綾小路清隆が退学したという事実は、
時間が経てば経つほど現実味を増すどころか、
むしろ輪郭を失っていくように堀北鈴音には思えた。
本来ならば、事実というものは調べれば調べるほど形を持つ。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
どの行動が結果につながり、どの選択が決定的な分岐点になったのか。
その線を一本ずつ拾っていけば、やがて真相という一点に辿り着く。
少なくとも、堀北はそう信じていた。
だが、綾小路清隆の退学だけは違った。
追えば追うほど遠ざかる。
掴もうとすれば指の間から抜け落ちる。
まるで、そこに確かに存在していたはずの人間が、
最初からこの学校に存在していなかったとでも言うように、
彼の退学に至る決定的な痕跡だけが、どこにも見当たらなかった。
「もう一度確認するわ」
放課後の教室。
堀北はホワイトボードの前に立ち、
机を囲むように集まったクラスメイトたちを見渡した。
参加しているのは、平田、櫛田、須藤、軽井沢、幸村、長谷部、三宅、佐倉。
そして、最初は気まずそうに距離を取っていた池、篠原、本堂たちも、
いつの間にか輪の端に加わっていた。
綾小路の退学を軽く見ていた彼らも、
前回の話し合い以降、完全に無関心ではいられなくなっていた。
試験の大まかな概要はこうだった。
今回の特別試験――「最適化選抜試験」は、
通常の筆記試験や単純なクラス対抗戦とはまるで性質が違っていた。
生徒たちは複数の班に分けられ、
試験期間中の行動、発言、協力、情報共有、ポイント移動、
投票判断などを総合的に記録される。
表向きの目的は、限られた資源の中でいかに班とクラス全体の損失を抑え、
最適な結果を導けるかを見るものだった。
だが、その本質はもっと冷酷だった。
この試験では、誰かを助ける行動が、
別の誰かの評価を相対的に下げることがある。
自分の班を守る選択が、他班の安全圏を狭めることがある。
善意で行ったポイント譲渡が、
巡り巡って別の生徒を退学候補へ押し上げることがある。
最終的に学校側は、個人評価点、班評価、クラスへの貢献度、
他者からの信頼値、損失補填コストなどを総合して、
一人の退学対象者を算出する。
つまりこの試験は、誰か一人を直接名指しして落とすものではない。
全員の小さな判断を集め、
その結果として「最も切り捨てても損失が少ない生徒」を選び出す試験だった。
しかも、その計算過程の大部分は非公開。
生徒たちに見えるのは、自分たちが選んだ行動と、最後に突きつけられる結果だけ。
だからこそ厄介だった。
誰も綾小路清隆を退学させようとした覚えはない。
それなのに、全員の選択が積み重なった先で、
彼の名前だけが退学者として浮かび上がっていた。
「今回の最適化選抜試験で、綾小路くんが退学対象として確定するまでに、
私たちのクラス内で行われた主な行動は三つ」
堀北はボードに文字を書く。
個人評価。
班内投票。
ポイント移動。
「まず、個人評価点に関しては、綾小路くんが極端に低かった形跡はない。
むしろ表示されている範囲では中位以上にいる」
幸村が端末を見ながら頷いた。
「そうだ。少なくとも個人能力の単純評価だけなら退学候補になる数字じゃない。
問題は、非公開項目と総合最適化判定の部分だ」
「班内投票は?」
平田が尋ねる。
堀北は端末を操作しながら答えた。
「私たちが確認できる範囲では、綾小路くんに直接票を集めた人間はいない。
少なくともクラス内で、彼を名指しして落とそうとした投票記録は見つからない」
「なら、やっぱり誰も綾小路を狙ってなかったってことか?」
須藤が苛立たしげに言った。
「狙っていなかったのに退学になった、というのが一番厄介なのよ」
堀北はボードに線を引いた。
「誰かが明確に綾小路くんを退学させようとしたなら、その人物を追えばいい。
でも今回の処理は、全員の行動を計算した結果として彼が浮上したように見える」
「でも、それって変じゃない?」
軽井沢が眉を寄せた。
「目立たないだけで普通に上手くやってたじゃん。
誰かに嫌われてたわけでもないし、班の中で邪魔だったわけでもない。
それなのに切るなら清隆ってなるの、おかしくない?」
「おかしいわ」
堀北は即答した。
「だから調べているの」
その言葉は冷静だったが、彼女自身も苛立っていた。
何度も同じ場所を回っている。
同じ資料を確認し、同じ証言を集め、
同じ仮説を立て、同じ場所で行き止まりになる。
綾小路清隆の退学には、確かに誰かの意思があるように見える。
だが、その意思の持ち主が見えない。
「池くん、あなたは試験二日目の昼、綾小路くんと同じ休憩エリアにいたわね」
突然名前を呼ばれた池は、びくっと肩を揺らした。
「え、あ、ああ……いたけど」
「そのとき、何か気づいたことは?」
「気づいたことって言われても……別に普通だったぞ。
いつも通り無表情で、何考えてるか分かんねえ感じで」
「誰かと話していた?」
「えっと……たしか、平田と少し話してたかな。あと、軽井沢とも一瞬」
軽井沢が視線を逸らす。
「普通の確認よ。試験の進み具合とか、班の状況とか」
堀北は頷いた。
「篠原さんは?」
「私も特に……ただ、綾小路くんが誰かを説得してるとか、
焦ってるとか、そういう感じはなかったと思う」
本堂も同じだった。
何も知らない。
何も見ていない。
何も聞いていない。
その答えが積み重なるほど、綾小路の退学は不気味さを増していった。
「櫛田さん」
堀北が視線を向けると、櫛田は静かに頷いた。
「私はクラスの何人かから話を聞いてみたけど、
綾小路くんを意図的に落とそうとしていた人はいないと思う。
少なくとも、表立ってそういう話をしていた人はいなかった」
「裏でなら?」
堀北の問いに、櫛田は一瞬だけ笑みを消した。
「それを完全に否定することはできないよ。
でも、もし誰かが裏で動いていたとしても、かなり慎重だったと思う。
噂にもならないくらいだから」
「つまり、クラス内の単独犯説は薄い」
幸村がまとめるように言った。
「だが、全員が少しずつ影響した可能性は残る。特にポイント移動だ」
その言葉に、堀北はボードの三つ目の項目を丸で囲んだ。
ポイント移動。
今回の試験では、班ごとの安全度を高めるために
個人ポイントや評価ポイントを一時的に移動させることが可能だった。
一見すれば協力を促す仕組み。
だが、使い方を間違えれば、誰かの安全圏を押し上げる代わりに、
別の誰かの相対的な価値を下げる。
「私たちのクラスでは、複数のポイント移動が行われた」
堀北は言った。
「それ自体は違反ではないし、むしろ合理的な判断だった。
問題は、それらが重なった結果、綾小路くんの位置がどう変化したのか」
「でも、ポイントを動かした奴が犯人ってわけじゃねえんだろ?」
須藤が腕を組む。
「ええ。そこが難しいの」
堀北は黒板を見つめる。
「誰かを守るための移動が、結果的に綾小路くんの価値を下げた可能性がある。
悪意ではなく、保身や善意や合理判断が積み重なった結果として」
教室が沈黙する。
誰もが、自分の端末に残る試験中の選択を思い出していた。
自分の班を守るため。
友人を守るため。
クラスの損失を減らすため。
少しでも有利になるため。
そのときは正しいと思って選んだ行動が、今になって別の意味を持ち始めていた。
「それで、次は誰に聞くんだ?」
三宅が尋ねた。
堀北は少しだけ視線を横へ向けた。
「まだ一人、確認していない人間がいるわ」
その言葉で、何人かが同時に同じ人物を思い浮かべた。
高円寺六助。
このクラスの中で、最も読めない男。
そして、綾小路清隆とは別の意味で、学校の常識から外れた存在。
「高円寺が素直に答えるとは思えないけどな」
幸村が呟く。
「それでも訊く必要があるわ」
堀北はそう言って、教室の後方へ歩いた。
高円寺はいつものように席に座り、鏡のように磨かれた爪を眺めていた。
綾小路の退学など、彼の世界には一切影響を与えていないかのようだった。
「高円寺くん」
「ふむ。何かな、堀北ガール」
いつも通りの調子。
その余裕が、今はひどく癇に障った。
「綾小路くんの退学について、あなたが何か知っていることはある?」
高円寺はわずかに眉を上げた。
「ノーだね」
あまりにも早い返答だった。
「まだ質問の途中よ」
「必要ないさ。私は彼を退学させようとした覚えもなければ、
彼が退学になるような仕掛けに関わった覚えもない。つまり答えはノーだ」
「本当に何も知らないの?」
「知っていることならある」
堀北の目が細くなる。
「何?」
高円寺は優雅に足を組み替えた。
「彼が、君たちが思っているよりはるかに興味深い男だったということだ」
その言葉に、軽井沢が小さく反応した。
堀北は一歩踏み込む。
「それはどういう意味?」
「そのままの意味さ。彼は自分を凡人に見せることに長けていた。
だが、私のような美しい存在から見れば、完全に隠しきれていたわけではない」
「なら、なぜ彼が退学になったと思う?」
「さあね」
高円寺は笑った。
「強い者が常に勝つとは限らない。
特に、この学校のようにルールという名の檻の中で競わせる場所ではねぇ」
「あなたは、彼が負けたと思っているの?」
「負けたかどうかは、本人がどう定義するかによる」
堀北は息を呑んだ。
高円寺の答えはいつも煙に巻くようでありながら、ときおり核心に近い場所を撫でる。
「少なくとも私は、彼が何も分からないまま退場したとは思っていない」
「それは、彼が自分の退学を予測していたという意味?」
「そこまでは言っていないよ」
高円寺は楽しげに笑う。
「ただ、もし彼ほどの人間が本当に何も知らずに退学したのだとすれば、
それは彼の敗北ではなく、この学校が異常なほどよくできた罠だったということになる」
その言葉は、堀北の胸に重く沈んだ。
学校が異常なほどよくできた罠。
高円寺はそれ以上語らなかった。
問い詰めても、彼は
「私は私の美しさを損なう推理には興味がない」と言って、話を終わらせた。
結局、高円寺からも決定的な情報は得られなかった。
だが、彼の一言だけは残った。
綾小路は、何も分からないまま退場したわけではないかもしれない。
その可能性は、希望ではなかった。
むしろ、もっと深い不安だった。
「堀北さん」
高円寺への尋問が終わり、堀北が席へ戻ろうとしたとき、声をかけてきた人物がいた。
松下千秋だった。
普段は目立ちすぎず、周囲に合わせ、ほどほどの立ち位置を保っている女子。
だが堀北は以前から、彼女が単なる普通の生徒ではないことに気づいていた。
「何かしら」
「私も協力させてもらえないかな」
その申し出に、堀北は少しだけ驚いた。
「あなたが?」
「うん」
松下は困ったように笑った。
「正直、綾小路くんの退学は私も引っかかってる。
彼が普通じゃないことは、何となく分かってたから」
軽井沢が眉を寄せる。
「何となくって?」
「そのままの意味。彼って、目立たないように振る舞うのが上手すぎたんだよ。
普通の人って、普通に見せようとするとどこかで無理が出る。
でも綾小路くんは違った。何もしないことすら、計算しているみたいに自然だった」
堀北は松下を見つめた。
「あなたも実力を隠している側の人間だから、そう見えたということ?」
松下は一瞬だけ苦笑した。
「堀北さんって、そういうところ容赦ないよね」
「否定しないのね」
「今さら否定しても仕方ないでしょ」
松下は肩をすくめた。
「私は綾小路くんほどじゃないけど、自分の立ち位置を調整することには慣れてる。
だから分かるんだよ。彼の普通は、普通じゃなかった」
「なら、試験中に何か気づいたことは?」
「決定的なことは何も」
松下は真剣な表情になった。
「でも一つだけ気になることがある」
「何?」
「綾小路くん、試験後半から明らかに動きが減ってた」
その言葉に、幸村が反応する。
「動きが減っていた?」
「うん。彼って、表向きは何もしてないように見えるけど、
実際は誰かと短く話したり、端末を確認したり、少しずつ位置を調整していた。
でも後半は、それが急に減ったように見えた」
「体調不良?」
平田が尋ねる。
「そういう感じじゃなかったと思う。むしろ、何かを待っているように見えた」
堀北の胸がざわつく。
「待っている?」
「うん。自分から動くんじゃなくて、結果が出るのを見ているような……
ごめん、感覚的な話だから証拠にはならないけど」
「いいえ、十分よ」
堀北は短く答えた。
初めてだった。
綾小路の退学に関して、彼自身の不審な動きが証言されたのは。
ただし、それもまた決定打ではない。
彼が何かを待っていたとして、それは何か。
退学を避けるための機会か。
誰かの行動か。
それとも、自分が切られる瞬間そのものか。
「松下さん、試験中のあなたの行動記録も見せてもらえる?」
「もちろん」
「助かるわ」
松下は頷いた。
「私も知りたいから。綾小路くんが、どうして消えたのか」
そうして、クラス内の調査はさらに細かく進められた。
池の行動記録。
篠原の投票履歴。
本堂の班内評価。
松下の観察。
櫛田が聞き出したクラスメイトたちの証言。
平田がまとめた班ごとの関係図。
幸村が組んだ時系列表。
堀北はそれらを一つずつ並べていった。
だが、結果は変わらなかった。
誰も綾小路を直接狙っていない。
誰も決定的な票を投じていない。
誰も彼を退学にするために動いていない。
それなのに、最終結果だけが綾小路清隆の退学を示している。
まるで、全員が白い絵の具を一滴ずつ落としていったはずなのに、
完成した絵だけが黒く塗り潰されていたようだった。
「駄目だ」
夜に近い放課後、幸村が疲れた声で言った。
「クラス内だけでは説明がつかない」
机の上には、いくつもの端末とメモが並んでいた。
「ポイント移動も、投票も、行動評価も、
確かに綾小路に不利に働いた可能性はある。
でもそれだけじゃ弱い。退学対象に確定させるには、外部要因が必要だ」
「外部要因……」
堀北が呟く。
「他クラスだね」
平田が静かに言った。
その言葉に、全員の視線が集まった。
他クラス。
龍園翔。
坂柳有栖。
一之瀬帆波。
そして上級生の南雲雅。
もしくは下級生。
今回の試験はクラス内だけで完結していなかった。
学年全体、さらに一部他学年の制度介入まで含む複合型試験。
自分たちのクラスだけを見ていても、真相に辿り着けないのは当然だった。
「龍園なら、何か知ってるかもしれない」
須藤が低く言った。
「綾小路と因縁があるしな」
「坂柳さんも外せないわ」
堀北は続けた。
「彼女は綾小路くんの実力に気づいていた数少ない人物の一人。
今回の試験で彼をどう見ていたのか、確認する必要がある」
「一之瀬さんは?」
櫛田が尋ねる。
「彼女も調べる」
堀北の声は硬かった。
「善意で動く人間ほど、今回の試験では重要な鍵になる可能性がある」
軽井沢が少しだけ顔を曇らせた。
「それって、一之瀬さんが悪いってこと?」
「そうは言っていないわ」
堀北は首を振った。
「でも、悪意がなくても人は誰かを追い込める。
今回の試験がそういう構造なら、彼女の行動も確認しなければならない」
その言葉は、教室に残っていた全員の胸に重く響いた。
悪意がなくても、人は誰かを追い込める。
それは、池たちだけでなく、堀北自身にも突き刺さる言葉だった。
「明日から他クラスに聞き取りを始めるわ」
堀北は言った。
「まずは龍園くん。次に坂柳さんか一之瀬さん。必要なら他学年にも接触する」
「簡単に話してくれるとは思えないけどな」
幸村が言う。
「分かっているわ」
堀北は綾小路の空席を見た。
「でも、ここで止まるわけにはいかない」
窓の外はすでに暗くなっていた。
教室の照明だけが白く浮かび、綾小路の席に細い影を落としている。
その影は、まるでまだ誰かがそこに座っているようにも見えた。
堀北はその席から目を逸らさなかった。
調査は難航している。
得られたものは少ない。
分かったことは、分からないことが多すぎるという事実だけ。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
綾小路清隆の退学は、クラスの中だけで完結した事件ではない。
この学校全体が、彼を飲み込んだ。
ならば、次に向かうべき場所は決まっている。
「龍園くん……」
堀北は小さくその名を呟いた。
暴力と策略で相手を追い詰める男。
かつて綾小路清隆に敗れ、それでも彼の存在を誰よりも強く意識していた男。
彼なら、何かを知っているかもしれない。
あるいは、何も知らないと言うかもしれない。
だが、それでも聞かなければならない。
誰が綾小路清隆を退学にしたのか。
その答えに辿り着くために、
堀北鈴音はようやく、教室の外へ足を踏み出す覚悟を固めていた。