の行動記録を集めるべきだ。
誰が誰にポイントを渡したか、誰がどのタイミングで投票権を使ったか、
誰がどの情報を持っていたか。それを時系列で並べれば、
綾小路が退学対象に浮上した瞬間が見えてくるかもしれない」
堀北は頷いた。
ようやく、最初の一歩が見えた。
しかし、その一歩は希望ではなかった。
むしろ、踏み出せば踏み出すほど、
自分たちが見たくないものに近づいていく予感があった。
それでも、進むしかない。
綾小路清隆の空席がそこにある限り。
その席が、ただの空席ではなく、
自分たちが見落としてきたものの象徴として教室に残り続ける限り。
堀北は教室を見渡した。
池は気まずそうに俯いていた。
篠原は唇を噛み、本堂は何かを言いたそうにしながら黙っていた。
彼らを責めることは簡単だった。
だが、堀北には分かっていた。
自分も同じだった。
綾小路清隆を正しく見ていたつもりで、結局は見えていなかった。
彼の力も。
彼の孤独も。
彼がどれだけこのクラスの歪みを一人で受け止めていたのかも。
「まずは、このクラスから始めるわ」
堀北は静かに言った。
「綾小路くんが何をしてきたのか。
私たちが何を見落としていたのか。それを全部洗い出す」
誰も反対しなかった。
綾小路の席は、今日も空いたままだった。
だがその空席は、もうただの不在ではなかった。
そこには、今まで誰も正面から見ようとしなかった彼の重さが、
遅すぎるほど遅れて、教室全体にのしかかり始めていた。