異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第43話

レンスター城奪還の歓喜は、一晩の内にトラキアの冷たい雨に洗い流された。 玉座を取り戻したとはいえ、リーフ軍の実態は満身創痍であった。ターラから連れ歩いた数百名の難民の保護、城の防衛機構の修復、そして底を突きかけている兵糧。すべてが限界に近い綱渡りの状態であった。

 

重苦しい空気が漂う軍議の間。 円卓の地図を挟み、リーフの前に立ち塞がるようにして、ミランダが両手をついて激昂していた。

 

「なぜですか、リーフ王子! レンスターを取り戻した今、次は私の祖国……アルスターへ進軍するべきです! フリージ軍は浮き足立っているはず。今すぐ兵を出してください!」

 

その瞳には、血走ったような悲痛な焦燥が宿っていた。 ロプト教団の囚人馬車から救い出されて以来、彼女はリーフに狂信的なまでの依存を見せていた。だが、それゆえに彼女の心はひどく歪に引き裂かれていた。

 

「ミランダ王女、落ち着いてくれ。今の我々の兵力でアルスターへ向かうのは……」

「落ち着けるわけがないでしょう!」

 

ミランダは悲鳴のように声を荒げた。

 

「アルスターが……私のお父様がフリージに殺されたのは、逃亡していたあなたたちを匿ったからです! あなたのせいで、私の国は滅ぼされたのよ!」

 

その言葉が、リーフの胸を鋭い刃のように抉った。

 

「私を救い出してくれたことには、一生かけて報いるつもりです。……でも、それとこれとは違う! アルスターの民は今も帝国の圧政で血を流している。あなたがトラキアの王になるというなら、私の国を取り戻す責任があるはずです!!」

 

愛と憎悪、依存と責任。ミランダの叫びは理不尽な我儘ではなく、国を奪われた王族としての、血を吐くような『呪い』そのものであった。

 

「……ミランダ王女の悲痛なお覚悟、お察しいたします」

 

重い沈黙を破ったのは、軍師アウグストであった。彼は冷徹な眼差しで、地図上のアルスターを指差した。

 

「しかし、軍事的な観点から申し上げれば、アルスター進軍は『自殺行為』ですな。我が軍はレンスター奪還で疲労の極致にある。ここからアルスター城へ向かえば、補給線は伸びきり、無防備な背後をコノートの帝国軍に突かれて全滅します」

「アウグスト殿の言う通りです」

 

シレジアの王子、セティもまた、静かにだが理路整然と反対の意を唱えた。

 

「ミーシャたち天馬騎士団との戦いで、我々の対空・魔法戦力も限界を迎えています。加えて、アルスターはレンスターとは異なり、帝国軍の防衛線が強固に再編されつつある。今、この城(拠点)を空にするわけにはいきません」

 

「ドリアス伯爵……あなたも、彼らと同じ意見ですか?」

 

リーフがすがるような目で老騎士を見る。しかし、ドリアスもまた、苦渋に満ちた顔で首を縦に振った。

 

「……ミランダ姫には酷なれど、今はレンスターの護りを固め、兵の傷を癒すのが最優先。王たる者、非情な決断を下さねばならぬ時がございます」

 

ミランダが、絶望に力なく膝から崩れ落ちそうになる。

 

「お父様……ごめんなさい、私では、アルスターを……」

「……待って」

 

その時、軍議の間の扉が開き、淡い光を纏うような幼い少年が歩み入ってきた。 ブラギの血を引く神父、コープルであった。彼は負傷兵たちの治療を終えたばかりで、白衣には生々しい血の跡がいくつもこびりついている。

 

「コープル……兵たちの具合は?」

「命の危機にあった者たちは、なんとか持ちこたえたよ。でも……軍全体の疲弊は覆せない。みんな、もう剣を握るのもやっとの状態だ」

 

コープルは厳しい現状をリーフに伝えた後、床に座り込むミランダのそばへ寄り添い、その冷え切った手をそっと握った。

 

「ミランダ王女。あなたの悲しみは、痛いほどわかる。……でも、リーフ様をこれ以上、追い詰めないであげてほしい。彼もまた、あなたと同じように血を流しているんだ」

 

その温かい手と、すべてを見透かすようなコープルの言葉に、ミランダの目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「……報告します!!」

 

そこへ、城門の警備に当たっていたフィンが、息をきらして飛び込んできた。

 

「アルスター方面より、多数の難民がレンスター城へ向かって接近中! フリージの圧政に耐えかねた市民たちが、蜂起に失敗して逃れてきた模様です。しかし……その後方から、帝国軍の追討部隊が迫っています!!」

「なんだと……!」

 

リーフが弾かれたように顔を上げた。

 

「……おやめなさい、王子」

 

アウグストが即座に釘を刺す。

 

「彼らを城内に入れれば、なけなしの兵糧は数日で底をつく。ここは門を閉ざし、見捨てるのが……」

「黙れッ!!!」

 

リーフの怒号が、冷たい石造りの間に響き渡った。 彼は地図を力強く叩き、ミランダを、そして冷徹な軍師たちを真っ直ぐに見据えた。

 

「アルスターの城を今すぐ攻め落とすことは、確かに不可能だ……。僕のせいで国を失った君に、こんなことを言うのは本当に申し訳ない。ミランダ姫、許してくれ。城の奪還は、一時的に諦めてほしい」

 

ミランダが、絶望に目を伏せる。 だが、リーフの言葉はそれで終わりではなかった。

 

「……だが! 助けを求めて逃げてきたアルスターの民を見捨てることは、絶対にしない!!」

 

リーフは腰の光の剣を引き抜き、天に掲げた。

 

「城という『石』は今は取れない。だが、『人』は救う! 出撃の準備をしろ! アルスターの市民を救援し、レンスターへ迎え入れる! その先頭には……この僕が立つ!!」

 

それは、軍事ロジックと王の重圧の狭間で、リーフが血を吐きながら絞り出した最大限の贖罪であった。

 

「……リーフ、おうじ」

 

ミランダは、目を丸くしてリーフを見上げた。 彼の決断は、軍を危険に晒し、さらに兵糧を圧迫する泥臭い選択だ。だが、自分が彼に負わせた「国を滅ぼした罪」に対し、自らの命を懸けて民を救おうとするその姿に、ミランダの心を満たしていた愛憎は、完全に溶け落ちた。

 

(……この方は、逃げない。私の苦しみを、一緒に背負おうとしてくれている……)

「わかりました……。私は、あなたを信じます。どうか、ご無事で……」

 

ミランダは、リーフの泥だらけの手を両手で包み込み、祈るように額を押し当てた。

 

「行くぞ、みんな!」

 

リーフが天幕を飛び出していく。その後ろ姿を、ナンナが己の武器を握り締め、音もなく追従する。

 

アルスターから逃れてくる数百の難民と、迫り来る帝国の追撃部隊。 レンスター城の防衛戦を前に、リーフたちは休む間もなく、トラキアの冷たい泥濘の中へと再びその身を投じていった。

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