レンスター城の奪還、そしてアルスターから逃れてきた数百の市民の救出。 それはトラキア解放軍にとって輝かしい戦果となるはずだった。だが、現実の戦場において「予定外の人間(非戦闘員)を抱え込むこと」は、兵站という名の心臓を自ら握り潰す行為に他ならない。
「……備蓄された麦と干し肉の底が見え始めています。市民と兵に粥をすすらせたとしても、持ってあと数日」
氷のように冷たい声で、アウグストが残酷な事実を軍議の卓に叩きつけた。
「東のコノート、南のアルスターの双方から、フリージの重装騎士団が城を完全包囲しています。我が軍はフィアナの義勇軍やダキアの者たちを加え、かつてない規模に膨れ上がっている。大軍であればあるほど、食い扶持という内側の牙に腹を食い破られる。……王子、あなたが選んだ『民を見捨てない』という選択の代償です」
「……わかっている」
リーフは、泥と血がこびりついたままの顔を上げ、静かに頷いた。
「兵たちの配給をさらに減らせ。僕の分は、その半分の半分でいい。……城の壁を抜かれる前に、帝国の包囲網を削り落としてみせる」
ドリアスが苦渋に顔を歪めながら出撃の采配を振るう。 トラキア半島の冷たい雨が降り頻る中、絶望的な防衛戦の火蓋が切って落とされた。
***
城の東門。コノート方面から押し寄せるフリージ軍の波を前に、激しい戦闘が繰り広げられている。
「押し返せ! ここを抜かれたら、内庭の傷病兵たちがやられるわよ!」
城壁の上から、紫竜山の猟師タニアが矢を放ちながら怒鳴り声を上げる。彼女の放つ矢は正確に敵兵の関節を射抜くが、倒しても倒しても、帝国の分厚い装甲兵の波は途切れることがない。
城門のわずかな隙間から侵入しようとした敵の小隊がいた。だが、その首は次の瞬間、音もなく虚空へ飛んだ。
「……遅い」
返り血を浴びて立ち塞がったのは、剣聖の血を引く少女・マリータであった。一切の感情を排したその剣閃は、もはや芸術的なまでの殺意の結晶だった。彼女は己の傷など歯牙にもかけず、ただひたすらに敵の命を刈り取っていく。
彼女たちが過酷な最前線で泥に塗れて戦い続ける理由。それは、英雄になりたいからではない。 内庭に設けられた野戦病院で、倒れゆく兵たちを必死に繋ぎ止めている『光』を守るためであった。
「……っ、女神よ、彼らに癒やしを……!」
幼き神父コープルが、ブラギの血を代償にするかのように、己の生命力を削りながら回復の杖を振り続けている。彼の額からは脂汗が流れ、その顔色は死人のように蒼白だった。
「コープル! そんなに一気に杖を使ったら、あんたの体が持たないわ!」
タニアが城壁から叫ぶ。彼女の胸には、かつてダグダの山賊稼業に付き合っていた頃には知らなかった、狂おしいほどの焦燥と困惑があった。なぜ自分は、このひ弱な少年のために命を張っているのか。その理由を言語化できないまま、彼女は弓の弦が指に食い込むほどの力で矢を番え続ける。
「コープル様、どうか私に……私の魔力を、お使いください」
ふらつくコープルの背中を、静かに支えた者がいた。ターラの領主であったリノアンである。 彼女の瞳は、周囲の凄惨な血の匂いなど一切見えていないかのように、ただ一点、コープルだけを見つめていた。己の国を失い、すべてを失った彼女にとって、この少年の優しさだけが世界を繋ぎ止める唯一の楔だった。
(あなたが倒れるなら、私も共に倒れます。……でも、あなたに群がる有象無象の刃は、私がすべて焼き払う)
リノアンは、コープルに寄り添いながら、静かに、しかし絶対的な執着をもって城門の外へ光の魔法(オーラ)を展開し、敵兵を消し炭に変えていく。
「リノアン……ありがとう。でも、君も無理はしないで……」
コープルが弱々しく微笑む。その声を聞いた瞬間、前線で敵を斬り伏せていたマリータの目が、一瞬だけ鋭く、刃のように細められた。
(……彼を支えるのは、私でありたい。彼を脅かすものをすべて切り捨てた時、彼に一番ふさわしい刃は、私になる)
嫉妬という安い言葉では語れない。己の生存理由(強さ)を懸けた、息苦しいほどの独占欲。ヒロインたちの静かなる死闘は、絶望的な防衛戦の裏側で、血よりも濃く煮詰まっていた。
一方、南のアルスター方面から押し寄せる敵の本隊を迎え撃つ南門。 ここには、軍の総大将であるリーフ自身が立っていた。
「殿下、下がってください! 矢が来ます!!」
フィンの叫びを掻き消すように、フリージの長弓部隊が一斉射撃を放つ。
「させない……! リーフ様に、指一本触れさせないわ!!」
リーフの前に躍り出たミランダが、自らの命を燃やすような火の魔法を放ち、飛来する矢の雨を空中で焼き尽くす。
だが、敵の猛攻は止まらない。重装騎士の長槍が、防衛線を突破してリーフの側面に迫る。
「……っ!」
ガィンッ!! 鈍い金属音と共に、リーフの死角を突いた長槍を、大地の剣が弾き飛ばした。 リーフの背後に、影のようにピタリと張り付いている少女・ナンナであった。
「リーフ様。前だけを見てください。あなたの背中にある闇は、私がすべて断ち切ります」
ナンナの純白の服は、すでに敵の返り血と泥で赤黒く染まり切っていた。 だが、彼女の表情はひどく穏やかで、どこか恍惚とすらしていた。
(ああ、リーフ様。あなたはまた、食事を抜いてまで民を救おうと、ご自分をすり減らしている。……誰にも理解されないその地獄の苦しみ、泥の匂い。私だけが、同じ血を浴びて、あなたとこの痛みを分かち合える)
ナンナにとって、この絶望的な防衛戦の苦しみは、リーフとの『共犯関係』をより深く、強固なものにするための甘美な儀式に等しかった。
「ありがとう、ナンナ、ミランダ……! みんな、もう少しだ! ここを耐え抜けば、必ず活路は開ける!!」
リーフの悲壮なまでの檄が飛ぶ。 飢餓と疲労、そして絶え間ない帝国の猛攻。レンスター城の防衛戦は、各々の業と情念が泥濘の中で絡み合う、血の泥沼へと沈み込んでいった。