夜明けの光が、トラキアの大地を静かに照らし出す。
ケンプフの逃亡とフリージ軍の崩壊により、長きにわたって自由都市ターラを締め付けていた巨大な包囲網は、ついに完全に瓦解した。
返り血で赤黒く染まった剣を鞘に納め、リーフは大きく息を吐き出した。
周囲には、武器を捨てて泥に這いつくばる帝国兵と、それを見下ろす解放軍の兵士たちの姿がある。過酷な強行軍の果てに掴んだ、奇跡とも呼べる勝利。
だが、リーフの足取りは鉛のように重かった。
ターラの巨大な城門が内側から重々しい音を立てて開かれ、彼がその内部へと足を踏み入れた瞬間、凄惨な光景が目に飛び込んできたからだ。
「ああ……」
かつて活気に満ちていた誇り高き都市は、砲撃と火災によって見る影もなく破壊され、至る所に黒焦げの瓦礫と、餓えと疲労で骸骨のようになった市民たちが横たわっていた。
勝利の歓声などない。あるのは、ただ「今日を生き延びた」という血を吐くような安堵の嗚咽だけだった。
「リーフ様!!」
その瓦礫の山の中から、一人の少年が泥だらけの顔を綻ばせて駆け寄ってきた。
幼き神父、コープルである。彼の白い法衣は泥と血で汚れきっていたが、その瞳に宿る純粋な『光』だけは、この地獄にあっても決して失われてはいなかった。
「コープル! 無事だったか……!」
リーフは駆け寄り、泥だらけの少年を力強く抱きしめた。
「はい。ガルザス殿やマリータ、皆さんが死に物狂いで守ってくれました。……リーフ様こそ、よくぞこの絶望的な包囲網を破って……」
コープルの言葉を遮るように、瓦礫の陰から一人の少女がふらふらと歩み出てきた。
ターラの若き公女、リノアンであった。
「……リーフ、王子」
彼女のドレスは煤で汚れ、かつての高貴な面影は失われている。
彼女はリーフの姿を見るなり、泥だらけの石畳に両膝をつき、両手で顔を覆って泣き崩れた。
「申し訳ありません……私の至らなさのせいで、この街は……これほど多くの民が血を流し……ッ!」
為政者としての激しい罪悪感に押し潰され、彼女の心は完全に決壊していた。
「顔を上げてください、リノアン公女」
リーフは彼女の前に膝をつき、その震える肩にそっと手を置いた。
「あなたは逃げずに、最後までこの街の民と共に戦い抜いた。……僕のせいで祖国を焼かれたミランダのように、あなたまで失わずに済んで、本当によかった……」
だが、リノアンの崩れ落ちた心を物理的に支え起こしたのは、リーフではなくコープルであった。
「……コープル様」
リノアンは、そっと差し出されたコープルの泥だらけの手にすがりつく。
「泣かないで、リノアン。あなたは最後まで、為政者として立派に戦った。……これからのトラキアに必要なのは、涙じゃなく、生き延びた人々を導くあなたの強さです」
その純粋で絶対的な光に触れた瞬間、リノアンの瞳に、ひどく重く、ねっとりとした執着の色が宿った。
(ああ……この方は、私を決して見捨てない。国が燃え落ち、私がどれほどの罪を背負おうとも、この方の体温だけが私の世界を繋ぎ止めてくれる……)
為政者としての重圧から解放され、ただ一人の少女としてコープルに縋り付くリノアン。
だが、その彼女の背後から、氷のように冷たく、鋭利な殺気が放たれた。
「……」
音もなく歩み寄ってきたのは、愛剣を携えた剣聖の少女、マリータであった。
彼女の全身は敵の返り血で赤黒く染まり、その瞳は獣のように細められている。
「コープル様に、それ以上気安く触れないでください。リノアン公女」
「マリータ……?」
「この一週間、コープル様に迫る刃をすべて叩き落としてきたのは私です。あなたが自分の無力さに泣いていた時も、私はこの人のために血を流していた。……私の居場所を、奪わないで」
マリータの言葉は、嫉妬などという生易しいものではない。己の「物理的な刃としての存在価値」を脅かす者に対する、純粋な排除の意志(独占欲)であった。
「ちょ、ちょっと待ちなよマリータ! あんた、怪我の手当てが先でしょ!」
その殺気を中和するように、弓使いの少女タニアが慌てて割って入る。彼女は周囲の異様なまでの『重い情念』の交差に、一人だけ完全に困惑していた。
「コープル! あんたも無茶しすぎ! ちょっとは自分の身も守りなさいよね!」
タニアは照れ隠しのようにコープルの頭を小突くが、彼女の顔は安堵からわずかに朱を帯びている。
コープルという無自覚な『光』を中心にして。
為政者の重圧から逃れるために彼に深く執着するリノアン。
己の存在価値を懸けて彼の隣を独占しようとするマリータ。
そして、素直になれずに二人の重さに戸惑うタニア。
ターラの焦土で交差するヒロインたちの息苦しいほどの情念は、極限の死線を潜り抜けたことで、もはや後戻りできない領域へと足を踏み入れていた。
「……感動的な再会ですな。だが、感傷に浸る時間はそう長くはありませんぞ」
その時。
アウグストの低く平坦な声が、その場の重い熱を刃物のように断ち切った。
アウグストは、忌々しげに『西の空』を見上げている。
「……ケンプフは逃がしたが、彼奴が本国へ泣きつき、このターラの状況を報告するのは時間の問題。……それに、あの空の様子。どうやら『厄介な客』が、我々の勝利の臭いを嗅ぎつけてきたようですな」
リーフがハッとして西の空を見上げる。
雨雲が晴れたばかりの空が、再び巨大な黒い影によって覆い尽くされようとしていた。
それは、雨雲ではない。
絶望という名の、無数の『飛竜の羽ばたき』であった。