オルエンの足音が遠ざかり、中庭には冷たい夜風と、致命的な亀裂だけが残された。
「……ラインハルト。お前には、本当に苦労をかける」
石造りのベンチに座り込んだまま、イシュタルの細い肩が微かに揺れる。
「私こそ、お役に立てず……申し訳ありません、イシュタル様」
ラインハルトは片膝をついたまま、頭を垂れた。膝の上の拳は、薄い革手袋が破れそうなほど固く握り込まれている。
「……オルエンの言う通りかもしれないわ。私たちがフリージの軍に留まり、こうして従順にしている限り……帝国は、子供たちの血をすすり続ける」
「それは違います。イシュタル様が軍の要職におられるからこそ、サイアス殿下と通じ、救えている命があるのです」
ラインハルトが顔を上げる。
「貴女様は、泥を被ってでもこの国の未来を繋ごうとされている。その高潔な御心を、私が……このラインハルトが、誰よりも理解しております」
その言葉は、臣下としての分を完全に越えた熱を帯びていた。
「ラインハルト」
イシュタルの瞳が、拒絶の色を浮かべる。
彼女の心はすでに、暗黒に囚われた絶対の君主・ユリウスに縛り付けられている。彼がどれほど狂気に塗れようとも、彼女は彼を見捨てることはできない。
「……ありがとう。でも、もういいの。貴方の優しさは……今の私には、眩しすぎるわ」
イシュタルは目を伏せ、完全に彼から顔を背けた。
ラインハルトの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まる。
(私は……彼女を救えないのか。この剣がどれほどの敵を切り伏せようとも、彼女の心に巣食う『運命』という名の闇を、切り裂くことはできないというのか)
二人の間に、取り返しのつかない静寂が落ちようとした、その時である。
「――随分と、しんみりした夜会だね」
中庭の空気が、急激に凍りついた。
いつの間にか、闇に溶け込むような黒衣を纏ったユリウスが、二人の数歩背後に立っていた。
その瞳には、先ほど私室でオルエンに見せたような弱々しい少年の面影はない。絶対的な支配者としての暗い炎と、ロプトウスとしての虚無が混濁して渦巻いている。
「ユリウス様……!」
イシュタルが弾かれたようにベンチから立ち上がる。ラインハルトも即座に立ち上がり、軍人としての姿勢を正した。
「イシュタル。君の顔色が悪いのは、権力を失ったからかな? それとも」
ユリウスの泥のように濁った視線が、イシュタルを庇うように半歩だけ前に出たラインハルトを射抜いた。
「この男の、鬱陶しい忠義ごっこのせいかな」
「ユリウス様! ラインハルトは私を慰めてくれていただけです! 決して、不忠なことなど」
イシュタルが必死に弁明する。
だが、その行為こそが、現在のユリウスにとっては最も致命的な引き金であった。自分の「所有物」であるイシュタルが、他の男を必死に庇う。
それは、どす黒い嫉妬の炎を燃え上がらせるには十分の火種だった。
「黙れ、イシュタル」
ユリウスの絶対零度の声が、中庭の空気を完全に支配した。
「僕とお前の間に、あの男は必要ない」
ユリウスはイシュタルから完全に視線を外し、ラインハルトだけを見据えた。
「ラインハルト。お前は少し、俺の目に障る。……トラキアや帝都での任務はもういい。シレジアの……そうだな、ザクソンに行け。あそこでも小賢しい反乱が起きたそうじゃないか。お前の得意な雷魔法で、塵一つ残さず焼き払ってこい」
ザクソン。
シレジアの玄関口であり、グランベル帝国との国境地帯に位置する極寒の要衝。「反乱の火種が燻る最前線だからこそ、帝国最強の騎士に任せる」という大義名分(建前)は完璧に成立している。
だが、その本質は「子供狩りの指揮系統からの完全な排除」であり、同時に「イシュタルの傍からの物理的な隔離」であった。
極めて残酷で、しかし軍の命令としては反論の余地が一切ない、事実上の『完全なる左遷(飼い殺し)』の宣告。
「……御意に」
ラインハルトは、一瞬の躊躇いも見せず、深く頭を下げた。
ここで逆らえば、命令違反として処断されるだけでなく、イシュタルの立場まで決定的に危うくなる。彼の冷徹な頭脳は、自分が完全に「詰んだ」ことを瞬時に演算し終えていた。
己の心を殺し、ただ従順な刃として絶対者の理不尽な命令に従う。それが、彼に残された唯一の騎士道(呪い)であった。
「ラインハルト……!」
悲痛な叫びを上げるイシュタルを背に、ラインハルトは一度も振り返ることなく、石畳を鳴らして中庭を去っていった。
ただ一人の理解者、最後の防波堤であった腹心を奪われたイシュタルは、広大で冷たい帝都の中で、完全な孤立へと突き落とされる。
交錯する狂気と、理不尽な嫉妬。
帝国の権力中枢は、表面上の静けさの裏で、崩壊に向けた致命的な亀裂を生み出していた。