深夜のフィアナ村。
村人たちが寝静まった後も、アウグストの構築した地下連絡網によってもたらされた「旧レンスター騎士団の健在」という報せの熱は、集会所の中に静かに燻り続けていた。
リーフたちと今後の戦術方針を共有し終えた後。
見張りに立っていたセティが、音もなく集会所の扉を開け、レヴィンの傍らに立った。
「……村の南側、森の境界に張っておいた魔力感知の結界に、微かな反応がありました。帝国軍や山賊の気配ではありません。『たった一人』で、こちらの結界を刺激せぬよう、極めて慎重に近づいてくる者がいます」
「単独での極秘接触か。アウグスト、心当たりは?」
「……私の手配した密偵ではありませんな。ですが、もし私の推測通りであれば」
アウグストが目を細めた、その時だった。
「推測など不要です。あの方以外にあり得ない」
それまで壁際で息を潜めていたフィンが、弾かれたように顔を上げた。
フィンは迷うことなく集会所の扉を開け放ち、冷たい夜風が吹き込む村の広場へと歩み出る。
雲の切れ間から差し込む月明かりが、広場の中心に立つ一人の初老の男の姿を照らし出していた。
使い込まれた重厚な外套。歴戦の傷跡が深く刻まれた顔つき。そして、右腕の袖が風に力なく揺れている、隻腕の老騎士。
「……ドリアス、伯爵」
フィンの喉の奥から、空気が擦れるような音が漏れた。
「おお……フィン。フィンではないか」
ドリアスと呼ばれた隻腕の老騎士は、フィンの姿を認めるなり、その顔をくしゃくしゃに歪ませて駆け寄った。
二人の騎士は、互いの肩を強く抱き寄せた。過酷な十数年の時を越え、骨が軋むほどの力で互いの生存を確かめ合う。
「生きて……生きていてくださいましたか、ドリアス伯爵。あなたの右腕は」
「レンスター城が落ちたあの日、殿下を逃すための殿軍を務めた際の傷だ。片腕はトラキア軍に置いてきたが、命まではくれてやらなかったわ」
ドリアスは笑い飛ばしたが、その目からは大粒の水滴が泥土に落ちていた。
そして、ドリアスの視線が、フィンの背後から歩み出てきた茶髪の少年に縫い付けられる。
キュアンの面影を色濃く残し、腰に『光の剣』を佩いた少年の姿に。
「あ、ああ……なんという事だ。我が君……リーフ殿下」
ドリアスはその場に両膝をつき、泥だらけの地面に額を擦り付けるようにして平伏した。
「よくぞ……よくぞご無事で……! この不忠者ドリアス、殿下のお顔を再び拝することができるとは、生きていてこれほどの喜びはございません……!!」
老騎士の絞り出すような慟哭が、夜のフィアナ村に響く。
リーフは駆け寄り、ドリアスの残された左手を両手でしっかりと握りしめた。
「顔を上げてください、ドリアス伯爵。あなたが僕のために片腕を失い、それでも生き延びて反乱の準備を進めてくれていたこと、聞きました。……本当に、ありがとう」
「で、殿下……ッ」
王子の、十年前とは見違えるほどに確かな体温と力強い掌。それを受けたドリアスは、もう声を殺すことすらできず、子供のように肩を震わせて泣き崩れた。
フィンもまた、主君と戦友の再会に、ただ無言で目を伏せ、奥歯を噛み締めていた。
「感動的な再会ですな。ですが、感傷に浸る時間はそう長くはありませんぞ」
アウグストの低く平坦な声が、その場の熱を刃物のように断ち切った。
ドリアスが顔を上げ、残された左手で乱暴に目元を拭う。暗がりから歩み出たアウグストへ向けられた眼光には、明確な殺気が宿っていた。
「お前は……なぜ、ブラギの破戒僧が殿下の御前にいる」
「『軍師』として雇われたからです。感情論でしか動けない理想主義者が、殿下の血を無駄に流させないように」
「貴様……ッ」
ドリアスが残された左手で腰の剣に手を掛けようとするが、フィンが間に入ってその腕を制した。
「お待ちください、ドリアス伯爵。彼の策と連絡網がなければ、我々はあなた方の生存すら知ることができなかった。今は、感情を抑える時です」
「フィン……お前がそういうのなら、剣は収めよう。だが、私はこの男のやり方を信用せんぞ」
ドリアスはアウグストから視線を外すと、再びリーフに向き直った。
「殿下。私はアウグストの連絡網を通じて、殿下がこのフィアナの地に身を寄せられていることを知りました。……ですが、私はすぐにこの村を去らねばなりません」
「どうしてですか。せっかく再会できたのに……!」
リーフが弾かれたように声を上げる。
「帝国軍の監視は日に日に厳しさを増しております。私がこの村に長居すれば、殿下のみならず、この村の人々にまで累が及ぶでしょう。……それに、ターラやアルスター方面で、決起のための『兵』を束ねる者がどうしても必要なのです」
ドリアスは、リーフの手を自らのゴツゴツとした手で包み込んだ。
「アウグストが『理』を束ねるというのなら、私は『情』を束ねましょう。……殿下はどうか、この村で力を蓄えていただきたい。そして、来たるべき蜂起のその日、どうか我々を勝利へと導く『光』となってください」
役割分担の明確な提示。
それは、幼き王子にトラキアの未来を託すという、老騎士の命を懸けた誓いであった。
「……わかりました。ドリアス伯爵、どうか死なないで。必ず、また生きて会いましょう」
「御意に。……我が命、殿下のために」
再び深く頭を下げたドリアスは、フィンと視線を交わすと、夜明け前の闇の中へと溶け込んでいった。
「……行ったか」
レヴィンが息を吐く。
「理のアウグストと、情のドリアス。……これでリーフ軍を支える『両翼』が揃ったわけだ。だが、両極端すぎる二人の軍師を使いこなすのは、容易じゃねえぞ、リーフ」
「はい。でも、僕は逃げません」
リーフは、ドリアスが消えた暗闇を真っ直ぐに見据えたまま、力強く頷いた。
フィアナ村を包む夜明け前の静寂。
しかし、その静寂の裏側で、トラキア全土を揺るがす巨大な歯車が、確かな音を立てて噛み合い始めていた。