ターラを明け渡し、数百の避難民を抱えながら北の祖国レンスターを目指すリーフ軍の行軍は、凄惨を極めていた。
トラキア半島の冷たい雨が、容赦なく人々の体温を奪っていく。ダキアの森を抜け、メルゲンへと続く平野部に差し掛かった時、斥候に出ていたラーラが泥だらけの姿で本陣に駆け込んできた。
「リーフ様! 前方の街道が、完全に封鎖されています……! 敵はロプト教団の精鋭暗黒魔道士部隊『ベルクローゼン』。上空には、シレジアの天馬騎士団が数十騎!」
息を切らすラーラの口から、さらに決定的な報告が告げられる。
「敵の陣形の中央に、教団の囚人馬車があります。……多分前にパーンさんが言っていたミランダ王女です!暗黒の森から、防衛の強固な北の要塞へと移送されている途中かと!」
「ミランダ姫が……!」
リーフの顔色が変わった。一度は見捨てるという血を吐くような決断を下した相手が、今、目の前の敵陣にいる。
一方その頃。リーフ軍の接近を察知したロプト教団の陣営では、指揮官である高位司祭コッダが、苛立ちに任せて爪を噛んでいた。
「ええい、忌々しい……! なぜこんな時期に小娘一人の護送で泥濘を這いずり回らねばならんのだ」
血走った目で、雨の降る南の空を睨みつけるコッダの傍らに、ペガサスを降りた一人の女騎士が歩み寄る。シレジア天馬騎士団の将軍、ミーシャであった。
「……コッダ司祭。敵軍が接近している。我々シレジアの天馬騎士団は、契約通りにこの空を守り、あなたの馬車を護衛する。だが、教団の『子供狩り』や邪悪な儀式に加担する気は一切ない。それだけは忘れるな」
「ふん。誇り高いシレジアの騎士様が聞いて呆れるわ。金のために祖国を売り、悪魔と蔑まれる我々に雇われている傭兵風情が」
コッダの嘲笑に、ミーシャの瞳の奥で屈辱と悲哀が渦巻いたが、彼女は何も言い返さずに空へと飛び立った。
リーフの本陣。
「……全軍、正面突破の陣形を取れ。ミランダ王女を救出する!」
リーフの号令に、軍師アウグストが氷のような声で待ったをかけた。
「正気の沙汰ではありませんな、リーフ様。我々の背後には数百の非戦闘員がいるのです。高所を取る天馬騎士と、教団の精鋭に自ら突撃するなど、軍事の定石から外れすぎている。ここは森へ迂回し、やり過ごすべきです」
「迂回すれば、ミランダ姫はロプトの生贄にされる! ターラを救うために彼女を見捨てた……その業だけでも、僕は正気を失いそうなんだ。これ以上、見殺しにして己を保てるほど、僕は立派な王じゃない!!」
それは、リーフという一人の少年の、血を伴う強烈なエゴ(我儘)であった。指揮官としては完全に失格の判断。だが、その痛ましいほどの業の深さこそが、彼を『王』たらしめているのだと、ドリアスは静かに目を伏せた。
「……わかりました。今は王子に従いましょう」
リーフを支え続けてきた老騎士ドリアスが、槍を掲げる。
そして、リーフの背後に立つナンナは、何も言わずに己の杖と剣を強く握り締めた。 (
「突撃!! ミランダ姫を奪い返すんだ!!」
リーフの咆哮と共に、血みどろの激戦が幕を開けた。 地上ではフィンやダグダ、パーンたちがベルクローゼンの放つ暗黒魔法(ヨルムンガンド)の毒霧を潜り抜け、肉薄していく。
そして上空では、最も悲惨な同士討ちが繰り広げられていた。
「そこを退け、シレジアの騎士たちよ!!」
風の魔法で宙を駆け上がり、ミーシャの前に立ち塞がったのは、漆黒の外套を翻すシレジアの王子、セティであった。
「……っ! セティ様!?」
ミーシャは、行方不明になっていた王族の姿に激しく動揺した。
「ミーシャ将軍! なぜだ! 誇り高きシレジアの天馬騎士が、なぜよりにもよって、無辜の民を攫うロプト教団の狗に成り下がった!!」
血を吐くようなセティの糾弾。だが、ミーシャは悲痛な顔で槍を構え直し、叫び返した。
「誇りで、飢えた子供たちの腹が膨れるとお思いか!!」
その一言が、セティの胸を物理的な刃よりも深く抉った。
「あなたが国を空け、外の世界で英雄を気取っている間……シレジアは雪と飢餓に覆われ、数え切れないほどの孤児たちが凍え死んでいったのだ!私はあの子たちにパンを食わせるためなら、悪魔に魂を売ってでも黄金を稼いでみせる!!」
「あ……ああ……っ」
セティの唇から、絶望の呻きが漏れた。ミーシャを責める資格など、自分には一切ない。国を救うために国を捨てた自分の行為が、シレジアの民をどれほどの地獄に突き落としたか。
正義などない。あるのは、互いの譲れない意地だけだった。
「許してくれとは言わん……! だが、私は……リーフ王子のために、君たちを落とす!!」
悲鳴のような風の刃(エルウィンド)が、涙を流す天馬騎士たちを次々と撃ち落としていく。トラキアの冷たい雨に、シレジアの血が混ざり合って大地を濡らした。
上空でセティが血の涙を流して道を切り開いたその隙を突き、リーフはベルクローゼンの本陣を単騎で食い破った。
「ひぃぃっ! ば、馬鹿な、この私がこんな辺境の泥の中で……!」
光の剣の閃光が、命乞いをして逃げ惑うコッダの背中を無慈悲に両断する。 リーフは血に濡れた剣を放り出し、泥にまみれた手で、重い囚人馬車の鉄の扉をこじ開けた。
暗く、ひどい死臭のする荷台の奥。 両手両足を鎖で縛られ、絶望と恐怖に震え上がっていたミランダは、差し込んだ眩い光に顔を覆った。
「ミランダ姫……! 迎えに来た。もう、大丈夫だ……!」
「あ……リーフ、王子……?」
ミランダは、自分の目を疑った。 暗黒の森から移送され、教団の祭壇で生きたまま切り刻まれる恐怖に震えていたこの地獄に。泥だらけになり、全身から血を流しながら、レンスターの王子が自分の名前を呼んでいる。
「遅くなって、本当にごめん。きっと僕のせいで、君にこんな思いを……」
リーフが震える手で彼女の鎖を壊し、その華奢な体を抱きしめた瞬間。
「ああ……あああああぁぁッ!!」
誇り高きアルスターの王女の心は、完全に決壊した。 彼女は獣のように泣き叫び、リーフの首に両腕を回して、その泥と血に塗れた鎧にすがりついた。もう、王女としての矜持も、帝国の支配に対する怒りもなかった。
彼がアルスターに亡命したことで帝国に介入されたことへの恨みは消えていた。
ただ、この暗闇から自分を救い出してくれた、この圧倒的な『光』だけが、彼女の生きる理由のすべてになったのだ。
(……この方は、私のもの。私だけを助けるために、血を流してくれた……!)
ミランダが狂おしいほどの依存と執着をリーフの体温に刻み込んでいたその背後で。 返り血で純白の服を赤黒く染め上げたナンナが、無表情のまま、刃についた血を静かに拭い落としていた。
リーフのエゴによって強行されたミランダ奪還戦は、セティの心に深い傷を残し、ヒロインたちの情念を後戻りできない領域へと引き摺り込みながら、辛くも解放軍の勝利に終わった。
だが、休む間もない。 彼らの行く手には、悲願の地――北の大拠点『レンスター城』を巡る、さらなる地獄の攻防戦が待ち受けていた。