異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第42話

トラキア半島北部、悲願の地・レンスター。 かつて大陸最強と謳われた槍騎士たちを擁した白亜の王城は、十数年に及ぶグランベル帝国の苛烈な支配によって、見る影もなく黒ずみ、血と錆の臭いが染み付いた絶望の要塞と化していた。

 

「……ついに、帰ってきた」

 

降り頻る冷たい雨の中、本陣の天幕から城門を見据える老騎士ドリアスの声が、微かに震えていた。フィンの双眸にも、静かだが確かな熱が灯っている。

 

だが、軍の先頭に立つリーフの表情に、故郷奪還の歓喜はなかった。 彼の眼前に立ち塞がっているのは、フリージの誇る重装騎士団ではない。悲しいことに、見覚えのあるレンスターの紋章を掲げた、祖国の兵士たちであった。

 

その陣形の先頭に立ち、巨大な大盾と長槍を構えているのはレンスター王国の古兵であった重騎士、ゼーペイアである。

 

「ゼーペイア将軍……! なぜだ、なぜレンスター古参の騎士であるあなたが、我らに刃を向ける!」

 

フィンが血を吐くような声で叫ぶ。

 

「……許されよ、フィン殿。そして、リーフ王子……!」

 

兜の奥で、ゼーペイアは血の涙を流していた。

 

「城内には、我が部下たちの家族が、フリージのグスタフ公によって人質に取られている! 我らが帝国に逆らえば、女子供たちは容赦なく串刺しにされるのだ。……私は、武人の誇りを汚水に捨ててでも、彼らの命を守らねばならぬ。この命、極刑に処される覚悟はとうにできている! さあ、私を斬って進まれよ!!」

 

忠義の騎士が、愛する領民を守るために主君へ槍を向けるという究極の矛盾。 それこそが、帝国がトラキアの大地に強いた「泥臭く、最も効果的な防衛策」であった。

 

「……絶望的ですな。祖国の忠臣を自らの手で皆殺しにしなければ、玉座には辿り着けない。これこそが、国を失った王族が背負うべき『血の代償』というものです」

 

アウグストが、氷のような冷徹さで現実を突きつける。

 

だが、リーフは光の剣を鞘から抜かなかった。

 

「……いや。斬らない」

 

リーフは雨に打たれながら、静かに、しかし狂気じみたまでの頑なさで首を振った。

 

「これ以上レンスターの民に血を流させるものか。……アウグスト。すでに『手』は打ってあるはずだ」

 

「……御意に」

 

アウグストの口角が、微かに吊り上がった。

 

同じ頃。 レンスター城の地下牢獄では、帝国兵の目を掻き潜り、闇に紛れて蠢く影があった。 ダキアの義賊パーン、斥候のラーラ、そして元海賊のリフィスたちである。

 

「ちくしょう、なんで俺様がこんなカビ臭え地下牢で、泥水すすってコソ泥みたいな真似を……」

 

愚痴をこぼすリフィスの後頭部を、パーンが音もなく叩いた。

 

「静かにしろ、リフィス。……俺たちにしかできない仕事ってもんがあるんだよ。解放軍の主力は、表門で泥を被って必死に時間を稼いでくれてる。ここで人質を助け出せなきゃ、あの将軍(ゼーペイア)も王子も、一生癒えねえ傷を背負うことになるんだ」

「わ、わかってるよ!」

 

騎士の誇りも、正々堂々とした戦いもない。 だが、この過酷な世界において、盤面をひっくり返すのはいつだってこうした「泥に塗れた暴力と知略」である。パーンたちは手際よく見張りの帝国兵の喉笛を掻き切り、人質となっている家族たちの牢の鍵を次々と開け放っていった。

 

「……表の部隊へ合図を送れ。ネズミの仕事は完了だ」

 

――シュルルルルゥッ! 城の塔から、作戦成功を知らせる赤い狼煙が雨空に打ち上がった。

 

それを見た瞬間、表門で死を覚悟していたゼーペイアの巨体が、雷に打たれたように震えた。

 

「人質が……解放、された……?」

 

「ゼーペイア将軍!! もう、自分を殺して帝国に付き従う必要はない!」 リーフが泥だらけの顔を上げ、叫んだ。 「共に、レンスターを取り戻そう!!」

 

「おお……おおおおおぉぉぉッ!!」 ゼーペイアの口から、十数年分の屈辱と慟哭が入り混じった、獣のような咆哮が迸った。 彼は大盾を反転させると、背後に控えていたフリージ軍の重装騎士たちへ、怒りのままに長槍を突き立てた。

 

「な、なんだ!? レンスターの反乱軍どもめ、何をしている! 女子供の首を刎ねろ!!」 城門の上でふんぞり返っていたフリージの指揮官、グスタフ公がパニックに陥ってわめき散らす。

 

「貴様の思い通りにはさせん!」 城門を突破したリーフが、光の剣を構えてグスタフの眼前に躍り出た。 「ひぃぃっ! ま、待て! 私を殺せば、帝国が黙って……」 命乞いをするグスタフの言葉が終わるよりも早く、リーフの剣が冷酷な閃光を描き、肥え太った貴族の首を虚空へと刎ね飛ばした。

 

血飛沫が雨に流され、レンスターの旗が再び城壁に翻った。

 

戦闘が終結した夜。 篝火だけが揺れる、冷たく薄暗い玉座の間。

 

リーフは、傷だらけの鎧のまま、先祖代々受け継がれてきたレンスターの玉座に座っていた。 だが、その表情に高揚感はない。 冷たい石の座は、彼に「これからお前は、死んでいった数多の民と、血に塗れたこの国を背負い続けるのだ」という呪いを物理的に突きつけているようだった。

 

「……リーフ王子。いや、リーフ王」

 

玉座の下に平伏したゼーペイアが、石の床に額を擦り付けて泣き崩れていた。

 

「敵に寝返ったこの不忠者……いかような極刑にも従う所存。どうか、私の首で、散っていった同胞たちの魂をお慰めください……!」

 

「顔を上げてください、ゼーペイア将軍」

 

リーフは静かに立ち上がり、老将の肩に触れた。

 

「あなたが泥を被って生き延びてくれたからこそ、多くの領民の命が繋がった。……誰もあなたを責めはしない。僕の即位に、あなたの力は絶対に必要なのです」

 

それは美辞麗句ではない。使える手駒はすべて使い、すべてを背負うという、王としての強烈な覚悟の発露であった。

 

その重苦しい戴冠の儀式を、玉座の傍らからじっと見つめている二人の少女がいた。 一人はミランダ。 暗黒の森の絶望からリーフに救い出された彼女は、普段の勝ち気さを潜めて静かに彼を見つめていた。

 

そして、もう一人。 リーフの背後に控えるナンナの瞳は、底なし沼のように深く、静まり返っていた。 彼女は、リーフの心にのしかかる「王冠という名の死体の山」の重さを、誰よりも正確に理解していた。

 

(リーフ様。その玉座は、ひどく冷たく、息苦しいでしょう)

 

ナンナは、己の胸に手を当てる。

 

(でも、安心してください。あなたがどれほどの業を背負い、どれほどの恨みを買おうとも……私が、あなたの影法師となって、その泥をすべて啜って差し上げます)

 

 

レンスター奪還。 それは輝かしい英雄譚の成就ではなく、若き少年王がトラキアの血みどろの歴史という重圧に、自らその身を縛り付けた瞬間に他ならなかった。

 

 

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