異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第23話

グランベル暦775年。 トラキアの荒野で反乱の炎が燃え上がる中、大陸の中心たる帝都バーハラの奥深くでは、冷たく重苦しい絶望が静かに澱んでいた。

事の始まりは十数年前、フリージ家当主夫人であるヒルダの、愛娘すらも盤上の駒として扱う冷酷な政治的打算に遡る。 皇帝アルヴィスにファラの血を色濃く引くご落胤(サイアス)が現れたという噂を耳にしたヒルダは、「フリージの至宝を、沈むかもしれない泥船には乗せられない」と計算した。次代の覇者が皇太子ユリウスとなるか、それともサイアスとなるか。盤面がはっきりするまで、イシュタルをユリウスに近づけることを意図的に遅らせたのである。

だが、その「様子見」は結果として最悪の悲劇を生んだ。 ユリウスの皇太子としての地位が揺るがないと確信したヒルダは、慌てて宮廷工作を行い、娘の謁見の取り次ぎに奔走した。しかし、数多の政治交渉でさらに時間が浪費され、イシュタルがようやくユリウスの傍に仕えることを許されたのは、グランベル暦771年以降――すなわち、暗黒神ロプトウスがその身に完全に覚醒した後のことであった。

 

***

 

帝都バーハラの皇宮・星明かりの回廊。

 

「……トラキアのターラで、小賢しいネズミ共が暴れ回っているそうだね。現地の駐留軍は一体何をしているのかな」

 

窓辺に寄りかかり、夜闇を見下ろすユリウスの声は、氷のように冷たかった。

その背中の数歩後ろに控えていたイシュタルは、静かに首を振る。

 

「申し訳ありません、ユリウス様。フリージの軍も鎮圧に向かっておりますが、反乱軍の抵抗が予想以上に激しく」

 

「言い訳を聞きたいんじゃない」

 

ユリウスが振り返る。

その瞳には、一人の少女への気遣いは存在せず、ただ不機嫌な絶対者としての苛立ちが満ちていた。

 

「それに、各地の『子供狩り』の進捗も遅すぎる。帝国の礎となるべき子ども達が、一向に集まらないじゃないか。……イシュタル、きみの親族たちは、ぼくの命令を軽んじているのかな」

 

「そ、そのようなことは決して……! ただ、民の反発も強く、実務にあたる兵士たちの中にも動揺が広がっており……」

 

「動揺?」

 

ユリウスはふっと口角を上げると、音もなく歩み寄り、イシュタルの美しい薄紫の髪を一束すくい上げて弄んだ。

 

「おかしなことを言うね。帝国千年の繁栄の礎になるのに、何の動揺が必要なんだい? ……それとも、イシュタル」

 

ユリウスの顔が、ぞっとするほど近くに迫る。

 

「おまえ自身が、俺の命令を心の底で拒絶しているんじゃないのか」

 

図星を突かれ、イシュタルの肩が微かに跳ねた。

 

(僕、俺、私……。目の前にいるこの方は、本当のユリウス様なのか、それとも)

 

幼い子供たちを業火にくべる非道。誇り高きフリージの魔道士として、一人の人間として、彼女の魂はその所業についていくことができない。

 

「……私は、ユリウス様に、すべてを捧げております……」

 

震える声で絞り出された言葉。

ユリウスはすくい上げていた髪を無造作に手放すと、ひどく冷めた目でイシュタルを見下ろした。

 

「……おまえの目は、私を怖がっている。つまらないな」

 

それだけを言い捨て、ユリウスは回廊の奥へと消えていった。

 

たった数回のやり取りの中で、不気味なほどに切り替わる一人称と二人称。

一つの肉体の中で複数の人格が混濁し、せめぎ合っているかのようなそのブレは、イシュタルの心を底知れぬ恐怖と孤立感で塗りつぶしていく。

 

残されたイシュタルは、冷たい大理石の床に膝をつき、両手で顔を覆った。

 

「……すまない、イシュタル」

 

不意に、重く沈んだ声が降ってきた。

顔を上げると、そこには炎の紋章を背負うこの国の絶対君主、皇帝アルヴィスが立っていた。

 

「陛下……申し訳ありません、お見苦しいところを……」

「謝るのは私の方だ。……皇帝でありながら、あの狂気に飲まれた息子を止めることもできず、ただお前にすべてを背負わせている。私の無力が、お前の美しい髪を悲しみの色に染めているのだな」

 

アルヴィスの横顔には、覇王としての威厳はない。一人の父親としての深い絶望だけが張り付いていた。

彼にはイシュタルを慰める言葉をかけることしかできない。暗黒神の圧倒的な力を前に、彼には、あの非道な子供狩りを正面から止める権力も力も、すでに残されてはいなかった。

 

運命の呪縛の前にはあまりにも無力な父の姿。イシュタルは、ただ力なく微笑むことしかできなかった。

 

***

 

一方、皇宮の奥深き、軍務省の極秘執務室。

 

サイアスは、山のように積まれた羊皮紙の束を前に、一人黙々と羽ペンを走らせていた。

部屋の明かりは最小限に落とされ、彼の周囲には幾重にも防音と防諜の魔道結界が張り巡らされている。

 

「……イザーク方面へ向かう異端審問官たちの第十二巡回ルート。この隊の進路を、崩落の危険がある旧道へと迂回させる。さらに、補給物資の書類に不備を紛れ込ませて、現地の砦での足止めを三日……いや、四日は稼げるか」

 

サイアスは、巨大な帝国軍と教団のシステムを内側から緻密に計算し、露見しないギリギリのラインで「遅延工作」を行っていた。

彼もまた、アルヴィスと同様にユリウスの子供狩りに強い不満と憤りを抱いている。だが、完全に阻止しようと真っ向から刃向かえば、己の命はおろか、水面下で進めている抵抗の火種すら一瞬で消し炭にされることを、彼の明晰な頭脳は誰よりも正確に演算していた。

 

(完全な阻止は不可能だ。今の私にできるのは、巨大な歯車の回転に砂を噛ませ、少しでも多くの子供たちが逃げ延びる時間を稼ぐことだけ)

 

書類に偽造の承認印を押し、サイアスは深く息を吐き出した。

無力感に苛まれながらも、決して思考を止めない。彼の孤独な暗闘は、表舞台での冷徹な軍略とはまた違う、静かで、しかし血の滲むような帝国内部でのレジスタンスであった。

 

ユリウスとイシュタルの間に生じた致命的な亀裂。アルヴィスの嘆き。そして、サイアスの孤独な遅延工作。

帝都バーハラの厚い壁の内側で、帝国は確実に、その内側から腐り落ち、崩壊へのカウントダウンを始めていた。

 

 

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