イード神殿を陥落させ、クトゥーゾフの暗黒魔道から子供たちを解放したセリス軍。だが、勝利の余韻に浸る暇は、光の皇子には一秒たりとも与えられなかった。
「セリス様! リーフ王子たちが危ない!!」
教団の厚い警戒網と過酷なトラキアの山野を抜け、泥だらけになってイード神殿の本陣へと駆け込んできたのは、義賊の少女パティ、そして各地の情勢を探るために単独で動いていた吟遊詩人レヴィンであった。
パティは肺を破らんばかりに息を切らし、南方の絶望的な戦況を告げる。
「レンスター城を取り戻したはいいけど、フリージの大軍に完全に包囲されてる! 兵糧も底を突いてて、このままじゃあと数日で城内の人間は全員餓死するか、皆殺しにされる!!」
「リーフどのが……!」
セリスの表情に、強い焦燥が走る。シグルドの忘れ形見として、そして解放軍の旗印として常に冷静さを保とうとしてきた彼だが、血を分けた従弟の危機にその声はわずかに震えていた。
ただちに本陣の天幕で軍議が開かれる。
円卓の地図を見下ろす軍師オイフェの眼差しは、氷のように冷たく、かつ鋭く研ぎ澄まされていた。
「イードからレンスターへ至るには、南下して『メルゲン城』を抜けるのが最短ルートです。……しかし、奇妙ですな。メルゲンの北西に位置する『ダーナ城』の領主ブラムセルが、我々を迎え撃つそぶりも見せず、街道を完全に空け渡している」
オイフェの指が、地図上の不自然な空白をなぞる。
「罠、というわけですね」
天幕の隅。ランタンの灯りが届かない影の中から、静かな、だが底冷えのする声が響いた。
炎の魔道を修めるヴェルトマーの公子、アゼルである。
かつての気弱で心優しい青年の面影は、十数年に及ぶ帝国との絶望的な闘争と泥水によって完全に削ぎ落とされていた。
「メルゲンを攻めている最中に、背後のダーナから強襲して挟み撃ちにする腹でしょう。見え透いた三流の策ですが……今の僕たちには、ダーナをじっくり攻め落としてから進軍する『時間』がない。それを分かっていての配置です」
十数年の地獄の底で腹を括り、今やセリス軍における『もう一人のオイフェ』と呼ぶべき参謀へと変貌を遂げたアゼルの分析に、オイフェもまた無言で顎を引く。
「ええ。ですが、行くしかありません」
セリスは、腰の銀の剣を強く握りしめた。
「ダーナの脅威を背に受けてでも、メルゲンを最短で食い破り、レンスターを救う。……リーフたちを見殺しにすれば、僕は一生、自分を許すことができない!」
それは若き指揮官の、痛ましいほどの責任感とエゴであった。
パティは、すべてを背負い込もうとするセリスの横顔を、痛みを堪えるような、しかし退路のない強い慕情を込めた瞳で見つめていた。
セリスの決断により、解放軍はただちにメルゲン城へと向けた、狂気とも言える強行軍を開始する。
***
メルゲン城の北に広がる平野部。
トラキア地方特有の重く冷たい豪雨が、大地を瞬く間に泥沼へと変えていた。 その水浸しの平野でセリス軍を待ち構えていたのは、フリージの誇る若き将軍イシュトーと、彼の副官にして最愛の女性であるライザ率いる、重装甲の魔法騎士団であった。
「……セリス軍をここで食い止める。イシュトー様、前衛は私にお任せを」
ライザは降り頻る雨の中、自らの部隊を泥濘の平野へと展開させた。機動力こそ削がれるが、足場の悪い水溜りでは、セリス軍の騎馬隊も突撃の勢いを完全に殺される。そこにフリージの雷魔法(サンダー)を浴びせ、一網打尽にする算段であった。
だが、その「雨と水浸しの地形」を見た瞬間。 進軍するセリス軍の先頭で、オイフェの瞳に冷酷な軍略の光が宿った。
「……オイフェさん。僕の魔法を、どう使う気ですか」
呼び出されたフリージの血を引く魔道士アーサーが、静かに問う。その隣には、シレジアの天馬騎士であるフィーがペガサスと共に控えていた。
「ライザ将軍の部隊は、機動力を捨てて水郷地帯に陣取っている。……アーサー。フィーの天馬に同乗し、上空からあの『水溜り』の中央に向かって、最大出力の雷撃魔法を落としなさい」
その指示の意味を理解した瞬間、アーサーとフィーの息が止まった。 人体ではなく、水に魔法を落とす。つまり、あの泥水に膝まで浸かっているフリージの重装兵たちを、鎧という金属の檻ごと「巨大な感電死の罠」にかけるという、極めて無慈悲で凄惨な殲滅戦術であった。
「……やるわ、アーサー。私にしっかり掴まって」
フィーがペガサスの手綱を握り直し、覚悟を決めた声で言った。
「……ああ。彼らも命令で動いているだけだと分かっている。だが、僕たちはここを通らなければならないんだ」
アーサーは己の業を呑み込み、フィーの背中にしがみついて上空へと飛び立った。
「な、なんだ!? 上空に天馬が一騎……魔道士を乗せているだと!?」
ぬかるみの中で警戒していたライザが、上空の異変に気づいた。だが、天馬は弓の射程外の高度を保ったまま、部隊の頭上へとにじり寄る。
「女神よ……彼らに安らかなる眠りを……!」
アーサーは悲痛な叫びと共に、手にした魔道書から極大の雷撃(トロン)を、ライザたちの足元に広がる巨大な水溜りへと叩き込んだ。
直後、平野部全体が白一色の閃光に包まれた。
「ぎ……ぎぃやあああああぁぁぁッ!!?」 「がああっ、鎧が、体が焼け……ッ!!」
落雷による莫大な電気エネルギーが、水を媒介にして瞬時に広がり、鉄の鎧に身を包んだ兵士たちを内側から丸焦げにしていく。肉が焼け焦げる異臭と、断末魔の絶叫が雨音を完全に掻き消した。
「ぐっ……あ……イシュトー、さま……」
ライザもまた、逃げ場のない雷撃の奔流に全身を焼かれ、愛する者の名を呟きながら、泥水の中へと力なく崩れ落ちた。
血も泥もすべてを煮沸させる、凄まじいまでの電撃戦術。たった一撃で、メルゲンの前衛部隊は文字通り「消滅」した。
「ライザ……ライザァァァッ!!」 城壁の上からその地獄絵図を目撃した若き将軍イシュトーの口から、悲痛な絶叫が響き渡った。 最愛の女性が、たった一瞬で泥水に沈む肉塊へと変えられた。その光景は、彼から将としての冷静さも、戦う意志もすべてを奪い去るのに十分すぎた。
「今だ! 一気に城門を破れ!!」
オイフェの号令と共に、前衛が崩壊して指揮系統が麻痺したメルゲン城へ、セリス軍の騎馬隊が怒涛の勢いで雪崩れ込む。
城内での抵抗はごくわずかだった。愛する者を失い、完全に心をへし折られ、呆然と玉座の前に膝をついていたイシュトーは、抵抗すらすることなくセリス軍に捕縛された。
「……殺せ」 鎖に繋がれ、虚ろな目で床を見つめるイシュトーが呟く。 「ライザのいない世界に、何の意味がある……。頼む、私を彼女の元へ……!」
「……イシュトー将軍」
セリスは、血に濡れた己の手に目を落とし、ギリッと奥歯を噛み締めた。 敵将を捕らえ、メルゲン城を無傷に近い状態で電撃的に占領した。戦術としてはこれ以上ない大勝利である。 だが、その足元には、ライザをはじめとする数え切れないほどの焼死体が転がっている。自分たちが救おうとしている命の裏側で、無惨に踏み躙られていく別の命と愛情。
(これが、戦争……。僕が背負わなければならない、呪い……!)
セリスは、決してイシュトーから目を逸らさなかった。自分が王になるということは、この男の絶望と復讐心を一生背負って生きるということなのだから。
メルゲン城の電撃的な陥落。 それはセリス軍の強さの証明であると同時に、戦乱の狂気が彼らの魂を確実に蝕み始めた証でもあった。
そして、彼らが背後の『ダーナ城』からの追撃という爆弾を抱えたまま、リーフの待つレンスターの地獄へと歩みを進めようとしていたその頃。ダーナ城の領主ブラムセルのもとに、メルゲン城のあっけなさ過ぎる陥落の報が届いていた。