セリス軍によるメルゲン城の電撃的な占領、そしてアレスの反逆によるダーナ城の解放。 トラキア半島北部の戦局が、わずか数日の内に激しい軋みを上げて反転しようとしていた頃。 セリス軍本隊の側面を突くべく、アルスター北方の山間部を隠密裏に進軍している部隊があった。 フリージ家の直属、雷の魔道三姉妹――ヴァンパ、フェトラ、エリウとテュルテュの妹、エスニャが娘のリンダ率いる魔道騎士団である。
「……急ぎましょう。メルゲンが落ちた今、私たちがセリス軍の背後を突かなければ、ブルーム伯父様やヒルダ伯母様にどんな罰を受けるか分かったものではありません」
リンダの声には、雨の冷たさとは異なる、芯から凍りつくような『恐怖』が滲んでいた。 フリージ家の当主夫人であるヒルダは、たとえ一族の者であっても容赦はしてくれない。彼女たちの失敗は即ち、拷問と死を意味していた。 だが、泥濘の山道を抜ぼうとした彼女たちの眼前に、突然、周囲の冷たい雨を一瞬で蒸発させるほどの凄まじい熱風が吹き荒れた。
「な……っ!?リンダ様、 前方の街道が、炎で塞がれています!」
末妹のエリウが悲鳴を上げる。 燃え盛る炎の壁を割って、三人の人影がゆっくりと歩み出てきた。 静かに燃えるような気迫を纏った壮年の魔道士と、深い覚悟を瞳に宿した女性。そして、震えを堪えながらも魔道書を握りしめる少女であった。
「……そこまでです、
ヴァンパ、フェトラ、エリウ、それにリンダ。これ以上、フリージの呪われた命令に従う必要はありません」
その声に、長女のヴァンパの顔色が一斉に蒼白になった。
「あ、あなたは……テュルテュ様!? ……それに、隣にいるのはヴェルトマーの……!」
十数年前のバーハラの悲劇から逃れ、長きにわたって帝国から身を隠し続けてきたアゼルとテュルテュ、そして娘のティニーであった。 息子アーサーをセリス軍本隊に預けた彼らは、遊撃の別働隊としてフリージ軍の動向を監視し、この山間部で三姉妹を待ち受けていたのだ。
「フリージ家を裏切った方が、どの面を下げて……!反逆者の夫ごと、ここで処刑してヒルダ様への手土産にして差し上げます!」
次女のフェトラが恐怖を怒りに変え、極大の雷魔法(エルサンダー)を解き放った。
「下がっていろ、テュルテュ、ティニー!」
アゼルが進み出る。かつて気弱だった少年の面影はどこにもない。長きにわたる逃亡生活と、愛する家族を守り抜いてきた凄絶な覚悟が、彼の放つ炎(ボルガノン)にファラフレイムにも劣らぬ爆発的な熱量を与えていた。 轟音と共に炎と雷が激突し、周囲の泥濘が爆発的に沸騰する。 魔法戦とは名ばかりの、互いの魔力と生命力を泥臭く削り合う凄惨な消耗戦が始まった。
「なぜ……!こんなに強い魔力が……!」
リンダが歯を食いしばりながら雷を放つ。だが、その雷撃はことごとくテュルテュとティニーの放つ雷魔法によって相殺されていく。
「リンダ……あなたたちの魔法には、迷いと恐怖しかない。ヒルダ義姉様に怯え、罰を恐れて絞り出すような力で、私たちが守ってきた『意志』を砕けるはずがないわ!」
テュルテュの言葉が、雨音を切り裂いて三姉妹の胸に突き刺さる。 かつて無邪気だったフリージの令嬢は、自らの血脈が世界に強いた残虐な罪をすべて背負い、母として、そして一人の戦士として、震える姪たちを真っ直ぐに見据えていた。
「お母様の言う通りです……! 兄様(アーサー)もあなたのお兄さん、アミッドさんも今、セリス様と一緒に命懸けで泥の中を戦っている! 私たちフリージの血は、人を傷つけるためじゃなく、誰かを守るために使うべきなんだわ!」
ティニーもまた、恐怖に震える足を叱咤し、渾身の魔力でエリウの魔法を弾き飛ばした。
「くっ……ああああっ!!」
気迫と覚悟の差は、そのまま魔力の優劣となって表れた。 アゼルの放つ熱波が三姉妹の陣形を完全に崩し、テュルテュとティニーの雷撃が、彼女たちの手から魔道書を的確に弾き飛ばし、丸焦げにして灰へと変えた。
「……あ……」
武器を失い、泥水の中にへたり込んだリンダと三姉妹。周囲の魔道騎士たちも、圧倒的な制圧力を前に完全に戦意を喪失していた。
「……殺しなさい」
リンダが、泥だらけの顔を上げてテュルテュを睨みつけた。
「どうせ、手ぶらで帰れば私たち全員ヒルダ様に惨殺される。捕虜になるくらいなら、いっそあなたたちの手で……!」
だが、テュルテュは静かに首を振り、泥の中に座り込むリンダの体を、強く抱きしめた。
「え……?」
「もういいのよ。……あなたたち、ずっと怖かったわね。私が傍にいてあげられなくて、本当にごめんなさい」
その温もりと、決して自分たちを責めない伯母の深い慈愛に触れた瞬間。 彼女たちの心に長年巻きついていた『恐怖による支配』の鎖が、音を立てて崩れ落ちた。
「テュルテュ、さま……っ、あああ……っ!」
ヴァンパが、フェトラが、エリウが、リンダが泥に塗れながら子供のように声を上げて泣き崩れる。高位の魔道士としての矜持も、帝国への忠誠もそこにはなかった。ただ、理不尽な恐怖から解放された、か弱い少女たちの真実の姿だった。
「……アゼル。終わったわ」
テュルテュが、アゼルを見上げて小さく頷く。
「ああ。これで、フリージの側面攻撃部隊は完全に瓦解した。セリス様と、リーフ王子のいるレンスターへの道は、さらに開かれたはずだ」
アゼルは、泥だらけの山道から、遠く南に位置するレンスターの空を見つめた。 己の血脈(ヴェルトマー)と妻の血脈(フリージ)が、世界にどれほどの地獄をもたらしたか。その業を清算するための戦いは、まだ終わらない。 魔道三姉妹という強大な戦力を戦わずして降伏・吸収させたアゼルたちの別働隊は、彼女たちを保護しながら、セリス軍とリーフ軍が交差する運命の地・レンスターへと向けて、冷たい雨の中を静かに歩み始めた。