翌日。ヴェルトマー城の壮麗な回廊に、不快なほど甲高いヒールの音が響き渡っていた。
「イシュタル! 何を呆けているんだい!」
大理石の柱に背を預け、目を伏せていたイシュタルの前に現れたのは、フリージ家の当主夫人である母・ヒルダだった。
彼女の顔には、権力への執着と、何より「イシュタルをユリウスに近づけるのを遅くしてしまった失策」に対する焦りが、醜く張り付いている。
「お母様……」
「『子供狩り』の進捗が遅すぎるという報告が来ているんだよ! もっと容赦なく、泣き喚くガキ共を掻き集めな! ユリウス殿下を退屈させないのが、お前の務めだってのに!」
「……私には、これ以上無実の子供たちを犠牲にするなど……できません」
イシュタルが力なく首を振った瞬間、乾いた音が回廊に響いた。
ヒルダの平手打ちが、イシュタルの白い頬を赤く腫れ上がらせる。
「何を甘っちょろいことを……! ユリウス殿下がお前を見放したら、わざわざ時間をかけて磨き上げたお前を差し出した意味がなくなるじゃないか! 少しは殿下に寄り添って、喜んで見せなさい!」
ヒルダは吐き捨てるようにそう言うと、苛立たしげに豪奢なドレスを翻して去っていった。
頬の痛みよりも、肉親から「権力のための道具」としか見られていない事実が、イシュタルの呼吸を浅くする。
***
その日の午後、ユリウスの執務室。
「……というわけでございます、ユリウス殿下」
床に額がつくほど深く頭を下げているのは、本来トラキア方面の国境警備に就いているはずのフリージ軍将校、ケンプフであった。
己の才能を認めず、常に自分の上に立つラインハルトを猛烈に憎悪する彼は、ラインハルトを失脚させるその一点のためだけに、軍規すれすれの強引な手段で単独で帝都へ参内していた。
「ラインハルト将軍とイシュタル様は、民の反発を理由に、明らかに『子供狩り』の巡回ルートを意図的に迂回させ、兵の展開を遅らせております。……僭越ながら、このケンプフ、帝国の輝かしき礎となるべき事業を、あのような個人的な感傷で遅滞させるのは、殿下に対する不忠極まりない行為であると具申いたします!」
「ほう」
ユリウスは玉座の肘掛けに頬杖をつき、退屈そうに目を伏せたまま応じた。
「つまり、僕の可愛いイシュタルと、あの目障りな騎士は……裏で手を組んで僕の命令をサボっている、と?」
「ご慧眼の通りでございます! 特にラインハルトの奴めは、イシュタル様の優しさにつけ込み、巧みにフリージの軍権を私物化しております! このままでは……」
「わかった。もういい」
ユリウスの冷ややかな一瞥に、ケンプフの肩がビクッと跳ね、口を噤む。
「ケンプフ。……君は、僕のために働けるのか」
「は、ははっ! このケンプフ、殿下のためならばいかなる任務も完璧に!」
「じゃあ、君に任せよう」
ユリウスはゆっくりと目を開き、その泥のように濁った瞳でケンプフを見下ろした。
「トラキア方面の『子供狩り』の全指揮権は、今日からイシュタルではなく、君と……そうだな、マンスターのレイドリックに委ねる。好きにやりたまえ。イシュタルの指示は一切聞かなくていい」
「なっ……! ま、誠でございますか!?」
ケンプフの顔が、驚愕と、それを上回る狂喜に歪んだ。憎きラインハルトの頭越しに、皇太子から直接の絶大な権力を与えられたのだ。
「ありがたき幸せ! この天才ケンプフ、必ずや殿下のご期待にお応えしてみせますぞ!!」
ケンプフは床に何度も額を擦り付け、有頂天になって執務室を後にした。
誰もいなくなった玉座の間で、ユリウスは一人冷たく嗤った。
イシュタルの手を汚させないための配慮などではない。「僕のやり方を拒絶するなら、君からすべての権力を奪い、あの下品な犬どもが君の領地で嬉々として子供を攫っていくのを、ただ指をくわえて見ているだけの『飾りの鳥』にしてやる」という、極めて残酷で理にかなった、ユリウスなりの「嫌がらせ」であった。
***
夕刻。ヴェルトマー城の中庭。
「……私の指揮権が、ケンプフとレイドリックに……?」
ユリウスからの決定を知らされたイシュタルは、血の気を失い、石造りのベンチに力なく腰を下ろしていた。
「イシュタル様……お顔色が優れません。どうか、このラインハルトに悩みを打ち明けてはいただけませんか」
その傍らに片膝をつき、彼女を見上げているのは、ラインハルトだった。
彼にとって、実権を奪われ、疲弊し孤立していくイシュタルをただ傍で見守ることしかできないのは、己の肉を削ぎ落とされるような苦痛だった。
「ありがとう、ラインハルト。でも、これは私が背負うべき罪……貴方に背負わせることはできないわ。それに、これ以上私に関われば、貴方の立場まで」
「私は構いません! イシュタル様をお守りすることこそが、私の騎士としての……」
ラインハルトが熱を帯びた声で言葉を重ねようとした時、ふと、重苦しい中庭の空気を裂くように、城の奥から悲痛な叫び声が響いた。
交錯する愛と狂気、そして嫉妬。帝国の権力中枢は、致命的な崩壊に向けてその熱を帯び始めていた。