異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第31話

トラキア半島の夜は、底知れぬほどに暗く、そして冷たい。

降りしきる氷雨が、フィアナ村の簡素な屋根を絶え間なく叩き続けていた。

 

「……っ、はぁ、はぁ……ッ!」

 

泥濘と化した村の入り口に、二つの人影が倒れ込むようにして現れた。

見張りの若者が慌てて松明を掲げると、そこには目を覆うような惨状があった。

一人は、修道女の白いローブを赤黒い泥と血で染め上げたサフィ。そして彼女を庇うようにして背負い、自身のローブもボロボロに引き裂かれている若き風の魔道士、アスベルであった。

 

「おい、誰か! 急いで手当てを! ひどい怪我だ!!」

 

騒ぎを聞きつけ、深夜の集会所から真っ先に飛び出してきたのは、光の剣を腰に佩いたリーフであった。

 

「なんだ、どうし……アスベル!? それにサフィさんまで!」

 

リーフは泥だらけの地面に膝をつき、倒れ伏した親友の肩を力強く抱き起こした。

アスベルの顔は失血と疲労で蒼白であり、息を吸うたびに肺の奥からヒューヒューと乾いた音が鳴っている。数え切れないほどの帝国の追手と交戦し、強引に血路をこじ開けてきたことは、その満身創痍の肉体が雄弁に物語っていた。

 

「リ、リーフ様……! やっと、見つけました……っ」

「喋るな、アスベル! 一体何があったんだ、ターラで何が……!」

 

「……街は、危険です!」

 

アスベルは、リーフの胸倉を血まみれの手で固く握りしめ、血を吐くような声で絞り出した。

「市民の暴発は、抑えきれませんでした。……コープル様やマリータ、ガルザス殿たちが死に物狂いで防衛し、市街内部の帝国軍は一掃しましたが、今はもう、数千のフリージ正規軍に完全に包囲されています……!」

「包囲されているだと……!?」

 

リーフの背後に控えていたフィンが、険しい表情で息を呑んだ。

 

「あの人達は、僕たちを逃がすために、自ら地獄に残ってくれた……。でも、兵糧攻めに遭えば、一週間と持たない。……リーフ様、どうか……ターラを、みんなを助けてください……!」

 

そこまで言い切ると、アスベルは糸が切れたように意識を手放し、リーフの腕の中でぐったりと力尽きた。サフィもまた、極度の疲労によりその場に崩れ落ちる。

 

「アスベル! サフィさん!! 誰か、早く彼らを寝台へ!」

 

リフィスや村の者たちが慌ただしく二人を運び出した後、集会所には重く、息苦しいほどの沈黙が降り降りた。

円卓の上に広げられた、使い古されたトラキア半島の地図。

西の端に位置する自由都市ターラ。今この瞬間にも、自分を信じて待つ恩人たちや、数万の無辜の民が、帝国の業火に焼かれようとしている。

 

「……行こう。全軍、直ちにターラへ向けた強行軍の準備を!」

 

リーフは卓を両手で叩き、血を吐くような怒号を響かせた。

だが、その熱を氷のように冷徹な声が断ち切る。

 

「正気ですか、王子」

 

闇の底から響くような声色で進み出たのは、軍師のアウグストであった。

 

「ターラの危機は痛ましい事実です。ですが、地図をご覧なさい。ここフィアナからターラへ至る道程には、いくつもの帝国の防衛線が敷かれている。今の我々の手持ちの兵力で正面から向かえば、ターラにたどり着く前に肉片すら残らんでしょう」

「わかっている! だからといって、彼らを見殺しにしろと言うのか!」

 

「私は『見殺しにしろ』とは言っていない。『勝算のない戦はするな』と言っているのです」

 

アウグストは表情一つ変えず、淡々と事実を突きつける。

 

「現在我々が動かせる兵力は、この村にいるマギ団とフィアナの義勇兵のみ。これで数千の正規軍にどう立ち向かうおつもりか。感情で軍は動かせませんぞ」

 

アウグストの徹底した軍事的リアリティの前に、リーフは奥歯を噛み締めることしかできなかった。

自分には力がない。王になる器など、到底持ち合わせていない。だが、それでも。

 

「……私は、ターラへ向かうべきだと思います」

 

静かな、しかし確固たる意志を持った声。

集会所の入り口に立っていたのは、シレジアの王子セティであった。

 

「セティ殿……」

「アウグスト殿の懸念は軍事的に完全に正しい。……ですが、アスベルやコープルたちが、己の命を削ってまで繋いだこの『救援要請』を、我々が見捨てるというのなら。我々は何のために武器を取ったのか」

 

セティは、静かに己の杖を握りしめた。

 

「力なき民が踏み躙られるのを、計算と理屈で見過ごすのなら、我々もまた帝国と同じ悪鬼に過ぎない。……リーフ王子、あなたが動くというのなら、私も全霊をもってあなたの剣となりましょう」

 

風の勇者の決意。それは、フィアナ村の若者たち――マギ団の面々の目に、再び強い光を灯した。

 

「……ありがとう、セティ殿」

 

リーフは深く息を吸い込み、そして、腰に佩いた『光の剣』を力強く引き抜いた。

 

「アウグスト。君の言う通り、僕には王の力も、軍を動かす完璧な算段もないかもしれない。……だが、助けを求める民を見捨てる王を、誰が信じるというんだ。僕は行く。這ってでも、泥を啜ってでも、ターラを救い出す!」

 

それは、理屈や計算を超えた、少年王の痛ましいほどの『業(エゴ)』の宣言であった。

万の血を流す可能性があろうとも、目の前の絶望に背を向けることはできないという呪い。

その時だった。

泥と他人の血で汚れきったリーフの手を、両手でそっと、だがひどく強い力で包み込んだ者がいた。

ナンナだった。

 

「……リーフ様。あなたのその決断、私は決して間違っていないと思います」

 

彼女の声は、春の陽だまりのように優しく、慈愛に満ちていた。

だが、その瞳の奥には地獄の底を共に歩むことを決めた者特有の、深く暗い、悲壮的なまでの決意と執着が宿っていた。

 

「あなたが王となるために、どれほど無茶をして、どれほどの血と泥をその手に浴びようとも。……あなたに降り注ぐ非難も、敵の刃も、そのすべてを私が共に被ります。だから、あなたは真っ直ぐに、あなたの信じる道を進んでください」

 

ナンナは、リーフの手に自らの頬をすり寄せるようにして微笑んだ。

 

「……ああ。必ず、みんなを助け出そう」

 

リーフはナンナの手を握り返し、集会所に集まったすべての者たちを見渡した。

 

「全軍に出立の命を出せ! 目指すは西、自由都市ターラ!!」

 

かくして、翌朝。

雨上がりで泥濘と化した劣悪な街道を、リーフ率いるトラキア解放軍は西へと歩み出した。

ここから先は、圧倒的な戦力差と絶望的な防衛線を強行突破しなければならない、文字通りの『死出の旅』である。

だが、軍の先頭を歩くリーフの背中は、決して折れることはなかった。

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