異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第10話

ダグダの情報を得たレヴィン一行は、岩肌の露出した紫竜山の斜面を駆け下り、トラキアの荒野を這うように伸びる街道へと急いだ。

 

先頭を走るセティの足取りは、十歳の少年とは思えないほど速く、そして一切の迷いがなかった。彼の周囲には常に微かな風が渦巻き、その足裏をふわりと持ち上げるようにして推進力を生んでいる。

 

「……見えました。あの馬車です」

 

街道の土煙の向こうに、みすぼらしい幌馬車と、それを護衛する数人の武装した男たちの姿があった。

風に乗って、下品な男たちの笑い声と、鎖の擦れる音、そして――荷台の中から漏れる、子供たちの押し殺したような啜り泣きが届いてくる。

 

「トラキアの孤児は帝国の貴族どもに高く売れるからな。特に、顔のいいガキや、魔道の素質がある奴は……」

 

息を切らせて先頭を走らされているリフィスが、顔を引き攣らせながら呟いた。

 

「……リフィスさん。今は黙ってて下さい」

 

セティが冷たく言い放つ。その背中は、氷のように冷たい怒気に包まれていた。

彼は立ち止まり、魔道書『エルウィンド』を胸の前に構える。振り返った彼の瞳には、父クロードから受け継いだ、悪を絶対に許さない純粋で狂気的なまでの正義感が燃えていた。

 

「……許可を」

「やれ。だが、荷台のガキどもには、毛の先ほどの傷も負わせるな」

「承知いたしました」

 

セティが魔道書を開いた瞬間、トラキアの乾いた空気が一気に収束し、緑色の鋭い旋風が発生した。

 

「なんだ、あいつら……!? 魔法か!?」

 

護衛の奴隷商人たちが剣や槍を抜いて怒号を上げる。だが、彼らが武器を構え終わるよりも早く、セティの紡ぐ呪文が完成した。

 

「散れ」

 

静かな宣告と共に、目に見えない無数の名刀による不可視の斬撃が放射状に解き放たれた。

 

「ぎゃあああっ!」

「腕が……俺の腕があああっ!?」

 

風の刃は、荷台の子供たちには一切触れることなく、正確に奴隷商人たちの武器を持つ腕の筋と、膝の腱だけを深々と切り裂いた。血飛沫が荒野の乾いた土を黒く染め、男たちが次々と悲鳴を上げて地面に転がり回る。

 

たった数秒の蹂躙。

一切の無駄がない完璧な制圧に、後ろで見ていたリフィスは恐怖で歯の根を鳴らし、道案内としてついてきていたタニアも言葉を失って立ち尽くしていた。

 

「コープル! 荷台を開けろ!」

レヴィンの声に、コープルが血だまりを飛び越えて馬車の後部へと駆け寄り、重い鉄の閂を引き抜いた。

 

「……酷い」

 

薄暗い荷台の中に差し込んだ光が照らし出したのは、首や手首に重い鎖を繋がれ、ボロ布のような服を着せられた数人の子供たちの姿だった。

異臭と絶望が充満するその空間の奥に、一人の少女がうずくまっていた。

 

彼女は、他の子供たちが恐怖で震える中、ただ一人、獣のように鋭い瞳でこちらを睨みつけていた。黒い髪は泥と汗で顔に張り付き、引き裂かれた衣服の隙間からは、何度も鞭で打たれた赤黒いミミズ腫れが痛々しく覗いている。

 

剣士の素質を秘めた少女――マリータ。

彼女は、コープルが手を伸ばそうとした瞬間、鎖の音をガシャンと鳴らして壁際へ後ずさり、牙を剥くように威嚇した。

 

「……っ……来るな!」

 

掠れた、血を吐くような声。

奴隷として扱われ、大人の醜い暴力だけを浴びせられてきた彼女の心は極限まで擦り切れ、人間という存在そのものを激しく拒絶していた。

 

だが、コープルは一切の躊躇なく、狭い荷台の中へと這い入った。

 

「嘘だ……どうせ、お前も……!」

 

マリータが抗おうと身をよじるが、体力が残っていない。

コープルは、泥と血に塗れた彼女の身体を、真っ直ぐに抱きしめた。

 

「……あっ……」

 

マリータの全身が、ビクンと大きく強張った。

殴られる。そう身構えた彼女を包み込んだのは、暴力ではなく、コープルが脱いで羽織らせてくれた外套の柔らかさと、信じられないほど温かい体温だった。

 

「もう大丈夫。……酷い傷だ。すごく、痛かったよね」

 

コープルの細い指先が、マリータの背中に刻まれた痛々しい鞭の跡を、羽で撫でるようにそっと滑る。その指先から、濃厚で純粋な『ライブの杖』の魔力が流れ込んでいく。

 

「ぁ……あ……」

 

それは、物理的な肉体の傷を塞ぐだけの魔術ではない。

マリータの芯まで凍りついていた不信と恐怖の塊を、内側から強制的に溶かしていくような、じっとりとした熱。至近距離から伝わるコープルの甘い香油の匂いと、耳元に当たる彼の静かな呼吸の音が、マリータの防衛本能を根底から狂わせていく。

 

暗闇と暴力しか知らなかった彼女の閉ざされた世界に、圧倒的な『救済』が無理やり抉じ開けられた瞬間だった。

 

「ああ……あぁっ……!」

 

マリータの鋭かった瞳から、大粒の涙が堰を切ったように溢れ出した。

彼女は今まで噛み殺していた嗚咽を漏らし、鎖の繋がれた両腕でコープルの背中に縋り付いた。泥だらけの顔をコープルの胸元に強く押し付け、指が白くなるほどその衣服を握りしめ、泣きじゃくる。

 

(この人は……私の、全てを……)

 

マリータの魂に、コープルという存在が絶対的な『光』として深く、そして強烈な独占欲と依存を伴って物理的に刻み込まれた。彼女はもう、この腕の中から二度と離れることはできない。

 

一方、馬車の外でその光景を見ていたタニアは、自分の胸の奥をギリッと鋭い爪で引っ掻かれるような、強烈な不快感に襲われていた。

先ほどまで自分に向けられていたあの甘く優しい体温が、今は見知らぬ別の少女に注がれている。

 

(な、なんだよ、あいつ……。誰にでもあんな風にくっついて……っ)

 

タニアは顔を真っ赤にして奥歯を噛み締めながら、無意識に自身の弓を握りしめていた。

彼女の後ろでは、リノアンもまた、伏し目がちにコープルの背中を射抜くような冷たい視線で見つめ、コープルから借りた外套を指がちぎれんばかりに強く握り込んでいた。

少女たちの間で、誰にも悟られない無言の殺し合い(牽制劇)が、静かに始まっていた。

 

***

 

奴隷商人たちを縛り上げて街道に転がし、解放した子供たちを馬車に乗せ、レヴィン一行はついに目的の地――フィアナ村へと到着した。

 

海風を避けるように作られたその小さな村の広場に足を踏み入れた彼らを迎えたのは、腰に鋭い剣を帯び、一切の隙のない構えを見せる一人の女性だった。

長い金髪を後ろで束ね、動きやすい軽鎧を身に纏った彼女の瞳には、幾多の死線を潜り抜けてきた戦士特有の鋭利な光が宿っている。

 

「……何者だい、あんたたち。見ない顔だけど……奴隷商人共から子ども達を助けたそうね、うちの村に何の用かしら」

 

低く、凛とした声。

その声を聞き、彼女の顔を見た瞬間。レヴィンは雷に打たれたように足を止め、フードの奥の瞳を見開いた。

 

(間違いない。あの目、あの輪郭……あの勝気な声の響きは……!)

 

10年前、バーハラの炎の中で散った、ユングヴィ家の誇り高き戦士。デューが今もなお、血眼になって探し続けているたった一人の女。

 

「……エーヴェル、だと? 冗談を言うな」

 

レヴィンは無意識に一歩踏み出し、言葉を紡いでいた。

 

「お前は……ユングヴィの、ブリギッドだろう」

 

その名前が出た瞬間、広場の空気がピタリと凍りついた。

だが、女性――エーヴェルの顔に浮かんだのは、過去を思い出したような郷愁でも、正体を暴かれた動揺でもなかった。

そこにあったのは、純粋な『怪訝さ』だけだった。

 

「ブリギッド? ……悪いけど、何のことだか分からないわね」

 

エーヴェルは警戒を解かないまま、静かに首を振った。

 

「私は数年前、一切の記憶を失って、トラキアの海岸に倒れていたところを助けられたのよ。それ以前の、自分がどこで生まれ、誰だったのか……何一つ覚えていないわ。ただ、今は剣の腕を買われて、このフィアナ村の領主と義勇軍の指揮をしているだけ」

 

「……」

 

「私はエーヴェルよ。それ以上でも、それ以下でもない。……過去の亡霊を探しているなら他を当たってちょうだい」

 

彼女の言葉には、過去の自分を捨て、今この村で新しい「家族(マリータたち)」を守るために生きるという、岩のように固い決意が込められていた。

 

レヴィンは、彼女の瞳の奥をじっと見つめていた。

炎の運命に焼かれ、記憶を失った女。それでもなお、こうして剣を握り、弱き者を守るために立っている。その気高き魂の形は、間違いなくブリギッドそのものだった。

 

やがて、レヴィンは小さく息を吐き出し、深く被っていたフードを少しだけ引き下げた。

 

「……そうか。人違いだったようだな。悪かった、領主の姐さん」

 

今はまだ、彼女の無理に塞がった記憶の蓋をこじ開ける時ではない。

デューが狂ったように探し求めている女が、確かにここで、力強く生きている。その事実だけで、今は十分だった。

 

「俺たちはただの旅の者だ。ガキどもを休ませるために、数日この村に滞在させてほしい。路銀は払う」

 

「……わかったわ。怪しい連中だけど、悪人ではなさそうだしね」

 

エーヴェルが剣から手を離し、背を向ける。

過酷なトラキアの大地で、かつての聖戦士たちの運命の糸が、静かに、そして確実に絡み合い始めていた。

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