異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第11話

フィアナ村での短い休息を経て、レヴィン一行は再びトラキアの荒野へと足を踏み出していた。

目的は、トラキア半島各地の情勢を探ること。そして、未だ行方の知れないキュアンとエスリンの遺児たち、及びレンスターの騎士フィンの痕跡を追うことである。

 

深夜の野営地。

焚き火の火が細く小さくなり、誰もが寝静まった頃合いを見計らい、一つの影が音を殺して這い出た。

 

(……馬鹿なガキどもめ。俺様をただの荷物持ち扱いしやがって。ここでおさらばだ)

 

リフィスだった。彼はおっかないセティやレヴィンの監視の目が緩む時間帯を見計らい、脱走の好機をうかがっていたのだ。

抜き足差し足で野営地から数十メートル離れ、ようやくトラキアの風を感じて走り出そうとした瞬間。

 

――ヒュンッ!

 

「ひゃっ!?」

 

リフィスの鼻先わずか数ミリを、目に見えない鋭利な風の刃が掠め飛んだ。風の刃はそのまま前方の太い枯れ木を両断し、轟音と共にリフィスの退路を完全に塞ぐ。

 

「……三歩ですね」

 

背後の暗闇から、氷のように冷たい少年の声が響いた。

 

「あと三歩その足を動かしていれば、あなたは大けがをしていましたよ、リフィスさん」

 

「ひ、ひぃぃっ!」

 

リフィスはその場に土下座した。

闇の中から姿を現した十歳の少年――セティは、手にした魔道書を開いたまま、ひどく酷薄な目で見下ろしている。

 

「脱走を図れば容赦しないと、最初の路地裏で警告しましたよね。忘れてしまったのですか」

「す、すまねえ! 魔が差したんだ! 夜の散歩! そう、トラキアの夜風を少し浴びようと思って……!」

「…………」

 

セティの掌で、緑色の旋風が容赦なく収束していく。リフィスが本気で死を覚悟し、悲鳴を上げようとした時だった。

 

「やめろ、セティ。もうそれ以上そいつをいじめるな」

 

焚き火のそばから、毛布を羽織ったレヴィンが呆れたように声をかけた。

 

「……レヴィン殿。しかし、このような卑劣漢を生かしておけば、必ずまた裏切ります。ここで処分するのが軍略の理かと」

「理屈はそうだが、こいつにはまだトラキアの裏道の『案内役』として使い道がある。……おいリフィス、拾った命、安く捨てるんじゃねえぞ」

「わ、わかりましたよ……自由になれても死んじまったら意味がねえ」

 

這うようにして野営地に戻っていくリフィスを見送るセティの瞳には、一切の温度がなかった。

シレジアの騎士たる母フュリーから受け継いだ厳格さと、過酷な逃避行の中で育まれた『悪を絶対に許さない』という強烈な潔癖性。それが、セティの中で鋭利な刃として完全に定着しつつあった。

 

***

 

翌日の昼下がり。

赤茶けた岩山を抜け、荒涼とした平原の街道を進む一行の歩みは重かった。

トラキアの現状は、想像を遥かに超えて凄惨だった。

 

街道沿いにある村々はことごとく焼き払われ、畑は踏み荒らされている。道端には飢えと疲労で倒れた死体が転がり、それを野犬が漁っている。

グランベル帝国軍による重税と、それに乗じたトラキア王国軍の略奪。力なき民は、ただ踏みにじられ、搾取されるだけの存在に成り下がっていた。

 

「……これが、人間のすることか」

 

セティは焼け落ちた民家の残骸を見つめ、拳から血が滲むほど強く握りしめていた。

その背後で、コープルと並んで歩いていたリノアンもまた、青ざめた顔で惨状に目を伏せ、無意識のうちにコープルの上着の袖をきつく握りしめている。

 

「怖い? リノアン」

 

コープルが足を止め、リノアンの顔を覗き込んだ。

 

「……いいえ。怖くは、ありません。ただ……悲しいのです。私の故郷(ターラ)も、きっと同じように苦しんでいるはずだから」

 

リノアンは気丈に首を振るが、その肩は微かに震えていた。

コープルは何も言わず、彼女の震える小さな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。

 

「あ……」

 

コープルの掌から伝わる、優しく、じっとりとした体温。

路地裏で自分を掬い上げてくれたあの圧倒的な温もりが、リノアンの冷え切った指先から胸の奥へと、痺れを伴って流れ込んでいく。

彼に触れられるたび、彼女の背負っている「領主としての責任」という重圧が麻痺し、どうしようもない安堵感に強制的に沈められる。

 

「僕がいるよ。リノアンの故郷が泣いているなら、僕も一緒に泣くし……一緒に助けるから」

 

コープルは至近距離で、リノアンの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「コープル……っ」

 

リノアンは熱い吐息を漏らしながら、コープルの手に自分の頬をすり寄せた。十歳の少女が抱えるには重すぎる鎖を、この少年だけが溶かしてくれる。彼女の心はすでに、コープルという存在の甘い猛毒に完全に依存しきっていた。

 

「おい、前方で争い事だ。……帝国の軍服だな」

 

レヴィンが足を止め、前方の街道を顎でしゃくった。

土煙の向こうで、数人のフリージ軍の兵士たちが、貧しい農民たちを槍で脅し、わずかな麦の袋を奪い取ろうとしていた。

 

「やめてください! それを持っていかれたら、妹が飢え死にしてしまう!」

「うるさいぞ、 納税は絶対の義務だ! 刃向かうなら串刺しにするぞ!」

 

兵士が槍を振り上げた、その瞬間。

 

「やめろッ!!」

 

街道の脇から一つの小さな影が飛び出した。

緑色のチュニックを着た、十歳ばかりの少年だった。手にした古びた魔道書を開き、兵士たちに向けて小さな風の魔力を放つ。

 

「うおっ!?」

「なんだこのガキは! 魔法使いの端くれか!」

「弱い人たちから奪うなんて、絶対に許さない! 僕が相手だ!」

 

少年――アスベルは、恐怖で足を震わせながらも、農民たちを庇うように両手を広げて立ちはだかった。

だが、十歳の未熟な魔力では、武装した数人の正規兵を止めることはできない。怒り狂った兵士たちが一斉に槍を構え、アスベルへと殺到する。

 

アスベルがギュッと目を瞑った、その直後。

 

「――『エルウィンド』」

 

静かで、絶対的な死を孕んだ詠唱が響き渡った。

 

ドゴォォォォンッ!!

 

アスベルの目前で、信じられないほどの高密度に圧縮された緑色の竜巻が吹き荒れた。

フリージ軍の兵士たちは悲鳴を上げる間もなく空高く巻き上げられ、武装の金属片ごと周囲の岩肌に叩きつけられて完全に沈黙した。

 

「え……?」

呆然とするアスベルの横を通り抜け、黒い外套を翻したセティが静かに進み出る。

 

「大丈夫か、君。怪我はないか」

セティは振り返り、アスベルに向けて手を差し伸べた。その洗練された身のこなしと、同年代とは思えない圧倒的な魔力の残滓に、アスベルは魅入られていた。

 

「す、すごい……! 今の、君がやったの!? 僕と同じくらいの歳なのに……!」

アスベルはセティの手を取り、興奮した様子で立ち上がった。

 

「私はセティ。こちらは師父のレヴィン殿だ。……君の名前は?」

「僕はアスベル! 魔道を学ぶために旅をしてるんだ。君、良ければ僕にその魔道のコツを教えてくれないか!?」

 

目を輝かせるアスベルに、セティは少し戸惑いながらも、その純粋な瞳に自分と同じ『正義への渇望』を感じ取っていた。

 

その夜、街道から少し外れた岩陰の野営地。

 

「そうか。お前はレンスターの王子、リーフ殿と誓いを立てたのか」

レヴィンが、アスベルの身の上話を聞いて頷く。

 

「はい! 僕とリーフ様は、必ず再会して、このトラキアを帝国の支配から解放しようって約束したんです」

 

アスベルが熱っぽく語る隣で、セティは黙って焚き火の炎を見つめていた。

 

「レヴィン殿」

 

セティが静かに顔を上げ、レヴィンを真っ直ぐに見据えた。

 

「私は、このトラキアの地にとどまりたい」

 

「……本気か、セティ」

レヴィンは表情を変えずに問い返す。

 

「はい。この大地は病んでいます。飢え、搾取、そして子供たちを道具として扱う悪意……。見過ごすことはできません」

セティの声には、微塵の揺らぎもなかった。

 

「私は、アスベルと共にこの地で抵抗軍を組織します。虐げられた民を守り、いつか立ち上がるであろうリーフ王子たちの力となるために。……それが、私に与えられた魔道と、騎士としての使命だと信じます」

 

十歳の少年が口にした、重すぎる決意。その瞳の奥にある炎は、世界を救うために命を散らした実父クロードのそれと全く同じ輝きを放っていた。

 

「……私も、セティの意見に賛成です」

 

沈黙を破ったのは、コープルに寄り添うように座っていたリノアンだった。

 

「私の故郷ターラも今、帝国の圧政に苦しみ、独立のために戦っています。私一人では何もできませんが……皆さんと一緒なら、きっとターラを、トラキアの民を救えるはずです」

 

リノアンはそう言いながら、そっとコープルの顔を見つめた。

(あなたが一緒に戦ってくれるなら、私はもう何も怖くない)

彼女の決意は、高尚な理想などではなく、ただコープルの傍らという「居場所」を強固に固定するための、切実な依存の肯定であった。

 

レヴィンは、セティの真っ直ぐな瞳、アスベルの熱意、そしてコープルに身を寄せるリノアンを順番に見渡し、やがてフッと口角を上げた。

 

「……好きにしな。俺たち大人が情けねえせいで、こんな世の中になっちまったんだ。お前たちガキが抗うっていうなら、俺は全力でその背中を押してやるよ」

「レヴィン殿……! ありがとうございます!」

 

「よしっ! じゃあ、僕たちの抵抗軍の名前、決めなきゃね!」

アスベルが嬉しそうに立ち上がり、セティの肩を叩く。

 

「魔法使いが中心になるんだから……『マギ団』なんてどうかな?」

「マギ団……良い名前だ、アスベル。共に戦おう」

 

セティとアスベルが、固く手を握り合う。

トラキアの運命を大きく変えることになる抵抗組織『マギ団』が、十歳の少年たちの手によって静かに、しかし狂気的なまでの熱量で産声を上げた夜だった。

 

「……けっ、お前らみたいなガキのお遊戯に付き合わされるこっちの身にもなれっての」

 

少し離れた場所に縛られているリフィスが一人毒づいていたが、誰も彼に耳を貸す者はいなかった。

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