レンスター城奪還の歓喜は、一晩の内にトラキアの冷たい雨に洗い流された。 玉座を取り戻したとはいえ、リーフ軍の実態は満身創痍であった。ターラから連れ歩いた数百名の難民の保護、城の防衛機構の修復、そして底を突きかけている兵糧。すべてが限界に近い綱渡りの状態であった。
重苦しい空気が漂う軍議の間。 円卓の地図を挟み、リーフの前に立ち塞がるようにして、ミランダが両手をついて激昂していた。
「なぜですか、リーフ王子! レンスターを取り戻した今、次は私の祖国……アルスターへ進軍するべきです! フリージ軍は浮き足立っているはず。今すぐ兵を出してください!」
その瞳には、血走ったような悲痛な焦燥が宿っていた。 ロプト教団の囚人馬車から救い出されて以来、彼女はリーフに狂信的なまでの依存を見せていた。だが、それゆえに彼女の心はひどく歪に引き裂かれていた。
「ミランダ王女、落ち着いてくれ。今の我々の兵力でアルスターへ向かうのは……」
「落ち着けるわけがないでしょう!」
ミランダは悲鳴のように声を荒げた。
「アルスターが……私のお父様がフリージに殺されたのは、逃亡していたあなたたちを匿ったからです! あなたのせいで、私の国は滅ぼされたのよ!」
その言葉が、リーフの胸を鋭い刃のように抉った。
「私を救い出してくれたことには、一生かけて報いるつもりです。……でも、それとこれとは違う! アルスターの民は今も帝国の圧政で血を流している。あなたがトラキアの王になるというなら、私の国を取り戻す責任があるはずです!!」
愛と憎悪、依存と責任。ミランダの叫びは理不尽な我儘ではなく、国を奪われた王族としての、血を吐くような『呪い』そのものであった。
「……ミランダ王女の悲痛なお覚悟、お察しいたします」
重い沈黙を破ったのは、軍師アウグストであった。彼は冷徹な眼差しで、地図上のアルスターを指差した。
「しかし、軍事的な観点から申し上げれば、アルスター進軍は『自殺行為』ですな。我が軍はレンスター奪還で疲労の極致にある。ここからアルスター城へ向かえば、補給線は伸びきり、無防備な背後をコノートの帝国軍に突かれて全滅します」
「アウグスト殿の言う通りです」
シレジアの王子、セティもまた、静かにだが理路整然と反対の意を唱えた。
「ミーシャたち天馬騎士団との戦いで、我々の対空・魔法戦力も限界を迎えています。加えて、アルスターはレンスターとは異なり、帝国軍の防衛線が強固に再編されつつある。今、この城(拠点)を空にするわけにはいきません」
「ドリアス伯爵……あなたも、彼らと同じ意見ですか?」
リーフがすがるような目で老騎士を見る。しかし、ドリアスもまた、苦渋に満ちた顔で首を縦に振った。
「……ミランダ姫には酷なれど、今はレンスターの護りを固め、兵の傷を癒すのが最優先。王たる者、非情な決断を下さねばならぬ時がございます」
ミランダが、絶望に力なく膝から崩れ落ちそうになる。
「お父様……ごめんなさい、私では、アルスターを……」
「……待って」
その時、軍議の間の扉が開き、淡い光を纏うような幼い少年が歩み入ってきた。 ブラギの血を引く神父、コープルであった。彼は負傷兵たちの治療を終えたばかりで、白衣には生々しい血の跡がいくつもこびりついている。
「コープル……兵たちの具合は?」
「命の危機にあった者たちは、なんとか持ちこたえたよ。でも……軍全体の疲弊は覆せない。みんな、もう剣を握るのもやっとの状態だ」
コープルは厳しい現状をリーフに伝えた後、床に座り込むミランダのそばへ寄り添い、その冷え切った手をそっと握った。
「ミランダ王女。あなたの悲しみは、痛いほどわかる。……でも、リーフ様をこれ以上、追い詰めないであげてほしい。彼もまた、あなたと同じように血を流しているんだ」
その温かい手と、すべてを見透かすようなコープルの言葉に、ミランダの目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……報告します!!」
そこへ、城門の警備に当たっていたフィンが、息をきらして飛び込んできた。
「アルスター方面より、多数の難民がレンスター城へ向かって接近中! フリージの圧政に耐えかねた市民たちが、蜂起に失敗して逃れてきた模様です。しかし……その後方から、帝国軍の追討部隊が迫っています!!」
「なんだと……!」
リーフが弾かれたように顔を上げた。
「……おやめなさい、王子」
アウグストが即座に釘を刺す。
「彼らを城内に入れれば、なけなしの兵糧は数日で底をつく。ここは門を閉ざし、見捨てるのが……」
「黙れッ!!!」
リーフの怒号が、冷たい石造りの間に響き渡った。 彼は地図を力強く叩き、ミランダを、そして冷徹な軍師たちを真っ直ぐに見据えた。
「アルスターの城を今すぐ攻め落とすことは、確かに不可能だ……。僕のせいで国を失った君に、こんなことを言うのは本当に申し訳ない。ミランダ姫、許してくれ。城の奪還は、一時的に諦めてほしい」
ミランダが、絶望に目を伏せる。 だが、リーフの言葉はそれで終わりではなかった。
「……だが! 助けを求めて逃げてきたアルスターの民を見捨てることは、絶対にしない!!」
リーフは腰の光の剣を引き抜き、天に掲げた。
「城という『石』は今は取れない。だが、『人』は救う! 出撃の準備をしろ! アルスターの市民を救援し、レンスターへ迎え入れる! その先頭には……この僕が立つ!!」
それは、軍事ロジックと王の重圧の狭間で、リーフが血を吐きながら絞り出した最大限の贖罪であった。
「……リーフ、おうじ」
ミランダは、目を丸くしてリーフを見上げた。 彼の決断は、軍を危険に晒し、さらに兵糧を圧迫する泥臭い選択だ。だが、自分が彼に負わせた「国を滅ぼした罪」に対し、自らの命を懸けて民を救おうとするその姿に、ミランダの心を満たしていた愛憎は、完全に溶け落ちた。
(……この方は、逃げない。私の苦しみを、一緒に背負おうとしてくれている……)
「わかりました……。私は、あなたを信じます。どうか、ご無事で……」
ミランダは、リーフの泥だらけの手を両手で包み込み、祈るように額を押し当てた。
「行くぞ、みんな!」
リーフが天幕を飛び出していく。その後ろ姿を、ナンナが己の武器を握り締め、音もなく追従する。
アルスターから逃れてくる数百の難民と、迫り来る帝国の追撃部隊。 レンスター城の防衛戦を前に、リーフたちは休む間もなく、トラキアの冷たい泥濘の中へと再びその身を投じていった。