異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第25話

重苦しい中庭の空気を裂くように響いた悲痛な叫び声。

それは、フリージの魔法騎士オルエンの鼓膜をも鋭く打ち据えた。

 

兄ラインハルトの背を追い、ヴェルトマー城の回廊を歩いていた彼女は、その声が皇太子ユリウスの私室の方向から聞こえたことに気づき、咄嗟にヒールを翻した。

 

(今のは……ユリウス殿下の声? 暴漢でも侵入したというのか)

 

オルエンは薄暗い廊下を駆け抜け、半ば開いたままになっていた重厚な扉の隙間へと滑り込んだ。

 

「ユリウス殿下! ご無事です……か」

 

踏み込んだ先。

月明かりだけが差し込む冷たい石床の上で、黒衣の皇子がたった一人、自らの頭をかきむしりながらうずくまっていた。

 

「……あぁ……やめろ……。僕の頭の中で、囁かないでくれ……!」

 

ユリウスの声は、昼間に帝国の絶対者として振る舞う彼のものではない。

酷くひび割れ、怯え、暗闇に怯える幼い子どものように震えている。

 

「殿下……?」

 

オルエンが剣の柄から手を放し、近づく。

ユリウスは弾かれたように顔を上げた。

 

その瞳の奥には、ドロドロとした『暗黒神(ロプトウス)』の狂気と、かつての心優しい『ユリウス』の魂が、主導権を奪い合うように激しく混濁していた。

 

「オルエン……か? 来るな……! 僕に近づくな!」

 

ユリウスは自らの両手を顔の前にかざし、その掌をひどく恐ろしいものでも見るかのように震わせた。

 

「僕の手は……血塗られている。彼らが……小さな子どもたちが泣き叫ぶ声が、耳から離れないんだ。僕の心を、僕自身の記憶を、黒い泥のようなものが塗りつぶしていく。……怖いんだ。僕が、僕でなくなってしまうことが……!」

 

その痛切な吐露は、オルエンの胸の奥底を激しく打ち据えた。

帝国の『子供狩り』を主導する冷酷な悪魔。それが今の皇太子の評価だ。だが、目の前で涙をこぼし、自らの罪と内なる闇に恐怖しているこの青年は、紛れもなく『被害者』であった。

 

(この方は……本当はこんなにも傷つき、苦しんでおられるのだ。それなのに、帝国は……誰も、彼を救おうとはしないのか)

 

オルエンは無意識のうちに床に膝をつき、顔を覆って震えるユリウスのひどく冷たい手を、自らの両手で包み込んでいた。

 

「大丈夫です……! 貴方様の中にある優しいお心は、決して消えてなどおりません。私には、わかります」

「オルエン……君の、手は……」

 

暗黒の冷気に蝕まれた身体に、オルエンの体温がゆっくりと触れる。

ユリウスはすがるように、オルエンの細い肩に額を押し当てた。

 

「……温かいね。君の傍にいると、少しだけ……あの声が、遠のくんだ……」

 

彼の静かな吐息が首筋に触れ、オルエンは彼を庇うようにその背に腕を回した。

 

(私は、この方を守りたい。世界中が彼を悪魔だと罵ろうと……この暗闇から、彼を救い出したい)

 

それは、一人の騎士としての忠誠を超えた、危うくも純粋な熱情(庇護欲)の芽生えであった。

 

***

 

ユリウスの呼吸が落ち着き、彼を寝台に休ませた後。

オルエンは私室を抜け出し、城の中庭へと向かった。

 

そこには、子供狩りの実権を剥奪されて絶望に沈むイシュタルの傍らで、痛ましげに片膝をつく兄・ラインハルトの姿があった。

 

「ありがとう、ラインハルト。でも、これは私が背負うべき罪……貴方に背負わせることはできないわ。それに、これ以上私に関われば、貴方の立場まで」

「私は構いません! イシュタル様をお守りすることこそが、私の騎士としての……」

 

「兄上」

 

オルエンは、張り裂けそうな思いを胸に、二人の間に歩み出た。

 

「オルエン? どうしたというのだ、急に」

「私は、兄上がわかりません」

 

オルエンの顔には、かつて絶対の敬意を抱いていた兄に対する、明確な失望と怒りが刻まれていた。

 

「フリージの軍は、罪のない子供たちを攫い、業火にくべる『子供狩り』の片棒を担いでいます。私は先ほど、ユリウス殿下の真のお姿を見ました。殿下は……本当は心優しい方です。自身に振りかかっている恐ろしい運命に、たった一人で苦しんでおられる!」

 

「……オルエン、お前は何を言っている」

 

「イシュタル様も、この非道な行いに心を痛めておられる。それなのになぜ、兄上はフリージ軍としてあのような残酷なシステムに従い続けているのですか! ユリウス様の苦しみに目を瞑り、ただ命令に従うだけの機械になることが、誇り高き魔法騎士のすることですか!」

 

オルエンの声が、夜の中庭に響く。

彼女にはわからないのだ。なぜ兄のような最強の騎士が、この間違った帝国のあり方を正そうとせず、ただ黙々と従順に剣を振るっているのか。

 

「オルエン。お前はまだ、軍というものをわかっていない」

 

ラインハルトは静かに立ち上がり、妹を真っ直ぐに見据えた。

 

「我々は騎士だ。国家の暗部や、主君の抱える業のすべてを裁く権利などない。私の剣は、ただフリージのために……そして」

 

ラインハルトの視線が、ほんの一瞬だけ、ベンチで項垂れるイシュタルへと向けられた。

彼の瞳の奥にあるもの。それは、誇り高き主君への忠誠という名で何重にもコーティングされた、極めて重く、そして決して報われることのない『無自覚な恋慕』であった。

 

(私が軍に背けば、イシュタル様の立場は完全に失われる。彼女がこれ以上傷つくのを、私は黙って見ているわけにはいかないのだ。……たとえ、この手がどれほどの血に塗れようとも)

 

ラインハルトにとって、己の魂を地獄に落としてでもイシュタルを傍で守り抜くことこそが、彼の愛の形であり、騎士としての唯一の存在意義であった。

 

だが、そんな兄の泥臭い感情など、純粋すぎるオルエンに理解できるはずもなかった。

彼女の目に映ったのは、権力と体制の不条理に屈し、真に救うべき者(ユリウスや子供たち)から目を背ける、臆病な兄の姿でしかなかった。

 

「……わかりました。もし、それが兄上の『騎士道』であるというのなら」

 

オルエンは、きつく唇を噛み締め、後ずさった。

 

「私は、兄上とは違う道をゆきます。私は……ユリウス様の傍に残り、あの方をお救いしてみせます」

 

それは、長年寄り添ってきた兄妹の、決定的な決別の瞬間であった。

 

互いにすれ違う正義と、隠された愛憎。

その痛ましい亀裂を嘲笑うかのように、ヴェルトマー城の奥深くでは、再び暗黒の狂気を取り戻したユリウスが、冷酷な瞳で自らの玉座から立ち上がろうとしていた。

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