セリス軍によるメルゲン城の電撃的な陥落。
その報せは、瞬く間に北西の要衝『ダーナ城』へと届き、城主ブラムセルを底知れぬ恐怖のどん底へと叩き落としていた。
「ば、馬鹿な……! あのライザの精鋭部隊が、たった一撃で蒸発しただと!? 冗談ではない、次はここへ来る! あの反乱軍の化け物どもが、この私を殺しに来るぞ!!」
豪奢な執務室で、ブラムセルは大量の脂汗を流しながら絶叫していた。手から滑り落ちたワインの杯が床で砕け散るが、気にも留めない。彼は己の命と地位が脅かされるという現実を前に、為政者としての理性を完全に失っていた。
「……ジャバロー!! ジャバローはおるか!!」
ブラムセルの金切り声に呼ばれ、二人の男が執務室へと姿を現した。
一人は、金で雇われた傭兵隊長ジャバロー。そしてもう一人は、ジャバローの部隊に身を置く漆黒の甲冑の若者――腰に禍々しいオーラを放つ魔剣『ミストルティン』を提げた凄腕の傭兵、黒騎士アレスであった。
「お呼びですか、ブラムセルどの」
ジャバローが、傲岸不遜な態度のまま軽く頭を下げる。
「貴様ら傭兵部隊は、今すぐ城を出てメルゲンへと続く街道へ進軍しろ! 捨て駒になろうと何だろうと構わん、何としても反乱軍の足止めをするのだ!!」
そのヒステリックな命令に、アレスの鋭い眉がピクリと動いた。
この冷たい雨と泥濘の平野へ、騎馬隊を率いて打って出ろというのか。それは戦術ではない。ただ城主が逃げ延びる時間を作るための、無意味な死地への行軍だ。
アレスの瞳の奥で、猛烈な怒りと軽蔑の火が燻る。だが、彼は口を開くことができなかった。
彼は今、アグストリアの王族ではなく、ジャバローに雇われた一介の傭兵に過ぎない。傭兵が雇用主の契約(命令)に逆らうことは、戦場の掟が許さないのだ。
「……承知した。だが、あんなバケモノ揃いの反乱軍を相手にするには、少しばかり割に合いませんな」
ジャバローが、暗に報酬の吊り上げを要求する。
「金ならいくらでもくれてやる!! だから早く行け!!」
「おいアレス、行くぞ! お前が先陣だ!!」
ジャバローの命令に、アレスはギリッと奥歯から血が滲むほど噛み締めた。
理不尽な死地への命令。それでも、彼には逆らえないもう一つの『重い足枷』があった。
「……おい、アレス。待て」
踵を返そうとしたアレスの背中に、ブラムセルがねっとりとした声を投げかけた。
「貴様が連れているあの踊り子……レイリアだったか。あの女は、出撃の足手まといになるだろう。この城に残していけ。……私が『特別に』保護してやろう」
「……ッ!!」
アレスが反射的に魔剣の柄に手をかけた。執務室の空気が、ミストルティンから漏れ出す濃密な殺気によって一瞬で凍りつく。
「おいおいアレス、馬鹿な真似はよせ。お前は俺の部下で、俺たちはブラムセルどのの雇われだ。……雇い主の機嫌を損ねるわけにはいかんからな」
ジャバローが低く凄み、アレスの腕を乱暴に掴んだ。
アレスは、剣の柄からゆっくりと手を離した。
ここでジャバローやブラムセルを斬れば、彼らはトラキア半島すべての傭兵ギルドから命を狙われ、レイリアをさらに危険な目に遭わせることになる。誇りだけでは、愛する女一人守れない。それが泥に塗れた傭兵の残酷な現実であった。
「……承知した」
アレスは床を見つめたまま、血を吐くような声で言った。
「レイリアに、指一本でも触れてみろ。……その時は、悪魔に魂を売ってでも、貴様らの喉笛を掻き切る」
冷酷な殺意だけを言い残し、アレスは執務室を後にした。
ジャバロー率いる傭兵部隊が、冷たい雨の降るダーナの街道へと出撃していく。
***
城内で最も恐ろしい『黒騎士の刃』を外へと放り出したブラムセルは、恐怖と重圧を誤魔化すために、己の矮小な自尊心を無理やりにでも満たしてくれる「絶対的な弱者」を欲した。
「……離してッ!! 離しなさい!!」
豪奢な執務室の分厚い扉が開かれ、兵士たちに両腕を乱暴に掴まれたレイリアが引きずり込まれてきた。彼女の艶やかな衣装は乱れ、抵抗したせいで白い肌には痛々しい赤みが生じている。
「よく来たな、レイリア。……下がってよいぞ」
兵士たちを下がらせると、ブラムセルは脂汗にまみれた醜悪な笑みを浮かべ、床に投げ出された少女を見下ろした。
「アレスは出撃した。あいつはもうお前を助けには来ない。……だが安心しろ。私に従えば、お前だけは反乱軍から守ってやろう」
本来であれば、少女はここで恐怖に泣き叫び、権力者に許しを乞うはずだった。ブラムセルは、その「自分の権力に怯える姿」を見ることで、自分がまだ強者であると錯覚したかったのだ。
だが、レイリアは微塵も取り乱さなかった。
彼女は床からゆっくりと立ち上がると、目の前の男を……恐怖ではなく、哀れみすら含んだような、ひどく静かで冷ややかな瞳で見据えた。
「……守ってやる、ですって?」
レイリアの唇から、ふっと冷笑が漏れた。
「震えているくせに。……あなたはアレスがいないと、まともに立つことすらできないだけの、ただの臆病者じゃない」
裏社会を生き抜き、アレスという真の強者の孤独を知る彼女には、目の前の男が「すでにすべてを失いかけている、惨めでちっぽけな小者」であることが痛いほど透けて見えていた。
「……何がおかしい。何だ、その生意気な目は……!」
自分の支配が全く通じていないどころか、芯まで見透かされたことを悟り、ブラムセルの顔に屈辱と激しい怒りが入り混じる。
「私を誰だと思っている! 私はダーナの領主だ! お前の命など、いつでも……ッ!」
ブラムセルが逆上し、その薄汚い手を、レイリアの細い首へと伸ばし――。
――その瞬間。
ダーナの街道を、雨に打たれながら進軍していたアレスの体が、弾かれたようにビクリと震えた。
「……っ!?」
アレスは馬の手綱を激しく引き絞り、泥濘の中で立ち止まった。
「どうした、アレス! 足を止めるな!」
ジャバローが怒鳴るが、アレスの耳には届かない。
(レイリア……!)
アレスの腰で、魔剣ミストルティンが持ち主の怒りに呼応するように、ドクン、ドクンと脈打ち、禍々しい黒気を猛烈に噴出させ始める。
誇り高き黒騎士の魂の中で、理不尽な契約と我慢の鎖が、今まさに音を立ててちぎれようとしていた。