異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第32話

トラキア半島の容赦ない氷雨が、兵士たちの体温と気力をじわじわと削り取っていく。

フィアナ村を出立し、西の自由都市ターラを目指すリーフ率いる解放軍の行軍は、序盤から文字通りの泥沼であった。

 

馬の足首まで埋まる泥濘の街道。満足な補給線もないまま急造された軍の先頭を、リーフは歯を食いしばって歩み続けている。ターラで死に物狂いの防衛戦を繰り広げている恩人たち――コープルやマリータ、そして数万の市民を救うため、彼は己の弱さを呪いながらも決して立ち止まろうとはしなかった。

 

「……リーフ様。前方に、巨大な防衛線が見えてまいりました」

 

斥候から戻ったフィンが、雨に濡れた前髪を払いながら冷徹に報告する。

視線の先、灰色の雨霧の向こうに黒々とそびえ立つのは、トラキア半島最大の要塞都市『マンスター』と、その前衛を担う堅牢な関所『ケルベスの門』であった。

 

街道脇の森の中に急造された雨除けの陣幕。

リーフ、フィン、アウグスト、そしてセティが、地形図を囲み、重苦しい沈黙を落としていた。

 

「ケルベスの門。……このまま街道を直進すれば、確実に正面からぶつかることになります。ですが、今の我々の兵力で力攻めに及べば、ターラに辿り着く前に全滅は免れません」

 

アウグストが、冷たい声で戦局の絶望的な物理差を突きつける。

情の軍師ドリアスは、周辺の反帝国ゲリラや旧臣をかき集めるため、すでにフィアナ村で別行動を取り、この本隊には不在である。数の暴力に対して、精神論で立ち向かう余地はどこにもない。

 

「ならば、どうする。あの門を迂回できる山道はないのか」

 

リーフの問いに、セティが静かに進み出た。

 

「……迂回は不可能です。ですが、正面からまともに『付き合う』必要もありません」

 

セティは地形図上のマンスター城と、さらに西のターラを指で結んだ。

 

「私がマンスター周辺の民の間に構築した連絡網からの報告によれば、ケルベスの門には無数の伏兵と、重装騎士による物理的な罠が幾重にも張り巡らされています。……しかし、あの巨大なマンスター城を満たすほどの総兵力は、現在この地域には存在しない」

「どういうことだ、セティ殿」

 

「帝国軍内部の『腐敗』です」

 

セティの瞳に、冷酷なまでの軍略の光が宿る。

 

「マンスターの指揮官であるレイドリックと、ターラ包囲網の総司令官であるケンプフ。この二人は、互いに手柄を独占しようと激しく対立しています。レイドリックにしてみれば、自分が兵を出して我々を討ち取っても、ターラ防衛の功績としてケンプフに横取りされるか、あるいは自分の城(マンスター)の防衛が手薄になることを極端に恐れている」

 

権力者たちの醜悪な保身。それを聞き、アウグストが微かに口角を吊り上げた。

 

「……なるほど。レイドリックは、自らの陣地から一歩も出る気がないと。ならば、我々が取るべき行動は一つですな」

「ええ」セティは深く頷いた。「罠にはまるふりをして、ケルベスの門の『端』だけを強引に食い破る。そして、敵が恐れをなして門を閉ざし、城内に引きこもった瞬間に……マンスターには一切目もくれず、全軍でその脇を『素通り』して西へ駆け抜けるのです」

 

「……都市を落とさず、素通りするだと?」

 

フィンが驚愕に目を見開く。

 

「我々の目的は『都市の占領』ではなく、『ターラの救援』です。見栄と手柄に固執するレイドリックなら、我々が都市を無視して逃げるように西へ向かえば、追撃よりも『自分の城を完璧に守り抜いた』という事実を優先するはずです」

 

天才的な軍略眼と、敵将の心理を完全に読み切った、冷酷なまでの合理性。

 

「……決まりだ」

 

リーフは迷うことなく銀の剣を掲げた。

 

「全軍、ケルベスの門の右翼を奇襲し、強行突破する! 門が閉ざされたら、一切立ち止まるな。マンスターを素通りし、一気に西へ駆け抜けろ!!」

 

***

 

激しい雨音に紛れ、解放軍の奇襲はケルベスの門の右翼を強烈に打ち据えた。

重装甲で身を固め、正面からの突撃を待ち構えていたフリージ軍の部隊は、側面からの想定外の打撃に陣形を大きく崩す。

 

「若者たち、私の背中から離れないで!」

 

先陣を切って飛び込んだのは、かつての記憶を失いながらも、フィアナの母として若者たちを導き続ける女剣士、エーヴェルであった。

金色の髪を雨に濡らしながら、彼女の振るう鉄の剣が、重騎士の鎧の隙間を的確に貫いていく。彼女は石像にされるという数奇な運命を免れ、今もこうしてリーフたちの最強の物理的・精神的防壁として戦場に立っていた。

 

「エーヴェルさん、後ろは任せてくれ!」

 

その背後を、マチュアやハルヴァンたちフィアナの若者が続く。彼らはかつてのような血気盛んな烏合の衆ではない。アウグストの苛烈な訓練によって叩き込まれた「軍隊としての完璧な連携」を駆使し、エーヴェルの死角を補いながら、敵の陣形を理詰めで確実に崩していく。

 

「ひ、ひぃぃっ! なんだこの手強さは!? 門を、門を閉じろ!!」

 

前衛を任されていたフリージの小隊長は、エーヴェルやフィンの鬼神のごとき猛攻に恐れをなし、すぐさまケルベスの巨大な鉄門を閉ざすよう喚き散らした。

重々しい地響きと共に門が閉ざされ、敵が城塞の奥へと完全に引きこもる。

 

「今だ! 全軍、足を止めるな! マンスターの城壁を迂回し、西へ!!」

 

リーフの咆哮が戦場に響き渡る。

解放軍は誰一人として閉ざされた門を叩くことはせず、そのまま嵐のような速度でマンスターの脇をすり抜け、泥濘の街道を西へと駆け去っていった。

 

***

 

「な、なんだと!? 反乱軍どもめ、私の完璧な罠にかからず、マンスターを無視して西へ向かっているだと!?」

 

同時刻。マンスター城の豪奢な玉座の間で、分厚い毛皮の外套を着込んだレイドリックは、伝令の報告を聞いて顔面を赤黒く染め上げていた。

 

「レ、レイドリック様! 敵の背後を突く絶好の好機です。直ちに追撃の部隊を!」

「ば、馬鹿者!!」

 

進言した側近の顔面を、レイドリックは肥え太った拳で思い切り殴りつけた。

 

「ここで深追いして我が軍が損害を出せば、どうなるか分かっているのか! 奴らの向かう先はターラだ。あの小癪なケンプフの担当領域だろうが!」

 

レイドリックは、己の保身と政敵へのどす黒い憎悪を隠そうともしなかった。

 

「ケンプフの小僧の手柄のために、なぜこの私が大事な兵をすり減らしてやらねばならんのだ。……それに、奴らが万が一にもこのマンスターへ引き返してこないとも限らん。城の防備は一切解くな」

「で、ですが、それでは反乱軍を素通りさせたという責任が……」

 

「黙れ! 奴らはこのマンスターの堅牢な布陣に恐れをなして逃げ出したのだ! 我々はマンスターを完璧に防衛し、賊を追い払ったと、本国へ報告しろ!!」

 

レイドリックの卑劣な保身と、帝国軍内部の醜悪な足の引っ張り合い。

セティの読みは、一寸の狂いもなく盤面を支配していた。トラキアという大地を支配する「悪の論理」そのものが、結果的にリーフ軍の強行突破を成功させたのである。

 

***

 

背後のマンスターから追撃が来ないことを確認し、リーフは降りしきる雨の中でようやく短く息を吐き出した。

 

だが、軍を休ませる余裕など一秒もない。

泥に塗れた行軍は、兵たちの体力を容赦なく削り続けている。

 

その後ろ姿を、ナンナが己の杖を握りしめ、ひどく熱っぽい瞳で見つめながら付き従っていた。

 

(リーフ様。あなたがどれほど泥に塗れ、血を吐こうとも……この果てのない地獄の道程は、私がすべて共に歩んで差し上げます)

 

追手を振り切ったとはいえ、ターラへと続く西の道程には、フリージ軍の精鋭が待ち構えるトラキア有数の険所『ノエル渓谷』と、堅牢な『ダンドラム要塞』が口を開けて待っている。

 

少年王が背負った極限の『業』の旅路は、まだほんの入り口に過ぎなかった。

 

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