異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第38話

雨が上がり、厚い雲の隙間からわずかに冷たい月明かりが差し込む。

人間の意識が最も深く沈み込む、夜明け前の底冷えする時間帯。

 

自由都市ターラを取り囲むフリージ軍の本陣は、不気味なほどの静寂と、得体の知れない焦燥感に包まれていた。

前日に総司令官ケンプフのヒステリックな命令により、三分の一もの兵力が「後方の盗賊討伐」のために森へと引き抜かれた。さらに西の拠点であるダンドラム要塞陥落の報が兵士たちの間で囁かれ、見えない恐怖が陣を覆い尽くしている。

 

「……静かすぎる。ターラのネズミ共も、ついに飢え死にしたか」

 

豪華な装飾が施された本陣の天幕の中で、ケンプフは極上のワインをあおりながら、充血した目でターラの城壁を睨みつけていた。

己の失態を認めず、ひたすらに手柄だけを渇望する男の精神は、すでに正常な判断力を失っている。

 

その時だった。

 

上空の分厚い雨雲が、不自然な大気のうねりによって円形にポッカリと吹き飛ばされた。

それは、過酷な強行軍を制してターラの目前まで到達した解放軍の本隊から、風の魔道士アスベルが限界の魔力を振り絞って放った『作戦開始』の無音の合図(エルウィンド)であった。

 

「――今だ!!」

 

突如として、ケンプフの天幕からわずか数百メートルの距離にある本陣の中央の『地面』が、内側から勢いよく吹き飛んだ。

 

「な、なんだ!?」

「地面が……割れたぞォォッ!?」

 

見張りの兵士が叫ぶ間もなく、吹き飛んだ大穴――ターラ市街の地下から極秘裏に掘り進められていた『間道』から、泥と血に塗れた悪鬼のような戦士たちが次々と這い出してきた。

 

「敵は……私がすべて斬る!!」

 

先陣を切って闇の中から飛び出したのは、流星のような神速で剣を振るう少女、マリータであった。

ターラ内部で一週間以上も地獄の籠城戦を耐え抜いた彼女の刃は、疲労で鈍るどころか、異常なまでの鋭さを放っていた。

 

「ぎゃぁぁぁッ!?」

 

マリータの剣閃が、寝込みを襲われて武器を取る間もなかったフリージの重装兵の首を、紙のように容易く刎ね飛ばす。

 

「ひ、ひぃぃっ! な、なぜターラ内部の反乱軍が、私の足元から湧いて出るのだ!?」

 

慌てて天幕から飛び出してきたケンプフは、信じられない光景に顔面を蒼白にさせた。

 

「……あんたが、この包囲網の指揮官か」

 

震えるケンプフの目の前に、凄まじい質量を持った黒い大剣が叩きつけられ、泥濘を深く抉った。

漆黒の鎧を纏った最強の傭兵、ガルザスである。彼から立ち上る、幾千の死線を潜り抜けてきた本物の殺気に当てられ、ケンプフの護衛の騎士たちは一歩も動くことができない。

 

「だ、誰か! 私を守れ! 討伐隊を呼び戻せ! 包囲網の兵を全てここへ集め……ッ!?」

 

ケンプフが半狂乱になって絶叫しようとした、まさにその時。

今度は本陣の『外側(背後)』から、地鳴りのような怒号と軍馬の蹄の音が響き渡った。

 

「突撃ィィッ!! ターラの包囲を粉砕しろ!!」

 

銀の剣を掲げ、怒涛の勢いで包囲網の最後尾を食い破ってきたのは、過酷な強行軍を制したリーフ率いる解放軍の本隊であった。

 

「ト、トラキアの反乱軍だ!! 後方からも敵襲ゥゥッ!!」

「馬鹿な、魔法騎士イリオス殿の部隊はどうした!? ダンドラム要塞は!?」

 

「俺ならここにいるぞ!!」

 

混乱するフリージ軍の陣形の中央に、強烈な雷撃(トロン)が降り注ぐ。

放ったのは、リーフに『真の騎士』として迎え入れられ、フリージを完全に裏切った魔法騎士イリオスであった。かつての味方に対する彼の容赦のない魔法の嵐が、帝国軍の士気を底の底まで叩き割る。

 

「ば、馬鹿な!? レイドリックやオルトフは何をしていた!!」

 

ケンプフは完全にパニックに陥り、狂ったように己の金髪を掻き毟った。

 

ターラ内部から間道を抜けてきた『内側』のガルザスとマリータたち。

そして、パーンの工作によって兵力が手薄になった隙を突いて駆けつけた『外側』のリーフ本隊。

無敵を誇った数万のターラ包囲網は、この完璧なタイミングでの「内外からの挟み撃ち」を受け、総大将の首元に直接刃を突きつけられたことで、指揮系統が完全に崩壊したのである。

 

「道を開けろ、帝国軍!!」

 

最前線で馬を駆るリーフの瞳には、甘さは欠片も残っていなかった。

ミランダを見捨てるという、血を吐くような『業』を対価にして得たこの盤面。ここで敵を逃すような情けは、彼には一切ない。

振り下ろされた『光の剣』が、夜明け前の暗闇を無慈悲な閃光で切り裂き、ケンプフの天幕を両断した。

 

「ひ、ひぃぃぃぃッ!! わ、私は死ぬわけにはいかないのだ! 私は天才なのだぞ!! 全軍、私の盾になれ! 私を守って逃げろォォッ!!」

 

死の恐怖に完全に正気を失ったケンプフは、帝国将官としての誇りも何もかも投げ捨て、己の部下たちをガルザスやリーフの前に盾として突き飛ばした。そして、彼らが無惨に斬り捨てられている隙に愛馬に飛び乗ると、一目散に暗闇の中へと逃亡を図った。

 

「ケ、ケンプフ将軍が逃げたぞォォッ!!」

「だ、駄目だ! 全軍撤退! 逃げろ!!」

 

総司令官のあまりにも情けなく、見苦しい逃亡。

それを見たフリージ軍の兵士たちは、もはや戦う意志を完全に喪失し、次々と武器を泥に捨てて降伏するか、四散して逃げ出していった。

 

トラキア半島を長きにわたって苦しめ続けた、ターラ包囲網。

アウグストとセティの冷徹な軍略、パーンたち義賊の工作、そしてリーフの血塗られた進軍は、夜明けの光がトラキアの大地を照らし出すと同時に、その巨大な悪意を完全に瓦解させたのである。

 

「……終わったか」

 

リーフは、返り血で赤く染まった剣をゆっくりと下ろした。

激しい雨雲が去り、東の空から差し込んだ朝日が、燃え残ったターラの城壁と、そこで生き延びた人々の姿を照らし出していく。

 

「リーフ様……。お怪我は」

 

ナンナが、自らも泥と血に塗れながら、リーフの背中にそっと、だがひどく強い力で寄り添った。

 

「大丈夫だ、ナンナ。……僕たちは、間に合ったんだ」

 

だが、彼の声に歓喜の響きはなかった。

ターラを救ったという事実の裏側には、暗黒の森へと送られたミランダの絶望が、冷たい十字架として彼の背中に深く食い込んでいるからだ。

 

泥まみれの勝利。

リーフがターラの城門へと歩みを進める中、トラキアの空には、次なる極限の絶望が静かに羽ばたきを始めていた。

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