ダナン討伐軍を瓦解させたセリス率いる解放軍は、その勢いのままイザークの平原を駆け抜け、王城であるリボー城へと雪崩れ込んだ。
国王ダナンを討ち取り、城内を完全に制圧するまでに、そう時間はかからなかった。
城のバルコニーに解放軍の旗が掲げられる。長年帝国の圧政に苦しめられてきたイザークの民衆から、地を揺るがすような歓声が巻き起こった。
「セリス様……! よくぞ、この城を取り戻してくださいました……!」
城の長老が、泥に塗れた膝を折り、セリスの前に平伏する。
「イザークの先王はシグルド公子の父上を信頼し、シグルド公子はシャナン王子を助け、今またあなた様が我々を救ってくださる。……あなた様がグランベル王家の正当な後継者であることは、もはや疑う者はおりません。どうか、正義の旗をバーハラまで」
「……いえ。私の力など、微々たるものです。すべては、立ち上がってくれたイザークの人たちの勇気のおかげです」
セリスは長老の震える手を握り、深く頭を下げた。
だが、その視線は低く沈んでいる。人々の過大な期待と「救世主」としての重圧が、少年の細い肩に重い鉛としてのしかかっていた。
(私は、父上のような英雄じゃない。ただ、みんながこれ以上苦しむのを見たくなかっただけで……)
セリスが一人、荒らされた玉座の間に残り、その息を深く吐き出そうとした、その時である。
「――見事な手際だったな、セリス」
玉座の間の入り口から、足音もなく声が響いた。
緑色の粗末な旅マントを羽織り、首からハープを下げた男。その傍らには、銀色の髪をした儚げな少女が、男のマントの裾を死に物狂いで握りしめている。
「え? ……あっ、レヴィン!!」
セリスは目を見張り、弾かれたように駆け寄った。
「レヴィン……いや、シレジアのレヴィン王……!」
「やめろ、昔のようにレヴィンでいいさ」
レヴィンは苦笑交じりに手を振り、セリスの言葉を遮った。
「シレジアはあの戦いで帝国に占領された。俺は今もこうして生き恥を晒しているが、国は母上とともに、誇りを持ったまま滅んだんだ。……俺は今も昔も、ただのしがない吟遊詩人だ。間違っても、俺を王なんて呼ぶなよ」
「レヴィン……ごめんなさい……」
「気にするな。そんなことより、いよいよ始まったな。長い間、待っていた甲斐があったぞ」
レヴィンはセリスの肩を叩き、頼もしげに目を細めた。
「反帝国の兵を挙げるのに、イザークほど都合の良い国はない。よくやった」
「ええ。でも、本当はシャナン王子がいてくれれば、もっと」
「シャナンの奴は、イードの神殿に向かったんだったな?」
「はい。イザーク王家の家宝、神剣バルムンクを取り戻すために。でも、あそこは暗黒魔道士の巣窟だと聞いています。みんな、心配していて……」
「まあ、あいつのことだ。それに……」
レヴィンは、数日前にイード神殿に向けて旅立ったデューとファバルの顔を思い浮かべ、小さく笑った。
「向こうには『頼もしい裏方』も潜り込んでいるはずだからな。心配はいらんさ」
「裏方……?」
首を傾げるセリスに、レヴィンは話題を変えるように、自分の裾を握りしめている少女を前に押し出した。
「セリス。お前が忙しいのは分かっているが、一つ頼みがある。……ユリア、来なさい」
セリスの前に出た少女――ユリア。
透き通るような白い肌と、ひどく虚ろな瞳。彼女の姿を見た瞬間、セリスの心臓が、理由のない強い動悸を打った。
「この子は……?」
「……俺が以前、トラキア付近の国境地帯で保護した娘だ。なにか酷いショックを受けたのか、助けた時には何一つ記憶がなかった。今も、自分が誰なのかすら分かっていない」
レヴィンはユリアの頭にポンと手を乗せ、セリスに向き直った。
「それから色々あってな、各地の情勢を知る度に連れてきていたんだが……俺たちへの追跡が厳しくなってきてな。どうしても連れて行けなくなってしまった。俺はこれから各国の抵抗軍……特に、トラキアで孤軍奮闘しているキュアンの遺児(リーフ)や、コープルたちの状況を探らなきゃならん。……悪いが、この子をしばらく預かってくれないか」
「そんなことが……」
セリスは、不安そうに自分を見上げるユリアの瞳をじっと見つめた。
しかし、ユリアはレヴィンの言葉を聞くや否や、首を強く横に振った。
「いやです……」
消え入りそうな、しかし確かな拒絶。彼女はレヴィンのマントの裾をさらに強く握りしめる。
「わたしは……コープル様のところへ、帰ります……。あの方がいないと、わたしは……また、あの怖い暗闇に……」
ロプト教団に攫われかけた凄惨なトラウマ。それをブラギの奇跡で癒やし、自分を温かな光で包み込んでくれた年下の少年。ユリアの精神は、完全にコープルへの強い依存と思慕で塗り固められていた。彼女にとって、コープルから引き離されることは、再び冷たい絶望の底に突き落とされるに等しい恐怖だったのだ。
「ユリア。気持ちは痛いほどわかるが、今のトラキアの戦場は血みどろだ。お前を連れて行けば、逆にコープルの足手まといになりかねない」
レヴィンが低く諭すが、ユリアの震えは止まらない。
その時だった。
セリスがゆっくりと歩み寄り、ユリアのひどく冷え切った両手を、自らの手でそっと包み込んだ。
「……ユリア。きみの『コープル様』という人は、きっと今も、きみや、たくさんの人たちを守るために、トラキアで必死に戦っているんだね」
セリスの手のひらから伝わる熱。
「だったら、ぼくたちもここで……イザークから、帝国を打ち破らなければならない。そうすれば、きっとまた、彼らと笑って会える日が来る。……だから、それまで、ぼくと一緒に戦ってくれないか。必ず、彼らと合流しよう」
「セリス、様……?」
セリスの底抜けの温もりと、真摯な眼差しに触れた瞬間。
ユリアの虚ろだった瞳の奥底で、何かが静かに波打った。
(この温かさは……なんだろう。コープル様の光とは違う。もっと深くて、静かで……ずっと昔から、この手を知っているような)
それは、コープルに対する「恩人への熱烈な依存」とは全く異なる感情だった。
理屈ではなく、魂の奥底で響き合う『絶対的な安心感』。運命の糸で結ばれた異父兄妹としての、血の繋がった家族に対する直感が、彼女の心の壁を静かに溶かしていった。
「……はい。わたし、セリス様と……一緒に行きます」
ユリアは、吸い込まれるように小さく頷いた。
「ありがとう、ユリア」
セリスが少しだけ緊張を解いて笑うと、ユリアもつられたように、微かに頬を緩めた。
それは、過酷な運命に引き裂かれた兄妹の、何も知らない純粋で美しい邂逅であった。
「……やれやれ。俺がどれだけ言い聞かせても頑固だったのに、血は水よりも濃いってやつか」
レヴィンは小さく肩をすくめると、振り返ることなく玉座の間を後にした。これから彼が向かうのは、トラキアの泥沼の戦場か、それともさらに深い帝国の闇の底か。