総理大臣、ダンジョンを駆ける~憲政史上最低支持率◤4.6%◢の総理大臣がダンジョンで無双した結果、日本までもが無双する~ 作:三月菫
死者の回廊で、迅一郎の前に立ちはだかる階層主。
その正体不明の敵に、彼は仮の名を与えた。
〝夜叉〟と――。
無機質なコンソールとモニターに囲まれたうす暗いモニタールームにて。
通信越しにその言葉を聞いた瞬間、結月は思わず声を張り上げた。
「総理! 逃げてください!」
自分の声が、はっきりと震えているのを自覚する。
冷静沈着を信条とする自分が、ここまで取り乱すのは初めてのことだった。
「レーダーには一切敵性反応がありません! 敵は
敵性反応を示すサブモニターには、何の反応も映らない。
ノイズのような霧の波形だけが流れ続けている。
その事実が、未知の階層種が持つ
それは、ダンジョンにおいて自身の存在を遮断する能力。
通常、ダンジョンに出現するモンスターは体内に大量の瘴気を蓄えており、探索者はその瘴気濃度をレーダー等の計測機器で察知、計測することで敵の位置を把握している。
しかし、ステルス技能があるモンスターは、その瘴気の流出を完全に遮断し、感知を不可能にしてしまう。
ゆえに、探索者は自らの感覚だけで戦うしかない。
俗に、
しかもここ、恐山ダンジョンにおいては立ち込める濃霧が五感を狂わせる。
これまでこの回廊を抜けた探索者は一人もいない。
皆、あのダンチューバー紅マロのように、何が起きたかも分からぬままに、無惨に斬り伏せられたのだろう。
さしもの迅一郎とて、命の保証はない。
そんな死の予感が、結月の胸を締めつける。
「総理、至急撤退を——! 撤退ルートのパターンを算出します!」
結月は唇を噛みしめ、震える声を張り上げた。
「……!? 入口が!? 消失している……!?」
マップ情報を確認すると、入口の表示が消えていた。
一度入ったら戻れない――一方通行の構造だ。
ダンジョンでは珍しくない仕掛けだが、結月はそれを見落としていた。
焦りで、目の前の情報を正しく処理できていない。
『まずは落ち着こう、白瀬くん——』
その一方で、迅一郎の声は落ち着き払っていた。
『至急、救護班の派遣手続きを。これまでの探索でルートは
「総理! そんなことよりも今は撤退を――!」
『撤退ルートは塞がれている。おそらく階層主を倒すことで扉が開かれる仕組みだろう。敵との戦闘は避けられない』
「そう、り……!」
その静かな声に、結月の心が揺れる。
死の気配が渦巻く現場にいるはずなのに、迅一郎はいつも通り——いや、いつも以上に落ち着き払って、淡々と指示を出していた。
『敵の外見特徴から、これより敵を〝夜叉〟と仮称。君の方では夜叉の正体特定に向けて、分析を頼む。並列処理になるが、なに、君の事務処理能力なら造作もないことだろう——』
この人は、どうしてこの状況で、そんな冷静でいられるのか。
普通の人間なら、恐怖に押しつぶされてもおかしくないはずなのに。
それが、余計に結月の胸を締めつけた。
彼女が恐れているのは、夜叉そのものではなかった。
迅一郎——自分の最愛の人が、命の危険を顧みずに前へ進むこと。
その結果、喪われてしまうもの。
それが、何よりも恐ろしい。
現に結月は
迅一郎の亡き妻クリス——
結月にとって彼女は、恩人であり、憧れであり、かけがえのない友人だった。
そんなクリスが命を落とした理由は、自分ではない誰かの命を優先したからだ。クリスは小さな命の灯を守ることと引き換えに、自分の命を散らしてしまった。
今の迅一郎も、あのときのクリスと同じだ——
いや、そんな気高い二人だからこそ、惹かれ合ったのだろう。
結月の胸に、あの日の悲しみの記憶がはっきりとよみがえる。
とても、冷静でいることなどできなかった。
『大丈夫だ。
「え……?」
そんな彼女の名前を、迅一郎はゆっくりと呼んだ。
それは公の場では決して口にしない、二人の時だけの特別な呼び名。
『僕は死なない。なぜなら僕には昴くんとの約束があるからね』
「昴くんとの……約束、ですか?」
『彼の病を治すため、全力で応援をする。僕はそう彼と約束をした。少なくともその約束を果たすまでは、僕は死ぬわけにはいかない』
迅一郎の言葉に、結月は息をのむ。
彼の政治家としての覚悟と信念が、通信越しに、ひしひしと伝わってきた。
どんな危機的状況にあっても、彼は決して迷わない——
それが和泉迅一郎という人間なのだと改めて思い知らされる。
『結月、バックアップを頼む。この死地を脱するためには、君の力が必要だ』
「先輩……」
迅一郎の言葉が、結月の胸を熱くする。
同時に胸の奥に込み上げてきたのは、自分を恥じる気持ちだった。
死地に身を置く迅一郎と比べて、自分は安全が保証されたオペレータールームにいる。
それにもかかわらず、無様に取り乱し、必要な後方支援がおろそかになっていた。
そんなことでどうする。
本当に迅一郎を死なせたくないなら、自分にはやらなければいけないことがある。
自分が、迅一郎を支えなくてはならないのだ!
「……っ!」
結月は小さく息を吸い、両手で思いきい自分の頬を叩く。
ばしん、と乾いた音が室内に響いた。
頬にじんじんと響く痛みとともに意識が澄み渡り、彼女はまっすぐ前を向いた。
「申し訳ありませんでした
結月は姿勢を正し、真剣な声で言葉を紡いだ。
「総理、恐山ダンジョンの特性を顧みるに、敵は
そう言うやいなや、結月は椅子を机に引き寄せて、両手をコンソールへと走らせた。
指先が光るキーを叩くたび、モニターがめまぐるしく切り替わり、数値とデータが更新されていく。
「――ダンチューバー紅マロの被害状況から、敵は遠距離攻撃を使っていると判断できます。被弾の直前に聞こえた鈴の音……それがなんらかの攻撃トリガーになっている可能性が高い。鈴の音が聞こえたら、敵の攻撃に警戒してください」
『鈴の音か……了解だ』
「配信はプロトコルB継続、救護班は鳥居前を目指し派遣を依頼しました。あわせてルート開放に備えて緊急搬送体制を構築。これには少々お時間をいただきます――」
結月は現時点で必要な手配を終え、迅一郎に必要な情報をすべて伝えきる。
けれど、それだけで終われない。
自分の言葉で、どうしても伝えたい
理性が「余計だ」と止めても、心がそれを押し切った。
「先輩……絶対に、生きて帰ってきてください。死んだりしたら、絶対に許しませんから」
短い沈黙のあと、迅一郎の低く落ち着いた声が返ってきた。
『もちろんだ結月。僕は絶対に生きて帰るとも』