過去に文字通りの一国一城を落としながら、主の輝きに焼かれて自分に価値を見出せない大妖怪
その輝きを腐す猫に怒りを覚え、元凶と知った橋姫に苦言を呈しに訪れた
「あの方にとっては私など、有象無象と大差ないさ」
恍惚とした八雲の式が何か言っている。
それは客観的に見ているようで、馬鹿みたいに主観的な評価だった。
いくつもの傾国を成した自分が他と大差なく見えるほどに、自分の主を遥か上だと仰ぐのは、見えないはずの月に酔って夜空を見上げているようだ。
眠ってもいないのにふらふらと、夢遊病よりもひどい有様で。
優秀な従者の一人と把握していたが、その実、猫よりよっぽど主を見ていない只の信者だったようだ。
目を焼くほどに素晴らしい主が居るのに、ろくに見もしないで決めつけるように話すだけで、式に選ばれた自覚さえない。
そのくせプライドばかり高く、究極こちらに伝える気さえ無いのだろう、ただの一人喋りが癖になっている。
これだから八雲は、と白けた目で苛立ちながら橋姫は毒を吐く。
「式神のくせに主の盲目を疑うのね」
ご立派な従者様だわ、と鼻で笑うと、九尾の顔が無に戻った。
そういえば声を掛けられた時もこんな顔だったな、と橋姫は思い返す。
案の定というべきか、あの何も考えていない猫からしっかり伝わったらしい。
地霊殿に訪れた八雲に対して「自分の主の方が上だ」という意識が露骨に態度に出ていたようで、それがどうやらこの従者にはとても効いたらしい。
さとりとも話して、おそらく誘導したのが自分だと察せられたのだろう。
今と同じ無の表情をした藍が唐突に表れて、挨拶もそこそこに長々と苦言を呈された。
やれ余計な評を立てるな、能力を求めるのは必要だからだ、そもそもあの方の深慮を凡人が云々、八雲はすべてを見て云々。
途中から関係ない八雲家話になっている様子を見て(猫と同じ扱いでいいか)と適当に主の話を振ったのが間違いだったのだろう。
気持ちの悪いテンションで、自身を含めた主以外の者をすべて卑下する褒め方をし始めた。
いい加減聞いてられなくなって揚げ足の一つでも取ってみれば、藍の語りがぷつりと止まってしまった。
鼻で笑う。
「凡人やら木端やら有象無象やら、わざわざ頭の悪いまとめ方までして。本人が言うならただの傲慢で済むけれど、従者が言うと余計に馬鹿みたいね。あんたも、あんたのかしこい主様も」
「……おい」
これにもまた、効いてしまったらしい。
遮る言葉は鋭く、しかし情けない。
反射でかけた静止の言葉は何の論もなく、嫌だとぐずる幼子のようだ。
漂う怒気だけ一丁前に、ただ怒っていると示すことしかできない様子には橋姫も眉根を下げるしかない。
そんな相手に掛ける心配の言葉は雰囲気だけが柔らかく、ただ幼子に対するように、どこまでも下に見ている響きがありありと見て取れた。
「そんなに周りが見えてないんだもの。あの悪趣味な目玉も飾りなんでしょう?一々動かす手間もあるのに大変ね。さとり達に手伝ってもらったら?」
ああ、でも紐が見えちゃまずいから、お得意のスキマで隠さないと。
ただそうなると本物っぽくはなるけれど、手間は変わらないかしら。
ごめんなさい。
私は頭が悪いから、貴方達の大切なお仕事は手伝えそうにないわ。
そう言い切る間もなく、轟音とともに二人の立っていた橋が半壊した。
辺りを満たしていた怒気は疾うに殺意にまで変わっていたようだ。
振り切られた拳をわざと軽く見えるように避けた橋姫は、破片が降る様を背に、藍の顔をくるくると指差しながら歪に笑う。
「……顔に付いてる方まで節穴ね」
後に聞けば、地獄中に轟いた咆哮は二日酔いの鬼さえ跳ね起きるものだったという。
――
「はいはい。どうどう。それ以上やると死んじまうから」
全力を込めてもビタと動かない勇義に腹を抱えるように担がれて、ようやく藍の猛りが物理的に止められた。
陰湿な煽りは殴られながらも止まず。
無事で済んでいる場所が無いほどボロボロにされてなお口端で笑い、中指を立てて見せた橋姫はもう随分前から虫の息だ。
今も家ほど抉れた河原に倒れたまま、盛大に血を吐いている。
「やり過ぎかどうかは知らんがね。喧嘩のうちに留めておきな」
至極冷静なその言葉に、ルールを忘れて本性を現していた九尾も沈黙するしかない。
諭すように強く叩かれた肩の痛みに気を取られている間に、鬼は橋姫を見舞っていたようだ。
まだ死んでいないことを確認して、気付けのつもりなのか酒を少量飲ませたようで、溺れるように苦しむパルスィを笑っている。
その後に一言二言、耳を寄せて何かを聞いてから、一つ溜息を付いてこちらに帰ってきた。
「放っておいていいそうだ。あんたも気が済んだことにして、今は帰んな」
川の形が変わってしまった周りを見て、未だ並々ならぬ感情を燻ぶらせる狐を見て、困ったもんだと勇義は言う。
分かるけど。
収めろと。
『八雲』を見て掛けられたその言葉に、藍はしばし目を閉じる。
怒りは欠片も収まらず、しかし勇義に止められてしまってはどうしようもない。
極力見ないようにして、後は任せて、今は去るしかないのだろう。
深い深い溜息を付いて、傍に落ちていた帽子を拾う。
「憂さ晴らしなら私とやるかい?」
「いや。結構だ」
心遣いと、おそらく一抹の期待を乗せて掛けられた言葉には否定を返す。
そうして軽く土埃を払ったところで、少し残念そうな勇義と目が合った。
「……何か言っていたか?」
その問いが出たのは無意識のものだった。
間違っても弁解や言い訳が聞けると思ったわけではない。
ただ帰り支度という程でもない、落ち着きついでの体裁を整える間にふと、口をついて出てしまっただけだった。
瀕死の彼女は、最後になってもまだ何か言っていたのか。
問われた勇義は一瞬だけ迷ったように片眉を上げたが、すぐに答えを返した。
「子供の相手をしただけ、だとさ」
素直に伝えられた言葉は、そうでなくとも勇義にまで煽られているようだった。
手を止めた藍は逆立つ毛を抑えるように三度沈黙し、努めて橋姫にも勇義にも目を向けないように、静かにスキマを渡った。
「……乗ってくれても良かったんだがな」
後には死に体の橋姫と、笑う鬼だけが残っていた。