総理大臣、ダンジョンを駆ける~憲政史上最低支持率◤4.6%◢の総理大臣がダンジョンで無双した結果、日本までもが無双する~ 作:三月菫
観覧車を降りるころには、辺りはもう夜の帷に包まれていた。
あかりとの約束どおり、ずっと抱っこしたままゲートを出ると、もうあかりはだいぶ眠そうで、うつらうつらと船を漕いでいた。
そんなあかりを後部座席のジュニアシートに乗せて、その隣に結月が乗り込む。
迅一郎は、帰路に向けて車を発進させた。
遊園地の灯りが後方に遠ざかりはじめて間もなく、後部座席から小さな寝息が聞こえてくるようになった。
迅一郎はカーステレオの音量をそっと下げる。
車内に流れていた、あかりのお気に入りの女児アニメテーマソングが静かにフェードアウトしていく。
「寝たみたいだね」
「はい……ぐっすりです」
ルームミラーに映る結月が、毛布をあかりの胸元まで引き上ると、慈しむようにあかりの髪をなでる。
そんな彼女に、迅一郎は声をかけた。
「今日はありがとう。あかりにとってかけがえのない一日になったと思う。お弁当も……正直、僕はまったく思い至らなかった。助かったよ」
「いえ。私こそ、こういう日を一緒に過ごさせていただいて、嬉しかったです」
ミラー越しに迅一郎と結月は、どこか照れくさそうに笑い合った。
フロントガラスの向こうには、夜のネオンが滲む高層ビル群が並ぶ。
その隙間からのぞく満月が、迅一郎の運転する車の行く先を照らしていた。
「……無理は、していないかい」
「ご心配なく。無理なんかしてませんよ」
ルームミラーに映る結月はほんの少し笑い、目線を迅一郎に合わせた。
「言いましたよね。先輩のそばにいること。あかりちゃんのそばにいること。……それが、私の一番ですから」
その言葉が、迅一郎の胸に染み渡る。
赤信号が近づき、彼はブレーキをゆっくりと踏み込んだ。
車がアイドリングストップに切り替わると、エンジン音が消え、車内に静けさが満ちる。
その静寂の中で、迅一郎はふと口を開いた。
「……最近、考えるんだ。僕は、どうしても仕事に比重が寄る。当然だ。日本国の未来を担う、この国の首相なのだから。ワークライフバランスは捨てなければいけない。働いて働いて働かなければならない……」
迅一郎は、淡々と言葉を継ぐ。
「けれど、幼いあかりには僕しかいない。今はあの娘に向き合わないといけないんじゃないか——」
言葉にしてしまうと、胸の奥に沈んでいた葛藤が、くっきりと輪郭を伴って頭をもたげてくる。
「先輩が迷っているの、わかります」
迅一郎の迷いに対して、結月は静かに、けれどはっきり言葉を伝える。
「でも、あかりちゃんの今日の笑顔が、答えの半分を教えてくれてます。〝いっしょにいる時間〟って、量もだけど、質なんだと思います。先輩は、いざというとき、全身であかりちゃんを抱きしめられる人だから。きっと大丈夫です。もしも足りない分があったとしても、私も含めて、周囲が埋めてくれます」
迅一郎は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかった。
その沈黙の意味を推し量るように、結月がそっと続ける。
「先輩が総理大臣になったのは、クリス先輩との約束ですよね」
「ああ、最期にあいつから、この国の未来を託された」
「じゃあ、クリス先輩との約束は守らないといけません」
「……でも、あいつはもうひとつ言い遺したんだ。あかりのことを頼むって。だから僕は、二つの約束を抱えている」
「……遺言って、託す相手を信じきった言葉だと思います。それだけクリス先輩は、先輩のことを信頼していたんですよ」
買いかぶりすぎだよ、と言いかけて、迅一郎は飲み込んだ。
結月が信じてくれる優しい世界を、壊したくなかった。
信号が青に切り替わる。
しばらくのあいだ、車内には走行音だけが響いていた。
結月は窓の外に視線を向け、後ろに流れていく街の光を追う。
やがて彼女は小さく息を整え、静かに前を見据えた。
「クリス先輩が遺した『未来を託す』って言葉。きっと、あかりちゃんのことも含めた未来なんじゃないですか?」
「あかりの未来……」
「はい。だから両方守ろうとする先輩の今の形こそ、クリス先輩が望んだ答えです」
「そういう考え方もできるのか」
「大丈夫です。あかりちゃんはいつも笑顔でいます。さみしいときはその気持ちを周囲に伝えることが出来ています。それがちゃんと出来ているうちは、あかりちゃんは大丈夫です。ちゃんと自分が愛されているって、知ってるわけですから」
結月の言葉は、すっと胸の砂地に染み込むようだった。
迅一郎はハンドルを握りながら、ふっと息をつく。
「……救われるよ。ほんとうに」
「はい。任せてください、私は先輩の専属秘書なんですから」
二人は言葉少なに微笑みを交わしただけだったが、その一瞬に確かな温もりがあった。
フロントガラスを流れていく街の灯りが、車内を優しく照らしていく。
その夜の光が、迅一郎の目には、どこまでも優しく滲んで見えた。
* * *
首相公邸へ戻る途中、迅一郎は結月のマンションの前で車をゆっくりと停めた。
アイドリングストップが掛かりエンジン音が静まると、後部座席のあかりが小さく寝返りを打つ。
結月は、毛布の端を丁寧に整え、額にかかる髪をそっと払う。
それから音を立てないよう気を配りながら、静かにドアを開けた。
外に出た結月はエントランス前で足を止め、迅一郎の方を振り返った。
迅一郎は運転席の窓を少し下げる。
冷たい夜気が頬を撫でた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ。明日も忙しい。今夜はゆっくり休んでくれ」
「先輩こそ。おやすみなさい」
小さく会釈を交わしてから、結月はエントランスの奥へと歩いていった。
その後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと車を走らせた。
首相公邸へ向かう途中の信号待ち。
ルームミラーをのぞくと、あかりが静かな寝息を立てているのが見える。
そのあどけない寝顔を見ているだけで、迅一郎の心に温かいものが広がっていく。
いつの間にか迅一郎は思い出していた。
五年前——あかりとの出逢いの瞬間を。
——辺りは