異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第55話

マンスターの陥落。 その報せは、城の南方に広がるトラキア山脈の空を覆い尽くす、強大な竜騎士団の陣中にも即座に届いていた。

 

「……レイドリックが討たれましたか。解放軍の疲労は極致。今、上空から一気に強襲をかければ、反乱軍の息の根を完全に止められます」

 

歴戦のトラキア将軍コルータが、飛竜の背から地上を見下ろし、冷徹に進言した。

 

だが、軍の総司令官であるトラキア王女アルテナは、手にした地槍ゲイボルグの柄をきつく握り締めたまま、出撃の号令を下せずにいた。 彼女の眼下では、泥と血に塗れた解放軍の兵士たちが、略奪に走ることもなく、傷ついたマンスターの市民たちを必死に救護している姿が見えた。

 

「待て、コルータ。彼らは……民を救っている。そのような疲弊しきった者たちを、背後から奇襲するなど……トラキアの誇り高き竜騎士のすることではない!」

「アルテナ様。戦争は騎士道ごっこではありません」

 

コルータは、躊躇する若き王女に露骨な苛立ちと失望の息を吐いた。

 

「痩せたトラキアの大地が生き残るには、綺麗事を並べる余裕などないのです。……王女が泥を被れないというのなら、このコルータが、トラバント王のために敵将の首を獲ってご覧に入れましょう!」

 

「コルータ! 勝手な真似は許さん!」

 

アルテナの制止を完全に無視し、コルータは己の直属の飛竜部隊を率いて、雨雲を突き抜け、無防備なマンスター城塞へと急降下を開始した。

 

「敵襲ゥゥッ!! 上空より、トラキアの竜騎士団!!」

 

城壁で見張りに立っていたマギ団の兵士が絶叫する。 直後、空を覆う巨大な飛竜の群れから、無慈悲な投槍の雨が降り注いだ。

 

「がぁぁっ!?」

「ひぃぃっ! 逃げろ、空から殺される!」

 

レイドリックとの死闘を終え、ようやく剣を置こうとしていた解放軍の兵士や市民たちが、次々と血飛沫を上げて倒れていく。

 

「ちぃっ! トラキアのハイエナどもめ、一番嫌らしいタイミングで来やがった!」

 

パーンが舌打ちをして短剣を構えるが、空中の飛竜相手ではどうにもならない。リーフやセリスたち主力も、城の奥深くから駆け戻るには時間が足りなかった。

 

「フハハハッ! 地を這う虫どもめ、トラキアの牙の前にひれ伏せ!」

 

コルータが飛竜を旋回させ、最も無防備な内庭の野戦病院――傷病兵たちが集められた場所へと狙いを定めた。

 

「させない……っ! コープル様に、近づかせるものか!」

 

リノアンが光の魔法を展開しようとするが、極度の魔力枯渇により、彼女の指先から生まれた光は儚く掻き消えてしまう。マリータとタニアが絶望的な空の敵へ向けて武器を構えるが、重装甲の飛竜を前にしては蟷螂の斧に等しかった。

 

(……ここまで、なのか)

 

誰もが死を覚悟した、その瞬間。

 

「……下がっていて、みんな」

 

静かで、しかし戦場の喧騒を完全に支配するほどに澄み切った声が、内庭に響いた。 ふらつく足取りで歩み出たのは、幼き神父、コープルであった。 だが、その手には普段の杖はない。彼の両手には、淡い緑色の輝きを放つ、分厚い魔道書が握られていた。 シレジア王家の血を引く者のみが封印を解くことを許される、風の聖書『フォルセティ』。

 

「子供が、魔道書で飛竜兵の装甲を貫けるとでも思ったか! 潰れろ!」

 

コルータが嘲笑い、飛竜に急降下を命じる。

 

コープルは、迫り来る巨大な飛竜の顎を前にしても、一歩も退かなかった。 彼の瞳には、かつて己の父(レヴィン)が空を舞う竜騎士たちを撃ち落とした時の、氷のような冷徹さが完全にトレースされていた。

 

「……シレジアの風よ。僕の、守るべき世界(ひと)に触れるな」

 

コープルが静かに魔道書を開いた刹那。

 

ドゴォォォォォォォォォォッ!!!!!

 

マンスターの重苦しい雨雲が、一瞬にして吹き飛んだ。 コープルを中心に発生した『極大の竜巻』が、天を衝く巨大な緑色の光の柱となって、急降下してくる竜騎士団を真っ向から呑み込んだ。

 

「な、なんだこの風圧は!? 飛竜の鱗が、鎧が……引き剥がされ……ッ!?」

 

それは単なる風の魔法ではない。神の怒りそのものであった。 絶対の防御を誇る飛竜の硬い鱗と騎士の重装甲が、超高圧の風の刃によって紙切れのように細切れにされ、空中で肉片と鉄屑の雨へと変わっていく。

 

「ぐ、がぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

 

コルータの断末魔の絶叫すらも風の轟音にかき消され、トラキアが誇る歴戦の将軍は、飛竜ごと文字通り『ミキサーにかけられた肉塊』となって、マンスターの空から消滅した。

 

圧倒的、かつ凄惨なまでの蹂躙。 残された竜騎士たちは、たった一人の少年が放つ規格外の神の力に完全に戦意を喪失し、悲鳴を上げながら南の空へと逃げ去っていった。

 

「……コープル、様……」

 

リノアン、マリータ、タニアの三人は、息を呑んでその背中を見つめていた。 自分たちが命懸けで庇い、守らなければならないと思っていた庇護対象。だが、今目の前で本物の神の力を振るい、空の軍勢を一人で惨殺してみせたその少年は、もはや彼女たちにとって「守るべき子供」などではなかった。

 

***

 

一方、凄惨な防衛戦の熱気が冷めやらぬ城の片隅。 喧騒から離れた崩れかけの回廊で、記憶を失った女戦士エーヴェルは、壁に背を預けて静かに目を伏せていた。

 

「……怪我はないか、エーヴェル」

 

ふと、影の中から一人の男が歩み出てきた。かつて義賊として裏社会を渡り歩き、今は解放軍の影の刃として動く男、デューである。 その後ろには、パティとファバルが、複雑な面持ちで立ち尽くしていた。

 

「……ええ。私は大丈夫です」

 

エーヴェルは、デューの顔を見つめた。 彼女の記憶には『ブリギッド』としての過去はない。自分がかつてユングヴィの公女であり、聖弓イチバルを引いた戦士であったことも、目の前の男と愛し合い、子供を成した事実も、すべてが空白であった。

 

だが――。 「……おかしい」

 

エーヴェルは、己の胸を強く押さえた。

 

「あなたの顔を見るたびに、あなたの声を聞くたびに……私の魂が、血を流すように痛むのです。あなたの背中が戦場に向かうのを見ると、息が止まりそうになります」

 

それは、頭の記憶ではなく、細胞と肉体に刻み込まれた『生存本能としての愛』であった。 世界が滅び、すべてが石になり、過去が白紙になっても、この男の匂いと体温だけが、彼女の魂の居場所を強烈に主張し続けている。

 

「……私は、あなたの知る『彼女』ではないのかもしれない。気の強い、ただのフィアナの用心棒です」

 

エーヴェルは、震える手でデューの頬にそっと触れた。

 

「それでも……私は、あなたの傍にいたい。あなたの剣となり、あなたの背中を守る盾になりたいと、私のすべてが叫んでいる。……こんな私は、滑稽でしょうか」

 

記憶を持たない女の、泥臭く、しかし嘘偽りのない命懸けの告白。 デューは、少しだけ泣きそうな顔で笑い、エーヴェルのその手を両手で強く包み込んだ。

 

「滑稽なもんか。……お前が、俺たちの知ってる『ブリギッド』じゃなくてもいい」

 

デューの瞳から、かつての飄々とした態度は消え去り、家族を二度と失わないと決めた男の、重く狂おしいほどの執着が宿っていた。

 

「お前が『エーヴェル』として生きて、俺の傍にいてくれるなら、俺はもう過去なんてどうだっていい。……おかえり。俺の、たった一人の女」

 

その言葉に、エーヴェルの目から、理由も分からない熱い涙がひと筋、頬を伝い落ちた。

 

「ええ……ただいま。デュー」

 

彼女は、男の胸に深く顔を埋めた。

 

「……父さん。良かったね」

 

少し離れた場所で、ファバルがポツリとこぼす。 パティもまた、目を真っ赤に腫らしながら、無理に明るく笑って見せた。

 

「……お母さんが、お母さんの記憶がなくても。今、あそこで笑って生きてる。……それで、十分だよね」

 

かつての英雄ブリギッドは、もういない。だが、血と泥に塗れた過酷な世界の中で、彼らは過去の亡霊を捨て去り、目の前にある『今、生きている肉体と熱』を不器用に抱きしめることを選んだのだ。

 

マンスターの空が、重い雨雲の隙間からわずかに晴れ間を見せ始める。 だが、南の空にはまだ、トラキアの真の王にして最強の竜騎士、トラバントの巨大な影が立ちはだかっていた。

 

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