異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第22話

ドリアスがハンニバルの山荘へと帰還し、フィアナ村にリーフ軍という確固たる意志の軸が据えられてから数日が経った。

アウグストの徹底した指揮と、紫竜山を介した物資の巡りにより、村は蜂起に向けた嵐の前の静けさと、熱を帯びた規律に包まれていた。

 

その日の早朝、村外れにあるレヴィンの隠れ家では、旅の支度が進められていた。

 

「……本当に、行くのですね」

 

入り口に腕を組んで寄りかかっていたエーヴェルの瞳が、微かに揺れる。

 

「デューたちも砂漠の神殿に潜入したままです。レヴィン、あなたまで村を離れれば、マギ団の……いや、リーフ軍の戦力は大きく削がれることになります」

「アウグストという優秀で底意地の悪い軍師がいる。フィンの槍とあんたの剣があれば、当面の防衛は問題ないだろう」

 

レヴィンは旅用の分厚い外套を羽織り、革袋の結び目を固く締めた。

 

「俺は、外の空気を吸ってくる。帝国がトラキア全土で何を企み、どう動いているのか。俺自身の目で見て、風の音を聞いておきたい。……それに、こいつの『記憶の糸口』を探すためにもな」

 

レヴィンの視線の先。

部屋の隅には、彼に保護された銀髪の少女――ユリアが、膝を抱えて小さくうずくまっていた。

彼女の瞳は相変わらず虚ろだったが、その表情には以前のような無機質な絶望ではなく、明確な「恐怖」と「拒絶」が色濃く浮かび上がっている。

 

「……嫌。……いかない」

 

ユリアの小さな肩が、小刻みに震える。

 

「ユリア。お前が怖いのはわかる。だが、このままこの村で安全に匿われているだけでは、お前の心に空いた穴は永遠に塞がらねえ」

 

レヴィンが歩み寄ろうとした瞬間。

 

「父さん、少し待ってください」

 

澄んだ少年の声と共に、コープルが部屋に入ってきた。

彼が姿を見せた途端、ユリアは弾かれたように顔を上げ、すがりつくようにコープルのローブの裾をきつく、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。

 

「あ……」

「大丈夫だよ、ユリア」

 

コープルは嫌な顔一つせず、ユリアの隣にしゃがみ込み、彼女の冷え切った両手を自分の手で優しく包み込んだ。

ブラギの血統が放つ清浄な魔力と、コープル自身の底抜けの体温が、ユリアのひび割れた精神の隙間をゆっくりと埋めていく。

 

「……コープル……離れないで……。暗いところは……炎は……もう、嫌……」

「うん。僕はずっと君の味方だよ」

 

コープルは、怯える小鳥を撫でるようにユリアの銀色の髪をすいた。

 

「でもね、ユリア。レヴィン殿は、君の本当の笑顔を取り戻すために旅に出るんだ。君の心の中にある『暗くて怖いもの』を追い払うための手がかりを見つけるためにね」

「手がかり……?」

 

「そう。僕の治癒の力だけじゃ、君の心の奥底にある傷までは治しきれない。……だから、少しだけ、父さんの『目』になってくれないかな?」

 

コープルは、ユリアの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「君が見てきた世界を、君の足で歩いて確かめるんだ。もし、どうしても辛くなったら、いつでもこの村に帰っておいで。僕が絶対に、君を受け止めるから」

 

絶対的な肯定と、無条件の庇護の約束。

ユリアの虚ろだった瞳に、微かな光が宿った。彼女はコープルの手をギュッと握り返し、数秒の沈黙の後、小さく頷いた。

 

「……うん。……いく」

「ありがとう、ユリア。君は強いね」

 

コープルがふわりと微笑む。その瞬間、ユリアの蒼白だった頬にほんのりと朱が差し、彼女はコープルの胸元にコテンと額を押し当てた。

恐怖ではなく、完全な安心と、自立を放棄した抗いがたい依存の現れだった。

 

部屋の入り口の隙間。

その光景をこっそり覗き見ていたタニアは「……またタラシ込んでる! あいつ、息をするように女の子を狂わせてる自覚ないの!?」と頭を抱え、その後ろでリノアンはギリッと唇を噛み締めながら、冷たい視線をユリアの背中に突き刺していた。

さらにその傍らでは、マリータが一切の感情を顔に出さぬまま、ただ静かに腰の剣の柄に手を置いていた。その周囲の空気だけが、魔刃のように冷たく、鋭く張り詰めている。

 

「……あのガキのタラシっぷりには、恐れ入るぜ」

 

村外れの街道を歩き出しながら、レヴィンがため息をつく。

隣を歩くユリアは、まだ心細そうにレヴィンの外套の裾を掴んでいるが、その足取りは以前よりもしっかりと大地を踏みしめていた。

 

「さて、どこから見て回るか。……まずはトラキアの中央、マンスター方面の『子供狩り』の現状から探りを入れるか」

 

レヴィンとユリアの姿が、朝霧の向こうへと消えていく。

 

***

 

一方、フィアナ村の集会所。

レヴィンを見送ったリーフは、アウグストと共にトラキア全土の地図を囲んでいた。

傍らにはフィンとナンナ、そしていつの間にか村に居着いていた元海賊のリフィスが、居心地悪そうに立っている。

 

「……マギ団の組織化は順調です。マチュアの指揮で、タニアや若者たちの連度も上がっている。これで、ターラのグレイドたちに合流する準備は」

 

リーフが地図を指差そうとした時、アウグストの冷ややかな声がそれを遮った。

 

「お焦り召されるな、王子。戦を動かすのは熱意ではありません。……現在の我々の総兵力と、ターラ周辺に布陣するトラキア軍・帝国軍の戦力差を正確に把握しているのですか?」

 

「それは……」

「絶望的ですな。まともにぶつかれば、一瞬で塵と化す」

 

アウグストは木駒を無造作に弾き飛ばした。

 

「今の我々に必要なのは、無謀な合流ではない。……帝国が次にどう動くか、その初動の『隙』を突くための準備です。リフィス」

 

突然話を振られ、リフィスの肩がビクッと跳ねる。

 

「なんだよ? アウグストの旦那」

「お前のかつての『同業者』たち……ダキアの森に潜むパーンの盗賊団や、紫竜山のゴメスたちに、帝国軍の物資輸送ルートの警戒を強化させろ。……戦の初手は、常に兵站への打撃から始まる」

 

「へいへい。すぐに手配しますよ」

 

リフィスは逃げるように集会所から飛び出していった。

 

「……アウグスト。あなたは本当に、非情なほどに現実しか見ていないのですね」

 

フィンが、鋭い視線を軍師へ向ける。

 

「感情で勝てるなら、レンスターは滅んでいない。……王子」

 

アウグストはリーフに向き直った。

 

「戦いが始まれば、あなたのその『正義』は幾度となく試されることになります。……泥に塗れ、悪党の力を借り、時には民の血を犠牲にしてでも、大局的な勝利を掴み取る覚悟が、あなたにはありますか?」

 

軍師からの、冷酷な問いかけ。

リーフは一瞬息を呑んだが、すぐにフィンやナンナ、そして闇の中へ消えていった老騎士ドリアスの顔を思い浮かべた。

 

「……覚悟は、できています。フィンやナンナはもちろん、グレイドやドリアス伯爵……セルフィナ。皆、僕にとっては等しく大切な、かけがえのない臣下であり、家族だ。誰一人欠けることなく、全員を守り抜いてみせる。……そのためなら、僕はどんな泥でも被る!」

 

純粋な仲間への愛と、トラキアの未来を背負う王子としての力強い宣言。

 

「……殿下」

 

その言葉に、フィンは胸を熱くして深く、深く頭を下げた。ナンナもまた、ただ庇護されるだけの子供から「王」の顔つきになり始めた幼馴染の背中を、静かに見つめている。

 

(青臭い理想論だ。だが……)

 

アウグストはその計算高い氷のような瞳の奥で、いかなる現実を突きつけられても折れないリーフの「将器」を、微かに、しかし確かに評価していた。

 

理と情。相反する二つの力がリーフという若き王の元で交わり、トラキア解放の巨大な歯車が、後戻りできない確かな音を立てて回り始めていた。

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