グランベル暦776年
帝国の苛烈な圧政と『子供狩り』の恐怖が大陸全土を覆い尽くす中、北方の果て、雪と森に閉ざされたイザークの地で、運命の巨大な歯車が軋みを上げて回り始めようとしていた。
イザークの隠れ里、ティルナノグ。
長年、帝国の目から逃れ、反帝国組織の拠点として機能してきたこの村の静寂は、泥だらけのブーツの足音によって乱された。
「ガネーシャ城から、討伐隊が。……ダナン王の息子たちが率いる大軍です」
集会所の扉を蹴り開けたスカサハの背後で、兄弟子のロドルバンがひどく冷えた声で報告を落とす。
「私たちが諸国の状況を探っている間に、情報が漏れたようですな」
セリスの絶対的な保護者であり、軍師でもあるオイフェが、深く眉間を揉み込んだ。
「向こうから来てくれるなら、手間が省けるじゃない」
重苦しい空気を断ち切ったのは、硬質な金属音だった。
スカサハの双子の妹、ラクチェの親指が、腰の剣の鍔を弾き上げている。その瞳には、恐怖ではなく、研ぎ澄まされた刃のような好戦的な光が宿っていた。
「ラクチェ、馬鹿を言うな。シャナン王子はイード神殿に向かわれたままだ。大軍を相手にまともにぶつかるなど」
「スカサハは怖いの? ……わたしは行くわ。もう十分に修行は積んだ」
「同感ね」
ラクチェの隣で、ロドルバンの妹である女剣士ラドネイが、自らの剣の柄を強く握りしめた。
「いつまでも隠れて怯えているなんて御免よ。奴らはケダモノ。逃げ惑う罪のない人たちを追いかけて……これ以上、帝国の好きにさせるなんて我慢できない」
血の気の多い妹弟子たちの背中を見つめ、スカサハとロドルバンは短い溜息を交わす。だが、彼らの腰に提げられた剣もまた、すでに鞘走る準備を終えていた。
「……スカサハもロドルバンも、私のことを心配してくれているんだよね。ありがとう」
静かな、しかし確かな重量を持つ声。
この軍の総大将であり、シグルドとディアドラの血を引く『光の皇子』セリスが、一歩前へ出た。
少年の面影を残す美しい顔立ちの奥に、かつての聖騎士を彷彿とさせる、決して折れない意志の炎が灯っている。
セリスは腰の銀の剣をゆっくりと抜き放ち、その輝く刃を真っ直ぐに天へと掲げた。
「私だってもう、子供じゃない。きみたちと一緒に戦う。それに、このティルナノグは大事な故郷だ。お世話になった人たちを置いて逃げるわけにはいかない」
銀の剣の切っ先が、冷たいイザークの空気を切り裂く。
「イザークの解放戦争は、今ここから始まる。……行こう!」
***
ティルナノグ近郊の平原。
地響きを立てて進軍してくるのは、ガネーシャ城から差し向けられたダナン王の討伐隊であった。
先陣を切るのは、騎兵隊を率いるイザークの領主・ヨハンと、重厚な戦斧部隊を率いるソファラの領主・ヨハルヴァの兄弟。
「進め! 反乱軍のネズミどもを一人残らず駆逐するのだ!」
馬上からヨハンが号令を下した、その瞬間である。
土煙を上げて接近してくる解放軍の先頭から、一筋の流星が帝国軍の前衛へと突き刺さった。
風になびく漆黒の髪。
常人には目視すら不可能な、神速の踏み込みから放たれる『流星剣』の五連撃。
分厚い鋼の重装甲が紙切れのように容易く斬り裂かれ、帝国兵の鮮血が冷たい空気に赤い花を咲かせる。最前線を単機で突破してくる少女――ラクチェの苛烈極まる殺戮の舞を目にした瞬間、ヨハンの時間が完全に停止した。
「……おお」
ヨハンの手から、愛用の戦斧が力なく滑り落ち、鈍い音を立てて地面に転がった。
「ラクチェ…相も変わらずなんという美しさ、なんという苛烈さ。まるで血塗られた戦場に舞い降りた戦乙女(ヴァルキリー)ではないか……」
「おい、ラクチェ! 突っ込みすぎるな!」
「ラドネイ、右の守りが薄い! 足並みを揃えろ!」
後方からスカサハとロドルバンが怒号を飛ばすが、前線で背中合わせに剣を振るうラクチェとラドネイの勢いは、もはや誰にも止められない。
「ああっ……ラクチェ!君の言葉は小鳥のさえずり、君の瞳は星の瞬き! 私の魂は、今ここで君の刃に貫かれた!」
ヨハンは突如として両腕を天に掲げ、喉の奥から大仰なポエムを張り上げた。
「全軍に告ぐ! これより我が軍は、反乱軍に協力する! 今日から我らは、愛と正義と、ラクチェのために戦うのだ!!」
ヨハン配下の帝国兵たちの動きが、文字通り完全に硬直した。
最前線の死闘のただ中で、指揮官の脳髄が突如として不可解な熱に焼き尽くされたのである。
「な、何を言っているの!? 気持ちが悪い! ここは戦場よ!」
露骨な嫌悪感に顔を歪めるラクチェをよそに、ヨハンは満面の笑みで解放軍側へと馬を反転させた。
「ちくしょう、ヨハン兄貴め! 何トチ狂ったこと言ってやがる! 抜け駆けして寝返りやがって!」
後方に陣取っていた弟のヨハルヴァが、顔を真っ赤にして激怒した。
「こうなりゃおれが兄貴ごと、反乱軍どもを叩き潰してやる! 突撃ィッ!!」
ヨハルヴァの重装の戦斧部隊が、地鳴りを立てて突進を開始する。
だが、その最前列の歩兵の分厚い盾が、旋風のような連撃によって次々と粉砕され、宙を舞った。
「うるさいわね! イノシシみたいに突っ込んでくるんじゃないわよ!」
返り血を浴び、息を弾ませながら鋭い双眸でヨハルヴァを睨みつけたのは、ラドネイだった。
その野性味に溢れた美しさと、勝気すぎる獰猛な視線が真っ直ぐに射抜いた瞬間、突撃の先頭にいたヨハルヴァの脳細胞もまた、致命的なショートを起こした。
「な、なんだあの女は……!ラクチェと同じ…いやそれ以上のイイ女じゃねえか!!」
ヨハルヴァは、手にしていた巨大な勇者の斧を無造作に放り投げた。
「おい、お前ら! 攻撃中止だ! おれも兄貴みたいな真似はしたくねえが……あの娘の瞳におれは撃ち抜かれちまった!」
「……ヨハルヴァ様まで!?」
ソファラ軍の兵士たちから、絶望と混乱の混じった悲鳴が上がる。
「おうしっ! 今日からおれたちも解放軍だ! てめえら、愛と正義とラドネイのために戦おうぜ!!」
「はあ!? あんた、馬鹿じゃないの! あたしは男なんて大っきらいなの! 虫酸が走るわ、近寄らないで!」
「おおっ、その冷たい蔑みの目……たまんねえぜ、ラドネイ! おれの命、お前にくれてやる!」
呆然と立ち尽くすセリスの横で、オイフェがこめかみを強く押さえ、深い、あまりにも深い溜息を吐き出した。
「……ドズル家の指揮官たちは、一体どうなっているのでしょうか」
「よくわからないけど……でも、これで敵の主力は完全に崩壊したみたいだね、オイフェ!」
セリスが、戦場のど真ん中で繰り広げられる理解不能な痴話喧嘩を前に、少し引きつった笑顔で銀の剣を天へ掲げた。
最強の剣技を受け継ぐ少女たちの美しさと苛烈さが、まさかの「兄弟の連続寝返り」という盤面の完全なちゃぶ台返しを引き起こしたのだ。
ヨハン軍とヨハルヴァ軍が味方につき、大混乱に陥ったダナン討伐軍は、解放軍の猛攻の前にあっけなく瓦解。ガネーシャ城はウソみたいな速さで陥落してしまった。
悲壮感と絶望に満ちたイザークの雪原で、若き光の皇子が率いる軍勢がもたらしたこのあまりにも泥臭く人間臭いドタバタ劇は、確かな「希望の風」として、イザーク全土へと怒涛の進撃を開始したのである。