冷たい雨が泥濘を叩きつけるダーナの街道。 馬の手綱を引き絞り、ピタリと足を止めたアレスに、後方をゆく傭兵隊長シャバローが苛立たしげに怒鳴った。
「どうしたアレス! 足を止めるな! セリスの反乱軍はもう目と鼻の先まで来てるんだぞ!」
「……俺は戻る。ブラムセルの様子がおかしい」
アレスの声は、地を這うように低く、ひどく冷え切っていた。彼の腰にある魔剣ミストルティンが、まるで主の焦燥に呼応するように禍々しい黒気を微かに漏出させている。
その背中を見たシャバローは、嘲笑を浮かべて鼻で笑った。
「 馬鹿なヤツめ。あの好色な男(ブラムセル)が、お前が城を空けた隙に指をくわえて待っているとでも思ったか? お前の大事な踊り子は、今頃あの男の寝所に引きずり込まれてる頃だ。……もう手遅れだ、諦めて剣を振れ!」
「……ジャバロー、あんたは知っていて俺を外に出したのか」
アレスの全身から、爆発的な殺意が膨れ上がった。 雨粒が彼に触れる前に蒸発するほどの異常な剣気。エルトシャンの血脈と魔剣の呪いが完全に直結した瞬間であった。
「な、なんだその目は! 反抗する気か、アレス!」
シャバローが慌てて武器を構えようとしたが、遅すぎた。
「……あんたには世話になったが、それも今日限りだ!!」
漆黒の閃光が一閃する。 シャバローの乗る軍馬の首と、周囲を固めていた数名の傭兵の胴体が、一切の抵抗を許されずに両断され、血の雨となって泥濘に降り注いだ。
「つ、つよすぎる……ッ!」
泥水に転がり落ちたシャバローを歯牙にもかけず、アレスは馬の首を返し、ダーナ城へと向かって悪鬼のごとき速度で駆け出していった。
時を同じくして、ダーナ城の。 「その生意気な目を、泣き顔に変えてやる……!」 ブラムセルの薄汚い手が、無抵抗のレイリアの胸元へとかけられようとした、まさにその刹那であった。
――ズドォォォォォンッ!!!
城の土台そのものを揺るがすような轟音と共に、地下牢の分厚い鉄扉が、ひしゃげた飴細工のように吹き飛んだ。 もうもうと舞う粉塵と冷気の中。 そこには、全身に敵の返り血を浴び、瞳に純粋な殺意だけを宿した黒騎士アレスが立っていた。
「ア、アレス!? な、なぜここに……ッ!」
ブラムセルは悲鳴を上げ、無様に床へ尻餅をついた。極度の恐怖で股間が濡れ、脂汗が滝のように流れ落ちる。
「ま、待て! これは誤解だ! 私はただ、この女が逃げないように……!」
「……死ね」
慈悲も、弁明を聞く余地もなかった。 アレスの振り下ろしたミストルティンが、ブラムセルの肥え太った胴体を袈裟懸けに両断する。断末魔を上げる暇すらなく、ダーナの領主だった肉塊が大量の血と臓物を撒き散らして石の床に崩れ落ちた。
血の海と化した牢の中。 アレスは荒い息を吐きながら、レイリアに向き直る。己の残虐な殺しを見せてしまったことに、微かな後悔が過ぎった。
「……すまない、レイリア。遅くなった。奴に、触れられていないか」
だが、レイリアの瞳に恐怖はなかった。 彼女は血の海を厭わずに歩み寄ると、泥と血に塗れたアレスの漆黒の甲冑に、その細い腕をしっかりと回した。
「……いいえ。あなたが来てくれると、ずっと信じていましたから」
(ああ……この方は、私のためだけに、その魂を黒く染めて剣を振るってくれた)
裏社会で孤独に生きてきたレイリアにとって、アレスの放つ血の匂いは恐怖ではなく、己の生存と居場所を絶対的に保証してくれる、息苦しいほどの安心感と同義であった。
かくして、ダーナ城はアレスの反逆により、内側から呆気なく解放された。
数時間後。 シャバローの傭兵部隊を電撃的にすり潰し、ダーナ城へと到達したセリス率いる解放軍の本隊。 彼らを城門の前で出迎えたのは、血に染まったミストルティンを大地に突き立て、一人で立ち塞がるアレスであった。
「……反乱軍の将、セリスだな」
アレスの目は、獲物を狙う鷹のように鋭くセリスを射抜いていた。
「俺はアレス。かつてお前の父、シグルドによって殺された獅子王エルトシャンの息子だ。……俺は父の仇である貴様らを殺すためだけに、傭兵として泥水をすすってきたのだ!」
一触即発の空気。オイフェが顔色を変えて前に出ようとする。 だが、セリスはそれを手で制し、ゆっくりと馬を降りてアレスの前に歩み出た。
「……セリス様?」
アレスは、目の前の少年の顔を見て息を呑んだ。 仇の息子。憎きグランベルの英雄の忘れ形見。さぞや傲慢で、正義を笠に着た綺麗で憎たらしい顔をしているはずだった。 だが、セリスの顔は泥と疲労で汚れきり、その瞳には、先ほどのメルゲン城での「電撃による無慈悲な殲滅」や、トラキアの戦火で失われた命の重さが、深く暗い絶望の影として落ちていた。
「……もし、僕の父の罪が、君の誇りを汚したというのなら……君の剣を受けよう、アレス」
セリスは、腰の銀の剣を抜かなかった。ただ、無抵抗のままアレスを見据えた。
「でも、今は駄目だ。……今この瞬間も、南のレンスター城では、僕の従弟であるリーフたちが飢えと恐怖に耐えながら、命懸けで市民を守っている。彼らを助けるまでは……僕の命は、僕だけのものではないんだ」
英雄の綺麗事ではない。それは、狂気的なまでの「責任感という名の業」であった。
「貴様……本気で言っているのか。俺がここで、その首を刎ねないと思っているのか!」
アレスがミストルティンを構え直す。
「お待ちください、アレス」
城門から進み出たレイリアが、アレスの腕にそっと触れた。
「……彼を見て。彼の目は、私たちが裏社会で見てきた『搾取する貴族』の目ではありません。あなたと同じ……世界の不条理と戦い、傷ついている者の目です。……彼を斬れば、あなたは一生後悔します」
レイリアの静かで確かな声に、アレスの剣先が微かに震える。
(……そうだ。俺が憎んでいたのは、ブラムセルのような腐った権力者のはずだ)
目の前で自分と同じように泥に塗れ、誰かを救うために地獄に向かおうとしている少年を斬って、何が獅子王の誇りか。
「……フッ。馬鹿馬鹿しい」
アレスはミストルティンを鞘に収め、自嘲気味に笑った。
「仇の息子を斬るのは先延ばしだ。……行くぞ、セリス。お前の背負っている泥の重さ、俺の剣で少しばかり削り落としてやる」
「……ありがとう、アレス」
セリスの瞳に、微かな安堵の光が灯った。 エルトシャンとシグルドの血が、凄惨な戦場において再び交わった瞬間であった。
一方その頃。 彼らが救いに向かおうとしている南の拠点・レンスター城では、絶望的な防衛戦が限界を迎えようとしていた。
「コープル……! もう駄目、魔力が……っ」
城門の内庭で、リノアンが血を吐きながらその場に崩れ落ちる。
「リノアン!? しっかりして!」
コープルが抱き留めるが、彼自身の顔色もすでに死人と見紛うほど蒼白であった。ブラギの生命力を極限まで前線の兵士に分け与え続け、その命の灯火は今にも消え去ろうとしている。
「下がって、コープル! ここは私が……ッ!」
マリータが血走った目で前衛に飛び出すが、フリージの重装兵の槍が彼女の肩を掠め、鮮血が舞う。城壁の上ではタニアの矢が完全に尽き、彼女は折れた弓を握りしめて絶望の声を上げていた。
そして、南門で防衛線を死守するリーフと、彼に寄り添うナンナ、ミランダもまた、血の海の中で満身創痍となっていた。
「……諦めるな。セリス皇子が……必ず来る……!」
リーフの悲痛な声が、冷たいトラキアの雨に吸い込まれていく。 北の解放軍と、南の籠城軍。二つの『業』の歯車が交差する時が、一刻一刻と迫っていた。