少し時は遡る
トラキア半島の要衝、自由都市ターラ。
長年、反帝国の気風を保ち続けてきたこの誇り高き都市は今、限界の底で軋みを上げていた。
広場を埋め尽くすのは、武器と呼ぶのもおぞましい農具や錆びた鉄くずを握りしめた、数千の市民たちである。彼らの目は落ち窪み、極度の飢餓と、帝国の「子供狩り」に対する底知れぬ恐怖と憎悪で血走っていた。
「……どうか、剣を収めてください! 今ここで帝国に歯向かえば、街は完全に焼き払われます。もう少しだけ、もう少しだけ耐えて……!」
群衆の前に立ち、泥に塗れた石畳に膝をついて懇願するのは、ターラの若き公女リノアンであった。
彼女は、コープルやマリータ、サフィたちと共に「暴発寸前の市民を説得し、被害を抑える」という目的で密かにこの街へ戻ってきた。だが、為政者としての彼女の悲痛な叫びは、すでに限界を越えた市民の心には届かない。
「耐えろですって!? 昨日、俺の娘がロプトの黒装束どもに攫われたんですよ!!」
「これ以上何を耐えろというのですか! 殺されるのを待つだけの豚になれと言いたいのですか、公女様!!」
投げつけられた言葉の刃が、リノアンの心に食い込んでいく。
彼女は言葉に詰まった。彼らの怒りは正当であり、彼らを守りきれなかった自分自身の無力さという『罪』そのものだったからだ。
(ああ……お父様。私には、この街の悲鳴を抑え込むことなんて、できない……)
絶望に押し潰されそうになったリノアンの震える肩を、背後からそっと支える温かい手があった。
幼き神父、コープルであった。
「……コープル様」
「リノアン。これ以上、彼らに『地獄を受け入れろ』とは言えない。……為政者としての正解が『見殺し』なら、僕はそんな正解を認めない」
ブラギの血を引く少年は、凄惨な現実から決して目を逸らさなかった。彼の言葉は、軍事的な合理性を完全に無視した狂気のエゴである。だが、その純粋で強烈な「光(肯定)」に触れた瞬間、リノアンの心の中で張り詰めていた為政者としての枷が、完全に崩壊した。
「……ええ。そうですわね。私が間違っていました」
リノアンは涙を流しながら立ち上がり、市民たちへと向き直った。
「戦いましょう。たとえこの身が灰になろうとも……私は、あなたたちと共に帝国の圧政に抗います!!」
歓声ではない。地鳴りのような、凄惨な決死の咆哮がターラを揺らした。
説得に来たはずの公女が、自ら反逆の炎に油を注いだのだ。かくして、ターラ市街全土を巻き込む絶望的な「ターラ蜂起」が幕を開けた。
だが、帝国の駐留軍は決して甘くはなかった。
「反乱分子どもを皆殺しにしろ! 一匹残らず串刺しにして、門に吊るせ!!」
重装甲のフリージ軍とロプトの僧兵たちが、四方から広場へとなだれ込んでくる。農具を持っただけの市民たちが、次々と血飛沫を上げて薙ぎ払われていく。
「させないわ……!!」
迫り来る重騎士の槍を、神速の剣閃が弾き飛ばした。剣聖の血を引く少女、マリータである。
彼女の瞳に、国を救うという大義はない。あるのはただ、自分の背後にいるコープルに絶対の安全を保障するという、冷酷なまでの刃の意志のみ。
「マリータ! 突出するな!!」
その時、大気を切り裂くような怒号と共に、凄まじい質量を持った大剣がフリージの重騎士を真っ二つに両断した。
漆黒の鎧を纏った最強の傭兵、ガルザスであった。
「お父様……!」
「俺は、お前を死なせるわけにはいかないんでな。……それに、あの坊主(コープル)には借りがある」
ガルザスは、娘の背中を守るように立ち塞がる。その圧倒的な武の前には、さしもの帝国兵も一時的に足を止めざるを得なかった。
だが、個人の武で覆せる戦局ではない。数万の帝国軍が、すでにターラを何重もの包囲網で囲みつつあった。
市街地の一角に急造されたバリケードの中。
血まみれになったマギ団の面々が集まる中、若き風の魔道士アスベルが、ギリッと奥歯を噛み締めて現実を突きつけた。
「……市民の熱を借りて一時的に中心部を制圧しましたが、大軍による兵糧攻めを受ければ、一週間と持たずにこの街は全滅する。内部の戦力だけでは、絶対に戦局は覆せないでしょう」
「アスベル様……では、どうすれば」
祈るように問うサフィに対し、アスベルは己の魔道書(グラフカリバー)を強く握りしめ、血を吐くような苦渋の表情を見せた。
「……僕とサフィさんで、この包囲網を突破する。そして、東のマンスター方面(フィアナ)にいるはずのリーフ様の本隊に接触し、救援の軍を連れてきます」
その言葉に、周囲の空気が凍りついた。
それはつまり、貴重な魔法戦力であるアスベルが、この死地に市民たちを置き去りにして「脱出」するという意味に他ならない。
「アスベル! あんたが抜けたら、ここは誰が防ぐのさ!」
タニアが悲痛な声を上げる。
「……分かっています! でも、ここで僕が魔力を使い果たして死ねば、ターラは確実に終わるんだ!! リーフ様なら……あの方なら、絶対にここへ駆けつけてくれます!」
アスベルの叫びに、誰もが息を呑んだ。
親友との再会という私情を捨て、泥を被り、「逃げた」という汚名を背負ってでも、確実な反撃の刃(リーフ)を連れてくるための強行策。これこそが、彼に課せられた極限の『業』であった。
「……行け、風の坊主」
重い沈黙を破ったのは、血濡れた大剣を肩に担いだガルザスであった。
「ここには俺がいる。大軍の相手は面倒だが、娘と、恩人の坊主の命くらいは、地獄の底だろうが死守してやる」
ガルザスの言葉は、決して英雄的な自己犠牲ではない。己の血肉(マリータ)を守るための、純粋で利己的な生存闘争の宣言であった。
「……すまない、ガルザス殿。コープル、リノアン、マリータ……必ず、生きていてくれ。必ず戻る!!」
アスベルはサフィの腕を掴むと、風の刃(グラフカリバー)で帝国の重装兵を吹き飛ばし、血路をこじ開けて東の空へと飛び出していった。
取り残された火の海のターラ。
「……コープル様」
リノアンは、震える両腕でコープルの背中にすがりついていた。国も、政治も、すべてが燃え落ちていく中、彼女の世界を繋ぎ止めているのは、もはやこの少年の体温ただ一つであった。
(私が至らなかったせいで、この街は燃えている。……でも、あなたが一緒にこの地獄にいてくれるなら、私は……)
「……近づく者は、私がすべて斬る」
マリータが、リノアンの背後で冷たく呟く。その目は、ただ己の「物理的な刃としての価値」を証明するために、暗闇の先を睨みつけていた。
かくして、アスベルとサフィの決死の伝令は、遥か東方の地で泥まみれになっているリーフ軍(と、そこに同行するセティ)へと向かい。
ターラに残されたコープルたちは、ガルザスという最強の盾とともに、血みどろの絶望的な籠城戦へとその身を投じていったのである。