グランベル暦761年、8月。
シレジアの短い夏は、帝国の放つ無慈悲な業火によって、白銀の絶景ごと無惨に焼き尽くされようとしていた。
レヴィンが泥のような昏睡から意識を浮上させたのは、窓の外で空を裂くような重低音が響いたからだ。
フリージ軍が誇る雷魔法『トールハンマー』を模した、高位のサンダーの陣が弾ける地響き。
「……っ……」
鉛のように重い瞼を開ける。視界のピントが合うより先に、レヴィンの五感を支配したのは、胸元にすがりつく柔らかな重みと、じっとりと熱を帯びた吐息だった。
甘く、むせ返るような香油の匂い。氷室のように冷え切ったシレジアの空気の中にあって、そこだけが不自然なほどに濃密な熱を放っている。
「……シル、ヴィア……?」
ひび割れた声で名を呼ぶと、レヴィンの胸に顔を埋めていた銀糸の髪が、弾かれたようにビクッと跳ねた。
ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳は、痛々しいほどに赤く腫れ上がっている。血の気の引いた白い肌と、小刻みに震える唇。細い指先がレヴィンの包帯の巻かれていない胸板を恐る恐るなぞり、そこに確かな心臓の律動を確かめると、堰を切ったように大粒の涙を零した。
「あ……レヴィ、ン……! よかった、よかったぁっ……!」
シルヴィアのしなやかな両腕が、レヴィンの首に縋り付くように強く回される。踊り子として鍛え上げられた張りのある太腿が、シーツ越しにレヴィンの脚に深く絡みつき、彼女の沸騰するような体温が衣服の隙間から直接肌へと流れ込んできた。
生と死の境、あの凄惨な泥水の中を彷徨っていたレヴィンにとって、首筋に押し付けられる彼女の震えた息遣いと熱情は、強烈な『命』の引力だった。
「あたし……もう、駄目かと……! レヴィンが死んじゃったら、あたし……どうやって息をしていいか、わかんなくて……!」
「……悪かった。ほら、泣くな。……せっかくのいい匂いが、台無しだぞ」
レヴィンは焼け焦げた内臓の痛みを必死に噛み殺しながら、シルヴィアの華奢な背中に腕を回した。シルヴィアはさらに強く、己の身体をレヴィンに溶かし込むような勢いでしがみついてくる。ふくよかな胸の双丘がレヴィンの胸板に無防備に押し付けられ、二人の乱れた心音が重なり合う。
その時、部屋の片隅に置かれた揺り籠から、小さな泣き声が上がった。
レヴィンの視線の先で、二つの小さな命――コープルとリーンが身じろぎしている。
「俺の、子供たち……」
レヴィンが愛おしげに手を伸ばそうとした、その瞬間。
けたたましい鐘の音が、シレジア城の石壁をびりびりと震わせた。
「報告します! 南の国境線が突破されました! 帝国軍――フリージ家の魔道部隊です!
城下町はすでに火の海に……!」
血相を変えて飛び込んできた伝令の声。
レヴィンの脳裏に、凄惨な死を遂げたシグルド軍の仲間たちの顔がフラッシュバックする。内臓を灼かれた痛みが幻肢痛のように蘇り、彼の瞳から急速に人間らしい光が抜け落ちた。
「シルヴィア。子供たちを連れて隠れろ」
レヴィンは絡みつくシルヴィアを引き剥がし、壁に立てかけられていた魔道書『フォルセティ』を掴み取った。
「レヴィン!? 駄目、どこに行くの! 体がまだ……!」
「俺の責任だ。俺が片をつける」
振り払うように立ち上がったレヴィンが、重い木扉を開け放った瞬間――
「ならぬッ!!」
乾いた破裂音が響き、レヴィンの頬が激しく弾かれた。
体勢を崩して床に膝をついたレヴィンが見上げた先には、冷たい銀色の甲冑を身に纏ったシレジア王妃、ラーナが立っていた。
「……母上……!?」
「死に急ぐことが、シレジア王としての責任の取り方ですか! お前はまた、すべてを投げ出して『逃げる』つもりですか、レヴィン!」
「逃げるだと!? 俺は、俺だけが生き残って――!」
「生き残ったのなら、その命を繋ぎなさい!!」
ラーナの声が雷鳴のように部屋を震わせた。彼女は、恐怖に震えるシルヴィアと二人の赤子を指差す。
「見なさい。あの小さく儚い命を。お前を愛し、お前の帰りを狂おしいほどに待ちわびていた妻を。玉砕覚悟で敵陣に突っ込んで国が救われるというのなら、ダーナ砦の戦士たちは、とうの昔に全滅しています」
「……っ」
「生き延びて、血を繋ぎ、反撃の時期を待つ。それがどれほど泥水をすするような屈辱であろうと……その背中の重さから逃げず、責任を背負って生き抜きなさい!」
ラーナの言葉は、逃げ場のない呪いのようにレヴィンの胸に突き刺さった。
レヴィンはフォルセティを握る手を震わせ、深く頭を垂れた。王妃は静かに歩み寄り、甲冑の冷たい腕で、我が子の頭を一度だけ強く抱きしめた。
「行きなさい、レヴィン。シルヴィアを、子供たちを頼みます……私の、愛する息子よ」
レヴィンは奥歯を噛み締め、シルヴィアの手を強く握り、猛吹雪が吹き荒れる城門の裏道へと駆け出した。
***
「やめろッ! テュルテュから離れろ!」
視界を白く染め上げる猛吹雪の森。シレジアからの脱出を図るレヴィンたちの耳に、悲痛な叫び声が届いた。
アゼルだった。
燃え盛る『ファイアー』の魔道書を片手に、妻であるテュルテュと幼い子供たち(アーサーとティニー)を背に庇い、フリージ軍の重装騎士たちに完全に包囲されている。
「テュルテュ様。ブルーム様からの厳命です。大人しく我々と共にコノートへご同行を。さもなくば、その炎の小僧の命はありませんぞ」
「冗談じゃないわよ! 誰があんたたちなんかに……っ!」
テュルテュは気丈に雷魔力を練り上げようとするが、過酷な逃亡生活の寒さで手が小刻みに震え、魔力がうまく収束しない。
騎士の一人が長剣を振り上げ、無情にもアゼルの手から魔道書を弾き飛ばした。
アゼルが死を覚悟し、テュルテュと子供たちを抱きしめた、その瞬間――。
猛吹雪の森を切り裂くように、一陣の圧倒的な『緑の暴風』が吹き荒れた。
「――そこまでだ、フリージの犬共」
突風が不可視の刃となって雪を巻き上げ、重装騎士たちの巨体が紙屑のように空へ吹き飛ばされ、幹に激突する。
舞い散る雪煙の中、緑色のマントを翻して降り立ったのは、『フォルセティ』を構えたレヴィンだった。
「レ、レヴィン……!? 生きていたのか!」
「お互いにな。積もる話は後だ、アゼル。今は走れ!」
レヴィンが風の結界を展開し、後続の矢と魔法を悉く上空へと弾き返す。そのわずかな隙に、アゼルとテュルテュは子供たちを抱き抱え、レヴィンたちの元へと駆け寄った。
「助かったわ、レヴィン……! あんた、本当にしぶといわね!」
テュルテュが強がりな笑みを浮かべる。だが、冷静なアゼルが周囲の雪についた足跡と、遠くに見えるフリージ軍の松明の数を見て、首を振った。
「レヴィン、このまま一緒に行動するのは危険すぎる」
「アゼル……」
「聖戦士の血を色濃く引く者がこれだけ一箇所に固まっていれば、帝国の魔力探知網ですぐに居場所が特定されてしまう。……ここで、別れよう」
雪山の中での、あまりにも短い再会と別離。レヴィンは反論を飲み込み、深く頷いた。
「僕らは僕らで、なんとか逃げ切ってみせる。君たちも、絶対に無事で……!」
アゼルとテュルテュは、吹雪の彼方、全く別の方向へと姿を消していった。
背後に迫る追手の気配。レヴィンは震えるシルヴィアの細い肩を引き寄せ、身を切るように冷たいシレジアの雪原のさらに奥深くへと足を踏み入れていく。