異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第16話

トラキア半島を目指す彼らの行く手を阻む最大の難所。それは大陸中央に広がる死の砂漠――「イード」であった。

容赦なく照りつける太陽が、ひび割れた大地と流砂を白く焼き焦がしている。熱風は肺を焼き、舞い上がる砂塵は容赦なく肌を裂く。

 

だが、この砂漠が真に恐ろしい理由は自然の猛威ではない。

陽炎の向こう、砂漠の中心に不気味なシルエットを落とす巨大な建造物。世界を裏から操るロプト教団の総本山、イード神殿である。

 

「……気に食わねえな。砂の下から、腐った血の匂いがプンプンしやがる」

 

デューは外套の襟を固く引き合わせながら、遠く霞む神殿の尖塔を酷薄な目つきで睨みつけた。

視線の先では、黒いローブを纏った暗黒魔道士の巡回部隊が、蜃気楼のように現れては消えていく。子供狩りの拠点とも噂されるその禍々しい気配を肌で感じ取りながら、デューの脳裏には「いつか必ず、あの神殿の奥底まで丸裸にしてやる」という、義賊としての冷たく静かな殺意が刻み込まれていた。

 

「デュー。ユリアの様子はどうだ」

 

前を歩いていたレヴィンが、厳しい表情のまま振り返る。

 

「死なねえ程度に水は飲ませてるが……心はずっと、どこか遠くを彷徨ったままだな」

 

デューの腕の中で、銀色の髪の少女――ユリアは、虚ろな瞳でただ砂漠の空を見つめていた。教団の追手から逃れるための過酷な野営が続いても、彼女は泣き声を上げることも、痛みを訴えることもない。

 

「急ぐぞ。帝国の蠅どもを撒き切るためにも、早くこの砂漠を抜け出さねえと」

 

過酷な砂漠の縦断。その一歩一歩が、後にデューが単身でイード神殿の深部へと潜入するための、命がけの「地形調査」となっていた。

 

***

 

イードを抜け、さらに数日の行程を経て。 デューが、安全な隠れ家に預けていた愛する我が子――娘のパティと息子のファバルを連れて、レヴィンたちと共にトラキア辺境のフィアナ村に到着した時のことだった。

 

「そら、腰が入ってないわよタニア! そんな大振りじゃ、帝国の重装兵はおろか、路地裏のチンピラにも躱されるわ!」

 

村の広場に設けられた修練場では、乾いた木剣の打ち合う音が響いていた。

 

鋭い踏み込みでタニアの斧(木製)を弾き飛ばしたのは、女剣士・マチュアだった。彼女の無駄のない洗練された剣技は、村の自警団である「フィアナ義勇軍」の中でも随一の腕前である。

 

「くっそー! もう一回だ、マチュア姉! 次こそ絶対に一撃入れてやるんだから!」

「はいはい、元気なこと。……でも、あんたのその空回り、剣のせいじゃなくて、あっちの『熱』に当てられてるせいじゃないの?」

 

マチュアがからかうように視線を向けた先。 修練場の隅の木陰では、コープルが汗を拭くための冷たい手ぬぐいを準備して、静かに待機していた。

 

「なっ……!? ち、ちがっ、あたしは別にアイツのことなんか……!」

 

図星を突かれたタニアが、顔を林檎のように真っ赤にして激しく動揺する。

 

「素直じゃないわねぇ。まあ、あの優しさにあてられちゃう気持ちは、少しわかるけど」

 

マチュアがくすくすと笑う。

だが、タニアのそんな喧騒など全く耳に入っていないかのように、広場の隅でただ一人、黙々と狂気的なまでの素振りを繰り返す少女がいた。 イザークの剣技を受け継ぐ少女――マリータである。

 

「……九百九十八……九百九十九……千……ッ!」

 

ビュンッ!と風を裂く鋭い音が響く。彼女が握る木剣の柄は、潰れた豆から滲む血で赤く染まっていたが、その瞳に一切の妥協や痛みはなかった。 彼女の視線もまた、木陰で待つコープルへと真っ直ぐに向けられている。

 

(私は強くなる……もっと。あの人を守る、ただ一つの『剣』になるために……!)

 

タニアの分かりやすい照れ隠しとは対極にある、静かで、重く、そして刃のように鋭く研ぎ澄まされた独占欲。

 

その後ろでは、義勇軍の若者であるハルヴァンが黙々と薪を割り、巨漢のマーティがそれを鈍重な手つきで運んでいる。村の入り口では、元トラキア軍の騎士ブライトンが鋭い視線で周囲を警戒していた。

 

そして、そのブライトンの死角をすり抜けるようにして、身軽な少女が広場を駆け抜けていく。

 

「あーっ! ラーラ! お前また村長の家の厨房からつまみ食いしただろ!」

「えへへ、見つかっちゃった。だってマギ団の荷物運び、お腹すくんだもん!」

 

元ダンサーでセティの誘いで参加した少女ラーラが、パンを咥えながら舌を出して逃げ回る。

 

ただの辺境の村ではない。ここに集っているのは、いずれ来るべきトラキア解放のうねりの中核となる、したたかで力強い「実働部隊」の面々だった。

 

「……活気のある村だな」

 

デューが呟いた、その時だった。

 

「広場が騒がしいと思ったら……見慣れない顔ね」

 

凛とした、しかしどこまでも深く温かい女性の声が、広場に響いた。 マチュアやタニアたちが一斉に姿勢を正す。村の奥から歩み出てきたのは、動きやすい革鎧を身に纏い、腰に長剣を佩いた一人の美しい女性だった。

 

流れるような黄金色の髪。海のように深く、真っ直ぐな瞳。

 

「あっ……」

 

デューの息が、完全に止まった。

 

間違いない。 十数年の時を経て、幾千の夜を越えて探し求め続けた、愛する妻。子供たちの母親。

「母……さん……?」

 

ファバルが震える声で呟き、一歩前に出ようとした。だが、デューがその小さな肩を、血が滲むほど強く掴んで引き留めた。

 

「……ダメだ。今は、まだ」

 

デューの低い声に、子供たちはハッとして父を見上げる。デューの瞳は、これまでに見たことがないほど悲痛に歪み、それでも必死に涙を堪えていた。

 

「私はこのフィアナの村を預かっている、エーヴェルという者です。旅の方、トラキアの荒野を越えてよくぞ参られました。……どうかしましたか?私の顔に、何かついているでしょうか?」

 

彼女の瞳には、一切の「過去」がなかった。 デューを見ても、パティやファバルを見ても、そこにあるのは「見知らぬ旅人を気遣う、慈愛に満ちた村長」としての眼差しだけだった。聖戦士の血も、彼と肌を重ねた夜の記憶も、すべてが白紙の彼方に消え去っていた。

 

「……いや。あんまりにも美人な村長さんだったんで、オレとしたことが、つい見惚れちまってね」

 

デューは、胸を内側から引き裂かれるような絶望を悟られないよう、いつもの飄々とした、人を食ったような笑みを顔に貼り付けた。

 

「オレはデュー。こっちのチビたちはパティとファバルだ。しがない旅の商人(という名の泥棒)さ。レヴィンのおっさんのツテで、少しの間、この村に世話になりたくてね」

「そうですか。レヴィンの知り合いなら歓迎します。……デュー、パティ、ファバル……」

 

エーヴェルはその名前を口の中で転がすように呟き、ふと、不思議そうに自分の胸元を押さえた。

 

「……奇妙ね。初めて会ったはずなのに、あなたたちの名前を呼ぶと、なぜか胸の奥がひどく……温かくて、泣きたくなるような気がする」

 

その言葉だけで、デューの心臓は張り裂けそうだった。 記憶は失われても、魂の底に刻まれた愛の残滓が、彼女を微かに揺さぶっているのだ。

 

「……オレたちが、人懐っこいツラしてるからさ。エーヴェルさん、これからちょくちょく顔を合わせることになる。よろしく頼むぜ」

 

「ええ。よろしく頼むわ、デュー」

 

エーヴェルが差し出した手を、デューはそっと握り返す。 タコだらけの剣士の手。弓を引き絞っていた頃とは少し違うその感触に、デューは「絶対に、何度でも惚れ直させてやる」という、途方もなく重く、熱い誓いを立てていた。

 

***

 

その夜。 村から少し離れた紫竜山の中腹にある、粗末な山賊の砦にて。

 

「ふざけんなダグダ! いつまでもこんな石ころだらけの死んだ土地で、クワなんか振ってられるか!」

 

山賊の頭目の一人であるゴメスが、テーブルを蹴り飛ばして吠えていた。

 

「村の連中はともかく、俺の部下たちはみんな腹を空かせてんだぞ! 帝国軍の補給部隊でも、近くの村でもいい!略奪でもしねえと、俺たちは全滅だ!」 「バカ野郎! 少しでも目立つ真似をしてみろ、帝国の討伐隊が山ごと火の海にしに来るぞ! エーヴェルたちにまで迷惑がかかるのがわからねえのか!」

 

ダグダも負けじと怒鳴り返すが、その顔にも深い疲労と苦悩が刻まれていた。トラキアの土地は死んでおり、いくら真面目に農作業をしたところで、荒くれ者全員の胃袋を満たすことなど不可能に近いのだ。飢えは、確実に紫竜山の結束を蝕み、反乱の火種を生み出そうとしていた。

 

「――飢えずに済むなら、略奪なんてリスキーな真似、しなくて済むよな?」

 

唐突に、砦の入り口から声が響いた。 ダグダとゴメスが振り返ると、そこには薄笑いを浮かべたデューと、その後ろで腕を組むレヴィンが立っていた。

 

「誰だてめえら! ここを紫竜山の砦だと知って……」

 

ゴメスが斧に手を掛けた瞬間、デューが背負っていた巨大な麻袋を、ドンッ!とテーブルの上に放り投げた。

 

口が開いた袋の中から、滝のように溢れ出したのは、眩いばかりに輝くグランベル帝国の金貨と宝石の山だった。

 

「なっ……!?」

 

「て、帝国の金貨……!? どこでこんなモンを……!」

 

ゴメスとダグダが、目を剥いて絶句する。

 

「帝国の税収部隊から『ちょっと拝借』してきた、正真正銘の裏金さ」

 

デューは金貨を一枚指で弾き、ゴメスの鼻先に突きつけた。

 

「お前ら、今はこんな死んだ土地で農作業の真似事なんて続けにくいだろ。……オレたち『マギ団』とひとまず専属契約を結ばねえか?」

「せ、専属契約だと?」

「ああ。オレたちがこの裏金を使って、中立の商人から大量の食料や物資を買い付ける。お前らは紫竜山の裏道を使って、帝国軍の目を掻い潜りながら、その物資をターラやマギ団の隠れ家まで『密輸』するんだ。……運び屋の報酬として、食料は山ほど回してやる。帝国の正規軍と真正面からやり合うより、ずっと割のいい仕事だろ?農作業なら戦争が終わった後にいくらでも助けてやるさ」

 

ゴメスは、目の前の金貨の山とデューの提案を交互に見比べ、やがてゴクリと生唾を飲み込んだ。

 

「……腹いっぱい、食えるのか?」

「トラキア中の美味い肉と酒を保証してやるよ。ただし、村への略奪は一切禁止だ。約束を破ったら……オレのダガーが、寝首を掻きにいくぜ」

 

デューの瞳が、一瞬だけ冗談ではない暗殺者の光を帯びる。

 

「……乗った。飢え死にするくらいなら、あんたらの裏稼業に乗ってやる!」

 

ゴメスが力強く頷き、ダグダもホッと安堵の息を吐き出した。 こうして、紫竜山の山賊たちは反乱の危機を脱し、マギ団の強固な「裏の物流網(兵站)」として組み込まれることになった。力と金と、極めて現実的な政治的交渉の勝利だった。

 

***

 

同じ頃、フィアナ村の静かな一室。

ランプの灯りだけが照らす薄暗い部屋の隅で、ユリアは膝を抱えてガタガタと震えていた。

外の喧騒や日常の温かさから隔離されてもなお、彼女の脳内には、紫色の炎に焼かれる凄惨な記憶と、絶望的な破壊の残滓が反響し続けていた。

 

カチャ、と小さな音を立てて扉が開いた。

入ってきたのは、温かいスープを持ったコープルだった。ユリアはビクッと身をすくませ、さらに部屋の隅へと後ずさる。

だが、コープルは怯える彼女に無理に近づこうとはせず、少し離れた床に座り、ただ静かに彼女を見つめた。

 

「……怖かったね」

 

その声は、トラキアの血生臭い夜風とは対極にある、ひどく甘く、柔らかい響きだった。

 

「無理に話さなくていいよ。でも……少しだけ、温かくなるから」

 

コープルがそっと手を差し伸べる。

ユリアは怯えながらも、その手から発せられる不可思議な「波長」に、本能的に惹きつけられていた。

ロプトの暗黒の呪縛を中和し、魂そのものを癒やす、ブラギの血族特有の清浄な魔力。それが、コープル自身の底抜けの優しさと混ざり合い、圧倒的な安心感となって部屋中に満ちていく。

 

「あ……」

 

ユリアの震えが、少しずつ治まっていく。彼女はおずおずと手を伸ばし、コープルの小さな手を握り返した。

 

「……あたたかい……」

 

ユリアの虚ろだった瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。壊れきっていた彼女の心に、絶対的な『光』が強引にねじ込まれた瞬間だった。

 

部屋の入り口のわずかな隙間。

その光景を闇の中から睨み据えるマリータの指は、無意識に剣の柄を白くなるほど強く握りしめられていた。隣に立つタニアは、己の居場所がまた一つ脅かされるという強烈な焦燥感に胃の腑を焼かれるように息を呑み、リノアンは自らの爪が掌に深く食い込む痛みすら忘れ、静かに、しかし絶対的な独占欲の炎を暗い瞳に宿していた。

 

心を破壊された『光(ユリア)』という四人目の絶対的な依存者の誕生。

トラキアの辺境で、戦いの準備と共に、少女たちの逃げ場のない息苦しい情念の死闘(牽制劇)が、ついに完全な形で熱を帯び始めていた。

 

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