フィアナ村を出立し、トラキアの荒野をさらに進むこと数日。
レヴィン一行が、内陸部のとある宿場町へと足を踏み入れた時のことだ。
「や、やめてください! 私はただ、旅の方々に助けを求めているだけで……!」
乾いた風が吹き抜ける広場の片隅。純白のシスター服に身を包んだ一人の少女――サフィが、たちの悪い傭兵風の男たちに壁際へと追い詰められていた。
「へへっ、ブラギのシスター様がこんなド田舎で何の用だ? 助けが欲しいなら、俺たちがたっぷり『可愛がって』やるよ」
「高く売れそうな上玉じゃねえか。帝国に突き出す前に、少し味見させろ」
下卑た笑い声と共に、男の一人がサフィの細い腕を乱暴に掴む。サフィの顔が恐怖に引き攣り、抵抗の声を上げる。
「レヴィン殿」
セティが即座に反応し、魔道書に手を掛けようとした。だが、それよりも早く、一行の横を弾かれたようにすり抜けていく影があった。
「てめえらァァァッ!! 汚れなきシスター様に、その汚ねえ手で触ってんじゃねえッ!!」
案内役として歩かされていたリフィスだった。
彼は背負っていた荷物を放り出し、眼球が飛び出んばかりの血走った目で男たちに向かって突進していった。
リフィスの脳内には電流が走っていた。
(な、なんだあの天使は!? 貧相なガキばっかり見てきた俺様の目に、あの清らかな美しさは眩しすぎる! 俺様が助ければ、きっとホレて俺様のものに……!)
圧倒的な下心と現金な欲望が、海賊の恐怖心を完全に凌駕した。
「うおおおおっ! 離しやがれ!」
リフィスが男の横面を殴りつけようと拳を振り上げる。
だが――トラキアの荒野で命の奪い合いをしている傭兵に、素人めいた拳など当たるはずもなかった。
ドゴォッ!
「べばッ……!?」
拳はあっさりと躱され、逆に顔面へ容赦のない鋼のガントレットの裏拳が叩き込まれた。
鈍い骨の砕ける音。リフィスは鼻と口から盛大に血を噴き出し、視界を白濁させながら、泥だらけの地面に無様に転がり落ちた。
「キャアッ! 大丈夫ですか!?」
サフィが青ざめて駆け寄る。
「い、痛ってぇ……。でも、あなたが無事なら……俺は……」
リフィスは泥水を啜りながら、激痛に身をよじって呻いた。計算高い目論見は見事に外れ、残ったのは口蓋に広がる鉄の味だけだった。
「おい、お前らもあの馬鹿の仲間か!」
男たちが剣を抜き、レヴィンたちに牙を剥く。
だが、次の瞬間にはセティの放った不可視の『風の刃』が男たちの足元の石畳を深く抉り飛ばし、同時に、コープルが一切の詠唱なく放った『サイレスの杖』の光が、彼らの声帯の震えを完全に封じ込めた。
音を奪われ、見えない力で吹き飛ばされた男たちは、これが自分たちでは決して抗えない高位の魔術だと本能で悟り、恐怖に顔を引き攣らせて這うように逃げ出していった。
***
「本当に、ありがとうございます。あの方が身を挺して守ってくださらなかったら、私……」
広場の隅で、サフィが深々と頭を下げていた。彼女の足元では、ライブの杖で顔面の骨折を治してもらったリフィスが、まだ痛む鼻を押さえながら、己を治癒してくれた聖女のローブの裾に縋り付くようにして蹲っている。
「……で、シスター。お前さん、こんな物騒な街で誰に助けを求めてたんだ?」
リフィスの無様な姿を完全に無視し、レヴィンがフードの奥から鋭く問いかけた。
サフィの表情が、スッと暗く、悲痛なものに変わった。
「……私は、ターラから参りました。かつて、リーフ王子を匿った罪で帝国に処刑された……亡きターラ市長にお仕えしていた者です」
その言葉を聞いた瞬間、コープルの隣に立っていたリノアンの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
彼女の指先から一瞬にして血の気が引き、呼吸が浅く、不規則なものに変わる。
「市長様が処刑されて以来、ターラは帝国の過酷な支配下に置かれています。そして今……ついに『子供狩り』の要求が突きつけられました。街の大人たちは、もう黙って子供を奪われるつもりはありません。ですが、帝国軍と戦うには、反乱の旗印となる方がどうしても必要なのです。……行方知れずとなっている、亡き市長様の愛娘、リノアンお嬢様が……!」
サフィの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「……!」
リノアンの歯の根がガチガチと鳴り、全身が氷のように冷たくなっていく。
逃げ出したわけではない。ターラを救う力を求めて、忠臣たちと共に街を出たのだ。だが、結果的に護衛は全滅し、自分だけが生き残り、こうして安全な腕の中に囲われている。その間に、残された民は子供を奪われようとしている。
心臓を鷲掴みにされるような強烈な罪悪感と、領主という重圧。リノアンの足の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
だが、彼女の膝が泥に触れるより早く、コープルの小さな、しかし力強い腕が正面からしっかりと彼女の身体を抱き止めた。
「大丈夫だよ、リノアン。息を吐いて」
コープルは至近距離からリノアンの瞳を覗き込み、その震える背中をゆっくりと撫でた。
至近距離から注ぎ込まれる、コープルの甘い香油の匂いと、焼け付くような高い体温。
「きみは逃げたんじゃない。ターラを救うための『力』を探しに、苦しい旅に出たんだ。……そして、ちゃんと見つけたじゃないか。僕や、セティや、アスベルを」
その言葉は、一切の弁解を許されなかったリノアンの魂の奥底に、強制的に『免罪符』を打ち込むものだった。
「あ……ああ……っ」
リノアンの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はコープルの服の胸元を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。
この少年が与えてくれる熱だけが、彼女を狂気から繋ぎ止めている。彼女はコープルの胸元に顔を埋め、周囲の目も憚らず、ただひたすらに己の罪悪感を彼に吸い取らせるように泣き続けた。
ひとしきり泣き濡れた後、やがてゆっくりと顔を上げたリノアンの瞳の奥には、先ほどまでの怯えた少女の影はなかった。
あるのは、トラキアの泥水をすすり、この少年の熱に完全に依存しながらも、何が何でも故郷を取り戻すという、冷たく強烈な『決意』だった。
「……サフィ」
リノアンが、コープルに寄り添ったまま、静かに口を開いた。
「えっ……? あなた様は、まさか……リノアンお嬢様!?」
サフィが驚愕に目を見開く。
「はい。……お父様を、ターラの民を苦しませてごめんなさい。でも、私はもう逃げません」
リノアンの凛とした声が、広場に響く。
「レヴィン様。セティ、アスベル。そして……コープル。お願いです、私に力を貸してください。私たちで『マギ団』を大きくし……必ず、ターラを解放します!」
十歳の少女の、血を吐くような決意。
それは、抵抗組織『マギ団』が、単なる理想から「ターラ解放」という明確な軍事的目標を持った瞬間だった。
「……よく言った。その覚悟があるなら、俺たちも腹を括るしかねえな」
レヴィンが口角を上げる。
「サ、サフィさん! 俺様も一緒にターラを救いますぜ! 俺様がアンタを、全力でお守りしやすからね!」
鼻血を拭いながら、リフィスが、ここぞとばかりにサフィの手にすり寄り、熱烈なアピールを始める。サフィは困惑しながらも「あ、ありがとうございます……」と苦笑いしていた。
過酷な運命への決意が固まった一行は、サフィという新たな導き手(と、彼女にイイカッコしたい案内役)を得て、トラキアの闇を切り裂く本格的な抵抗運動へと動き出したのだった。していくのだった。