目を開けた瞬間、白い光の名残がゆっくりと消えていって、その代わりに視界へ流れ込んできたのは、やわらかく差し込む自然の光だった。まぶたの奥に残っていた感覚が現実へと引き戻されるように薄れていくのを感じながら、ゆっくりと上体を起こす。
身体はちゃんと動くし、どこか痛むような場所もない。交通事故の直後とは思えないほど静かで、むしろ何も起きていなかったかのように穏やかな空気に包まれていることが、不思議と現実味を強くしていた。
「……来たんだな」
小さく呟いて、周囲を見渡す。足元に広がるのは柔らかな草で、風に揺れる音が静かに耳へ届く。遠くには森が見えて、その向こうには緩やかな起伏の地形が続いている。人の気配はまったくなくて、ただ自然だけがそこにある。
こういう景色を、ずっと見ていたかったんだよなと、前の世界で思っていたことがふと蘇る。忙しさに追われる中で、画面越しにしか見られなかった風景が、今は手を伸ばせば届く距離にある。
しばらくその場に立っていると、視界の端に建物が見えた。木でできた家がひとつ、ぽつんと置かれているように立っている。
「あれが、拠点か」
神様が言っていた言葉を思い出しながら、ゆっくりと歩き出す。急ぐ理由はないし、焦る必要もない。ただ、この場所をちゃんと感じながら進んでいきたいと思った。
家に近づくにつれて、その造りがはっきり見えてくる。木の温もりを感じる外観で、周囲の自然に溶け込むような色合いをしている。新しいはずなのに、どこか馴染むような落ち着きがあるのが不思議だった。
扉の前で一度足を止める。この先にあるのが、自分の生活になるんだと思うと、ほんの少しだけ気持ちが引き締まる。
「……入ってみようか」
軽く息を吐いてから扉を開けると、内側にも同じような木の香りが広がっていた。外と同じように穏やかな空気が流れていて、誰もいないはずなのに、妙に居心地がいい。
室内をゆっくり見渡す。テーブルと椅子、簡素だけど使いやすそうなキッチン、奥にはもう一部屋ありそうな構造で、生活するための形はすでに整っているように見えた。
「思ってたよりちゃんとしてるな」
ただ用意されているだけじゃなくて、ちゃんと“暮らす場所”として作られている感じがある。ここで過ごす時間を想像してみると、不思議と違和感がなかった。
その時、視線が自然とテーブルの上へ向いた。
そこに置かれていたのは、ひとつのモンスターボールと、見覚えのある機械だった。
「……ロトム図鑑か」
画面越しに何度も見てきたそれが、今は目の前に実物として存在している。現実感が一気に強くなって、思わず少しだけ息を吐く。
先に手を伸ばしたのはモンスターボールの方だった。手のひらに収まる感触と、中に何かがいると分かるわずかな重みが伝わってくる。
「中にいるんだよな」
小さく確認するように呟いてから、ボタンに指をかける。軽く押すと、赤い光が弾けるように広がった。
光が収束した先に現れたのは、ヒノアラシだった。
小さな体を少しだけ縮めて、こちらの様子をうかがうように見上げてくる。背中の炎はまだ小さく、警戒しているのか、それとも様子を見ているのか、判断がつきにくい距離感だった。
「……はじめまして」
ゆっくりと声をかける。近づきすぎないように、その場に立ったまま様子を見ると、ヒノアラシはわずかに身体を揺らしたあと、動きを止めた。
完全に警戒しているわけではないけど、すぐに距離が縮まる感じでもなさそうだと分かる。その反応に、無理に触れようとは思わなかった。
「これから、一緒に過ごすことになると思うけど……無理しなくていいから」
自分でも少し曖昧な言い方だと思ったけれど、今はそれでいい気がした。時間をかけて、少しずつ慣れていけばいい。
ヒノアラシはその言葉に対して何か返すわけではなかったけれど、完全に視線を逸らすこともなく、その場にとどまっている。それだけでも十分だと思えた。
その時、背後から電子音が鳴る。
振り返ると、テーブルの上にあったロトム図鑑がふわりと浮かび上がっていた。
「起動確認ロト!新規トレーナー登録完了ロト!」
突然の賑やかな声に、思わず少しだけ目を細める。静かな空間とのギャップが強くて、意識がそちらへ引き寄せられる。
「……ちゃんと動くんだな」
「当然ロト!ボクはロトム図鑑ロト!サポートは任せるロト!」
元気よく言い切る様子を見て、ああ、このテンションで来るんだなと理解する。
「頼りにしてるよ」
そう返すと、ロトム図鑑は満足そうにくるりと回った。
「ここは専用の拠点ロト!外の世界とは切り離された安全な場所ロト!」
「なるほど、そういう仕組みか」
説明を聞きながら室内をもう一度見渡す。確かに、外の気配とは少し違う安定感があるように感じる。
「生活に必要なことは全部自動管理ロト!料理も掃除も問題なしロト!」
「助かるな、それは」
何もしなくても生活が回るというのは、思っていた以上にありがたい。時間を自由に使えるということでもある。
「材料も自動供給ロト!食べ物に困ることはないロト!」
「それなら安心だね」
生活の不安がないというだけで、かなり気持ちに余裕ができるのを感じる。
「そして転移機能ロト!」
ロトム図鑑が少しだけ声のトーンを上げる。
「行きたい場所を伝えれば、ゲートを開いて一瞬で移動できるロト!」
「じゃあ、好きな場所にすぐ行けるのか」
「その通りロト!」
頷きながら、その機能の便利さを改めて考える。移動に時間を取られない分、本当にやりたいことに集中できる。
「ここが拠点で、外に行って戻ってくるって感じになるんだな」
「理解が早いロト!」
ロトム図鑑が楽しそうに反応するのを見て、少しだけ笑う。
ひと通りの説明を聞き終えて、頭の中で状況を整理する。安全な場所があって、生活は整っていて、好きな場所に自由に行ける。
「……いい環境だな」
自然とそう思えた。
視線を横に向けると、ヒノアラシがまだ少し離れた位置からこちらを見ている。その距離感が、今の関係をそのまま表しているようで、無理に縮めようとは思わなかった。
「まずは、少し外も見てみるか」
ゆっくりとそう呟いてから、ロトム図鑑の方へ視線を向ける。
これからどこへ行こうかと考えながら、少しだけ楽しみが胸の中に広がっていくのを感じていた。