異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第2話

クロードの命を代償にした『リザーブの杖』の白銀の波動が戦場を舐め尽くした直後。

ロプト教団の魔道士たちの動きが、ほんの数秒だけ完全に停止した。目を灼かれ、神聖な魔力に当てられて陣形が崩壊し、狂信者たちの呻き声が重苦しい大気に響く。

 

(今だ……!)

 

レヴィンは焼け焦げた内臓の激痛に視界を明滅させながらも、泥と血溜まりを這うようにして身を翻した。だが、暗黒司祭マンフロイの回復は、常人のそれを遥かに凌駕していた。

 

「忌々しいエッダの小僧が……! ええい、逃がすな! シレジアの血をここで根絶やしにしろ!」

 

マンフロイの激昂と共に、再び漆黒の魔力が収束しようとしたその瞬間——燃え盛る岩の陰から、場違いなほど軽快な影が滑り出た。

 

「こっちだ、レヴィン! ボヤボヤしてると本気で消し炭だぜ!」

 

「デュー……!?」

 

影の正体は、シグルド軍の誰よりも素早く戦場を駆け回っていた盗賊の青年、デューだった。

彼は着地と同時、背の鞘から一本の特殊な剣を引き抜いた。第3章の戦いでシグルド軍が手に入れた『かぜの剣』。魔道書を読めない彼でも、刃に込められた魔力を物理的に解放できる希少な業物だ。

 

「どけッ、カビ臭えジジイ共!」

 

デューが渾身の力で『かぜの剣』を振り抜く。

レヴィンの操る『フォルセティ』ほどの絶対的な威力はない。しかし、盗賊特有の異常な身の軽さと踏み込みから放たれた真空の刃は、詠唱に入っていたロプトの魔道士たちの喉元を正確に切り裂き、同時に周囲の猛火を巻き上げて局地的な炎の竜巻を生み出した。

 

「ぐぁあっ……!?」

 

魔道士たちの陣形が風と炎によって乱れた、その一瞬の隙。

デューの真骨頂はここからだった。彼は倒れゆく魔道士の懐へと常人には視認すら不可能な速度で滑り込み、血に塗れた指先で彼らが抱えていた『ヨツムンガンド』の魔道書をひったくった。

 

「なんだと……! 貴様、何をするつもりだ!」

 

マンフロイが驚愕の声を上げる。

魔道書は術者の魔力とリンクしている。デューは奪い取った暗黒の魔道書を、まだ微かに息のある別の魔道士の顔面へ向けて乱暴に叩きつけ、無理やり魔力の流れを逆流・暴走させた。

 

「オイラからの餞別だ。あの世でシグルド様に謝りな!」

 

強引な魔力の干渉によって、魔道書が内側から弾け飛ぶ。

ドォォンッ!という耳を劈くような轟音と共に、どす黒い闇の魔力が暴発し、周囲のロプト教団員たちを凄まじい爆風で吹き飛ばした。

 

「オイラにしっかり掴まってろ! 舌ァ噛むなよ!」

 

デューは爆発の衝撃を利用するように跳躍し、己の体格を優に超えるレヴィンの腕を首に巻きつけた。

内臓を焼かれ、自立すら困難なレヴィンを抱えながらも、デューはバーハラの地下水道へと滑り込む。背後でマンフロイの怒号と追手たちの呪詛が響くが、王都とその近辺の地下に張り巡らされた水路の複雑怪奇な構造を、盗賊の嗅覚で完全に把握している彼を捕まえることなど、もはや不可能だった。

 

***

 

どれほど暗く冷たい地下水路を歩いただろうか。

下水と腐敗臭、そして自身の血の匂いが混じり合う泥水の中で、ついにレヴィンの膝が折れた。

 

「がはっ……、ごほっ……!」

 

「おい、しっかりしろ! 傷口が開いてるじゃねえか……!」

 

デューが慌ててレヴィンを冷たい石壁に寄りかからせ、懐から血塗れの包帯と傷薬を取り出す。レヴィンの胸元は、直撃を免れたとはいえ『フェンリル』の闇の魔力によって肉が変色し、尋常ではない熱を持っていた。デューの泥だらけの手が、震えながらも必死に傷を塞ごうとする。

 

「……悪いな、デュー。お前に……助けられるとはな……」

 

「喋んな馬鹿野郎! オイラだって、必死だったんだよ。他の奴らは……アイラも、ジャムカも、みんな……オイラを庇って……!」

 

デューの瞳から、大粒の涙が泥水へと落ちた。いつもの飄々としたお調子者の仮面が剥がれ落ちた、痛切で無防備な本音だった。

レヴィンは荒い息を吐きながら、濡れた石壁に後頭部を預けた。視界がぼやけ、意識が遠のく中、脳裏を支配したのは、祖国シレジアに残してきた妻、シルヴィアの顔だった。

 

(俺はまだ……死ねねえ。あいつらを置いて、こんな泥水の中でくたばるわけには……)

 

出立の前夜、シルヴィアと交わした濃密な熱が、冷え切ったレヴィンの身体の奥で疼いた。

泣きじゃくりながら縋り付いてきた彼女の、滑らかで白い肌。踊り子特有のしなやかな太腿がレヴィンの腰に絡みつき、汗ばんだ胸の谷間から立ち上る甘い香油の匂い。彼女の吐息はひどく熱く、まるでレヴィンの魂ごと繋ぎ止めようとするかのように、何度も、何度も彼の名前を甘く、切実に喘いでいた。

「行かないで」と泣き濡れた瞳。レヴィンの背中に食い込むように回された細い指先。その狂おしいほどの愛情と体温の記憶だけが、今のレヴィンを辛うじて現世に繋ぎ止めている。

 

「デュー……シレジアへ、向かう。俺には……やらなきゃならねえことがある」

 

「……ああ、わかってる。オイラも……絶対に探さなきゃなんねえ女がいるからな」

 

デューは泥に塗れた自分の両手を見つめ、ギュッと拳を握りしめた。

彼の心臓を締め付けているのは、愛する妻、ブリギッドの姿だった。

 

(ブリギッド……生きてるよな? お前なら、あんな奴らにやられるわけねえよな……?)

 

デューの記憶の中で、彼女の存在はあまりにも鮮烈だった。

海風と森の匂いが入り混じった、彼女の健康的な褐色の肌。引き締まった腹筋のラインと、弓を引くための逞しい肩。だが、夜の天幕で二人きりになった時だけ見せる彼女は、想像もつかないほどに柔らかく、熱かった。

年下のデューをからかうように笑いながらも、その豊満な胸に彼を深く抱き寄せた時の圧倒的な包容力。力強い腕で背中を抱きしめられ、耳元で掠れた声で名を呼ばれるたび、デューは自分の全てが彼女の愛に溶けていくような錯覚を覚えたものだった。肌と肌が擦れ合う微かな音、熱を帯びた吐息、シーツに沈み込む重み。彼女が時折見せる、女としての無防備な表情。その全てが、今もデューの指先に生々しく残っている。

 

「……絶対に見つけ出してやる。オイラの女は、あいつだけだからな……」

 

二人の男は、それぞれの愛する女の温もりを胸に、果てしなく続く暗闇の逃避行へと足を踏み出した。

 

***

 

それから数ヶ月の時が流れた。

グランベル帝国軍の執拗な捜索の目を逃れ、傭兵や旅商人に扮しながらの過酷な旅路。傷が完治せず、幾度も高熱にうなされるレヴィンをデューが支え続け、死線を越え、二人はようやくシレジアの地を踏んだ。

 

凍てつくような吹雪の向こうに、シレジア城の尖塔が見えた時。張り詰めていた糸が切れたように、レヴィンはそのまま深い雪原に倒れ伏した。

 

「レヴィン! おい、しっかりしろ! もう着いたんだぞ!」

 

城門の兵士たちが駆け寄り、騒然となる中、一人の女性が雪を蹴立てて飛び出してきた。

シレジア王妃、ラーナだった。

 

「レヴィン……! ああ、レヴィン!!」

 

雪にまみれた息子を抱き起こし、ラーナ王妃は王族としての威厳などかなぐり捨てて声を上げて泣き崩れた。高貴な顔は涙と雪でぐしゃぐしゃになり、その細い腕が、半死半生で帰還した息子の背中を力強く、折れんばかりに抱きしめる。

 

「母上……不甲斐ない息子で……申し訳……ありません……」

 

「馬鹿な子……! 生きて戻ってきてくれた。それだけで、神にどれほど感謝しても足りません……! よくぞ、よくぞ生きて……!」

 

ラーナの温かい涙が、レヴィンの凍りついていた頬を濡らす。その絶対的な母の愛に触れた瞬間、レヴィンはついに抗うことをやめ、深い昏睡へと落ちていった。

 

一方、デューはレヴィンを城へ送り届けると、温かい暖炉の火を浴びることもせず、すぐにまた猛吹雪の街へと姿を消していた。

シレジアの城下町、薄暗い酒場、傭兵ギルド。彼は寝る間も惜しんで、金髪の凄腕の弓使いの噂を探して歩き回った。

 

「なあ、弓を持った女の傭兵を見なかったか? 気が強くて、とびきりいい女なんだけどよ……!」

 

だが、返ってくるのは冷たい首の横振りか、酔っ払いの嘲笑だけだった。

吹雪の夜、安宿の冷たいベッドの上で、デューは一人、膝を抱えた。ブリギッドの肌の熱を思い出すたびに、胸の奥が焼け焦げるように痛む。

いくら探しても、彼女の痕跡はどこにもない。世界から彼女の存在だけがすっぽりと切り取られてしまったかのような、底知れぬ喪失感。

 

「どこにいるんだよ、ブリギッド……。オイラを……一人にすんじゃねえよ……」

 

寒さに震えるデューの呟きは、シレジアの容赦ない冷たい風に掻き消されていった。

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