冷たい雨が降りしきるダンドラム要塞の城外、ぬかるんだ平野部。
手柄に固執する愚将オルトフの絶対命令により、要塞の守備隊の半分を引き連れて出撃した魔法騎士イリオスは、己の魔道書『サンダー』を忌々しげに握りしめていた。
「……やはり、おかしい」
イリオスは、前方の視界不良の泥濘を睨みつけ、低く舌打ちをした。
先行させたサンダーマージ部隊からの報告によれば、ノエル渓谷を突破してきたはずの反乱軍(リーフ軍)は、イリオス部隊の威圧的な前進を見るや否や、散発的な抵抗を見せただけですぐに東の森へと敗走を始めたというのだ。
「ラルゴ将軍を討った連中が、これほど脆いわけがない。これは罠だ、誘い込まれている」
イリオスは即座に部隊に停止命令を出そうとした。
だが、その後方、安全な圏内から彼らに付き従うようにノコノコと出陣してきたオルトフが、金切り声を上げてそれを遮った。
「何をしている、イリオス!! なぜ足を止める!」
「オルトフ司教。敵の敗走は不自然です。追撃は危険だ、ここは陣形を固めて……」
「黙れッ!! 敵はすでに浮き足立っているではないか! ここでトドメを刺し、私の……いや、我々の輝かしい手柄とするのだ! 追え! 追撃しろ!!」
オルトフは己の虚栄心と欲に完全に目が眩み、イリオスの冷静な判断を怒鳴り散らして否定した。
(……この、大馬鹿野郎がッ!!)
イリオスの奥歯が、ギリッと音を立てて軋む。
彼には、上官のオルトフの命令を現場で覆す権限はない。彼は絶望と殺意を押し殺し、全軍に泥濘の森への追撃を命じるほかなかった。
そして、彼らが完全に森の深く、身動きの取りづらい窪地へと足を踏み入れたその瞬間。
ピュォォォォォンッ!!
森の静寂を切り裂くように、一筋の鋭い風の刃(エルウィンド)が上空に放たれ、雨雲を切り裂く『合図』となった。
「な、なんだ!?」
オルトフが間抜けな声を上げた直後。
「今だ!! かかれェェェッ!!」
敗走していたはずのリーフ軍の本隊が、突如として反転し、凄まじい気迫で正面から突撃を仕掛けてきた。
さらに、それだけではない。
「レンスターの誇りにかけて! 帝国軍を逃すな!!」
イリオスとオルトフの部隊の『両側面』の森の中から、それまで完全に気配を殺して潜伏していた、旧レンスターの精鋭騎士たちが一斉に姿を現し、強烈な挟み撃ちを仕掛けてきたのだ。
それは、セティの風の合図とドリアスの手腕によって統率された、完璧な『釣り野伏せ』の完成であった。
「ば、馬鹿な!? 側面にも敵の伏兵だと!?」
「陣形が間延びしすぎている! 持ち堪えられん!!」
無理な追撃によって陣形を細長く引き伸ばされていたフリージ軍は、左右と正面からの猛攻を受け、瞬く間に大混乱に陥り、崩壊していく。
「ひ、ひぃぃぃっ!! わ、罠だ! 退け、退けェェッ!!」
戦況の完全な崩壊を見たオルトフは、顔面を蒼白にさせ、前衛で孤立したイリオスたちに一切の指示を出すこともなく、己の馬の尻を鞭打ってダンドラム要塞へと一目散に逃げ出した。
「オルトフ司教!? まさか、味方を見捨てるおつもりか!!」
イリオスが怒号を上げるが、オルトフは振り返ることすらしない。
イリオスは自らの魔力で雷を放ち、迫り来るレンスターの騎士たちを必死に退けながら、己の部下たちと共に後退を試みた。
「退け! ダンドラム要塞まで引け! 城壁の魔法兵器(サンダーストーム)の射程に入れば、まだ戦える!!」
だが。
必死の思いで要塞の城門の前まで逃げ延びた彼らの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景であった。
「あ、開けろ!! なぜ門が閉まっている!! 早く私を中に入れろォォッ!!」
城門の前で、オルトフが泥まみれになりながら、硬く閉ざされた鉄の扉を必死に叩き続けていた。
城壁の上には、彼が残していったはずのフリージの守備兵の姿はない。
代わりにそこで冷たく見下ろしていたのは、氷のような眼差しを持った軍師アウグストと、彼の指示で要塞の『裏口』から潜入し、無血で城を制圧していた別働隊の姿であった。
「……ご苦労でしたな、オルトフ司教。自ら城を空にしていただき、感謝感激の極みです。」
アウグストの嘲笑うような宣告と共に、ダンドラム要塞の城壁に、レンスターの旗がバサリと翻った。
「そ、そんな……馬鹿な……ッ」
オルトフは絶望に膝から崩れ落ちた。
「……終わりだ」
その光景を見たイリオスの手から、魔道書が力なく滑り落ちた。
無能な上官の欲のせいで城を奪われ、背後からはリーフの本隊が迫り、完全に帰り場を失ったのだ。
「全軍、突撃ィィッ!!」
リーフ軍の怒涛の追撃が、城門の前で立ち往生するフリージ軍の残党を無慈悲に蹂躙していく。
「ひぃぃっ! た、助けてくれ! 命だけは……!!」
泥に這いつくばって命乞いをするオルトフ。だが、アウグストの冷酷な指示を受けたレンスターの騎士たちの槍が、その体を容赦なく貫き、帝国軍の愚将は己の失策の代償として無惨な死を遂げた。
そして。
完全に孤立し、周囲をリーフ軍に包囲されたイリオスは、泥濘の真ん中で一人、自嘲気味に笑った。
「……フッ。俺は、こんな馬鹿どもの捨て駒になるために、死に物狂いで魔法を修めたわけじゃない……」
己の人生のすべてを否定された絶望。イリオスはサンダーの魔道書を拾い上げ、死兵としての最後の抵抗を見せようとした。
「そこまでだ、フリージの騎士!」
怒声と共に、イリオスの前に進み出たのは、光の剣を構えたリーフであった。
「上の陣形は崩壊し、君たちを見捨てた指揮官は死んだ。これ以上、無駄な血を流す必要はない。降伏しろ!」
「……降伏しろ、だと?」
イリオスは雷撃の魔力を高めながら、リーフを睨みつけた。
「降伏してどうなる。俺は貴族になりたくて、平民の血を呪いながら血反吐を吐いて帝国に仕えてきた。反乱軍に降ったところで、平民の俺には何も残らねえ!」
「違う!!」
リーフは一歩も退かず、イリオスの渇いた瞳を真っ直ぐに射抜いた。
「帝国が重んじるのは、今君を見捨てたような、腐りきった血統と保身だけだ。あんな卑劣な連中の下で死んで、君の魔法に何が残る! 僕はトラキアを取り戻す。その時、この大地に必要なのは、身分に関係なく民を守り抜く『真の騎士』だ!」
リーフは光の剣を下ろし、イリオスに向けて力強く手を差し出した。
「……君の腕と働きに見合う、正当な爵位と領地を、僕がこの名にかけて約束しよう! だから、その魔法を、トラキアの未来のために使ってくれ!!」
「……トラキアの、王子が……俺に、爵位を」
リーフの純粋で、嘘偽りのない言葉。
それは、身分差に苦しみ、無能な貴族に絶望し続けてきたイリオスの心の奥底に、雷のように強く突き刺さった。
「……フッ、馬鹿らしい。ケンプフの野郎のために犬死にするよりは、あんたのホラ話に乗る方がマシだ」
イリオスは魔道書の魔力を消散させ、リーフの前に片膝をついて深く頭を垂れた。
かくして、ダンドラム要塞を巡る攻防戦は、セティとアウグストの完璧な『釣り野伏せ』と、リーフの『王としての度量』により、完全なる勝利で幕を下ろしたのである。