総理大臣、ダンジョンを駆ける~憲政史上最低支持率◤4.6%◢の総理大臣がダンジョンで無双した結果、日本までもが無双する~   作:三月菫

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第32話

 

 観覧車を降りるころには、辺りはもう夜の帷に包まれていた。

 あかりとの約束どおり、ずっと抱っこしたままゲートを出ると、もうあかりはだいぶ眠そうで、うつらうつらと船を漕いでいた。

 

 そんなあかりを後部座席のジュニアシートに乗せて、その隣に結月が乗り込む。

 迅一郎は、帰路に向けて車を発進させた。

 

 遊園地の灯りが後方に遠ざかりはじめて間もなく、後部座席から小さな寝息が聞こえてくるようになった。

 迅一郎はカーステレオの音量をそっと下げる。

 車内に流れていた、あかりのお気に入りの女児アニメテーマソングが静かにフェードアウトしていく。

 

「寝たみたいだね」

「はい……ぐっすりです」

 

 ルームミラーに映る結月が、毛布をあかりの胸元まで引き上ると、慈しむようにあかりの髪をなでる。

 そんな彼女に、迅一郎は声をかけた。

 

「今日はありがとう。あかりにとってかけがえのない一日になったと思う。お弁当も……正直、僕はまったく思い至らなかった。助かったよ」

「いえ。私こそ、こういう日を一緒に過ごさせていただいて、嬉しかったです」

 

 ミラー越しに迅一郎と結月は、どこか照れくさそうに笑い合った。

 フロントガラスの向こうには、夜のネオンが滲む高層ビル群が並ぶ。

 その隙間からのぞく満月が、迅一郎の運転する車の行く先を照らしていた。

 

「……無理は、していないかい」

「ご心配なく。無理なんかしてませんよ」

 

 ルームミラーに映る結月はほんの少し笑い、目線を迅一郎に合わせた。

 

「言いましたよね。先輩のそばにいること。あかりちゃんのそばにいること。……それが、私の一番ですから」

 

 その言葉が、迅一郎の胸に染み渡る。

 赤信号が近づき、彼はブレーキをゆっくりと踏み込んだ。

 車がアイドリングストップに切り替わると、エンジン音が消え、車内に静けさが満ちる。

 その静寂の中で、迅一郎はふと口を開いた。

 

「……最近、考えるんだ。僕は、どうしても仕事に比重が寄る。当然だ。日本国の未来を担う、この国の首相なのだから。ワークライフバランスは捨てなければいけない。働いて働いて働かなければならない……」

 

 迅一郎は、淡々と言葉を継ぐ。

 

「けれど、幼いあかりには僕しかいない。今はあの娘に向き合わないといけないんじゃないか——」

 

 言葉にしてしまうと、胸の奥に沈んでいた葛藤が、くっきりと輪郭を伴って頭をもたげてくる。

 

「先輩が迷っているの、わかります」

 

 迅一郎の迷いに対して、結月は静かに、けれどはっきり言葉を伝える。

 

「でも、あかりちゃんの今日の笑顔が、答えの半分を教えてくれてます。〝いっしょにいる時間〟って、量もだけど、質なんだと思います。先輩は、いざというとき、全身であかりちゃんを抱きしめられる人だから。きっと大丈夫です。もしも足りない分があったとしても、私も含めて、周囲が埋めてくれます」

 

 迅一郎は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかった。

 その沈黙の意味を推し量るように、結月がそっと続ける。

 

「先輩が総理大臣になったのは、クリス先輩との約束ですよね」

「ああ、最期にあいつから、この国の未来を託された」

「じゃあ、クリス先輩との約束は守らないといけません」

「……でも、あいつはもうひとつ言い遺したんだ。あかりのことを頼むって。だから僕は、二つの約束を抱えている」

「……遺言って、託す相手を信じきった言葉だと思います。それだけクリス先輩は、先輩のことを信頼していたんですよ」

 

 買いかぶりすぎだよ、と言いかけて、迅一郎は飲み込んだ。

 結月が信じてくれる優しい世界を、壊したくなかった。

 

 信号が青に切り替わる。

 しばらくのあいだ、車内には走行音だけが響いていた。

 

 結月は窓の外に視線を向け、後ろに流れていく街の光を追う。

 やがて彼女は小さく息を整え、静かに前を見据えた。

 

「クリス先輩が遺した『未来を託す』って言葉。きっと、あかりちゃんのことも含めた未来なんじゃないですか?」

「あかりの未来……」

「はい。だから両方守ろうとする先輩の今の形こそ、クリス先輩が望んだ答えです」

「そういう考え方もできるのか」

「大丈夫です。あかりちゃんはいつも笑顔でいます。さみしいときはその気持ちを周囲に伝えることが出来ています。それがちゃんと出来ているうちは、あかりちゃんは大丈夫です。ちゃんと自分が愛されているって、知ってるわけですから」

 

 結月の言葉は、すっと胸の砂地に染み込むようだった。

 迅一郎はハンドルを握りながら、ふっと息をつく。

 

「……救われるよ。ほんとうに」

「はい。任せてください、私は先輩の専属秘書なんですから」

 

 二人は言葉少なに微笑みを交わしただけだったが、その一瞬に確かな温もりがあった。

 

 フロントガラスを流れていく街の灯りが、車内を優しく照らしていく。

 その夜の光が、迅一郎の目には、どこまでも優しく滲んで見えた。

 

* * *

 

 首相公邸へ戻る途中、迅一郎は結月のマンションの前で車をゆっくりと停めた。

 

 アイドリングストップが掛かりエンジン音が静まると、後部座席のあかりが小さく寝返りを打つ。

 結月は、毛布の端を丁寧に整え、額にかかる髪をそっと払う。

 それから音を立てないよう気を配りながら、静かにドアを開けた。

 

 外に出た結月はエントランス前で足を止め、迅一郎の方を振り返った。

 

 迅一郎は運転席の窓を少し下げる。

 冷たい夜気が頬を撫でた。

 

「今日は、本当にありがとうございました」

「こちらこそ。明日も忙しい。今夜はゆっくり休んでくれ」

「先輩こそ。おやすみなさい」

 

 小さく会釈を交わしてから、結月はエントランスの奥へと歩いていった。

 その後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと車を走らせた。

 

 首相公邸へ向かう途中の信号待ち。

 ルームミラーをのぞくと、あかりが静かな寝息を立てているのが見える。

 そのあどけない寝顔を見ているだけで、迅一郎の心に温かいものが広がっていく。

 

 いつの間にか迅一郎は思い出していた。

 五年前——あかりとの出逢いの瞬間を。

 

 

 

 

 ——辺りは()()()()()()()()()()()

 

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