異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第57話

南トラキアの玄関口であるミーズ城を突破した解放軍は、いよいよトラキア半島の最深部――トラキア王国の心臓部へと向けた過酷な山岳行軍を開始していた。

 

カパトギアへと続くトラキア山脈の道は、北部の豊かな平野とは打って変わり、切り立った岩肌と底知れぬ谷底が続く、死と隣り合わせの荒野であった。 冷たい強風が吹き荒れ、飢えと疲労に苦しむ解放軍の兵士たちの体温を容赦なく奪っていく。

 

「……前方の崖上より、敵影! トラキアの竜騎士部隊です!」

 

斥候からの悲痛な報告が響くのと同時に、灰色の雲を突き抜けて、無数の飛竜が急降下してきた。

 

「怯むな! ここを抜かせれば、我らトラキアに明日はない! 豊かな北の豚どもに、我ら山岳の民の誇りを思い知らせてやれ!!」

 

トラキア兵たちの眼は完全に血走り、狂気にも似た決死の覚悟を宿していた。 彼らは悪でも外道でもない。ただ、痩せ細った不毛の大地で、愛する家族を飢えから守るために泥水を啜って生きてきた誇り高き戦士たちなのだ。地の利を生かした彼らのゲリラ戦法と、上空からの無慈悲な投槍は、着実にセリスとリーフの軍勢を削り落としていた。

 

「くっ……防衛陣形を崩すな! 負傷者を中央へ!」

 

リーフは泥に塗れながら光の剣を振るい、頭上から迫る飛竜の軌道を逸らす。だが、足場の悪い岩地では騎馬の機動力は完全に殺され、解放軍は圧倒的な不利を強いられていた。

 

その時、一際巨大な咆哮が山脈の空を震わせた。

 

「……退きなさい、トラキアの誇り高き戦士たち!!」

 

雲を裂いて現れたのは、真紅の竜騎士――トラキアの王女アルテナであった。 彼女の手には、大地の呪いを一身に受ける悲劇の聖槍『ゲイボルグ』が握られている。彼女は自らの飛竜を解放軍の頭上へ旋回させると、あろうことか、味方であるはずのトラキア竜騎士団の前に立ちはだかったのだ。

 

「ア、アルテナ様!? なぜ我らの前に……!」

 

「トラバント王の命により、反乱軍を討つのではなかったのですか!」

 

動揺するトラキア兵たちに対し、アルテナは血を吐くような悲痛な声を張り上げた。

 

「……これ以上の無駄な血は流させない。あなたたちは、私が誇るトラキアの民……。だからこそ、ここで彼ら(解放軍)の怨念の刃に散ることは許さない! 武器を捨てて、城へ退きなさい!!」

 

それは、彼女を育ててくれたトラバント王への、そしてトラキアという国そのものに対する、完全なる『反逆』の宣言であった。

 

「な……王女が、我らを裏切ったというのか……ッ!」

 

トラキア兵たちの顔に、絶望と怒りが入り交じる。だが、ゲイボルグの圧倒的な威圧感と、何より彼女が流す目に見えない血の涙を前にしては、彼らも槍を収めざるを得なかった。 指揮系統を失い、混乱したトラキア竜騎士団は、恨みがましい視線をアルテナに向けながら、南の空へと撤退していった。

 

静寂が戻った荒涼たる岩山。 アルテナは飛竜から降り立つと、重い足取りでリーフの元へと歩み寄った。 その顔は蒼白で、魂の半分を引きちぎられたかのような凄惨な疲労感が色濃く張り付いていた。

 

「……アルテナ、姉さん」

 

リーフは剣を収め、泥だらけのまま彼女と真っ直ぐに向き合った。

 

「……私は、トラバント父上を討つことはできなかった」

 

アルテナの声は、ひび割れていた。

 

「父上は、私の本当の両親を殺した仇。……でも、私を愛し、このトラキアの民を誰よりも愛していたのは、間違いなくあの人だった。……私は、どちらも選べなかった。己の血脈も、私を育てた父の温もりも」

 

彼女は、自らの手からゲイボルグを取り落とし、冷たい泥の地面に両膝をついた。

 

「だから……私は、最も重い罪(裏切り)を背負う。リーフ、あなたに協力するわ。このトラキアを、父上ごとあなたが討ち果たすというのなら……私は、その地獄への道案内をする」

 

故郷を売り渡し、育ての親を殺す手引きをする。それは、気高き竜騎士にとって、己の魂を泥水に沈めて引き裂くような、極限の自己犠牲と業(エゴ)の選択であった。

 

「……ありがとう。あなたのその罪は、僕の血肉として共に背負いましょう」

 

リーフは、泥に塗れたアルテナの肩を強く抱きしめた。それは互いの魂を呪いと血で縛り付け合う、凄惨な血脈の共鳴であった。

 

その光景を、背後から無言で見つめている二つの影があった。 ナンナと、ミランダである。

 

(……実の姉。血の繋がり。……リーフ様と同じ痛みを分かち合える存在)

 

ミランダは、炎のように熱い嫉妬と焦燥を瞳に宿し、ドレスの裾を強く握りしめた。リーフの背負う重圧を理解し、彼と共に地獄を歩むのは自分のはずだという、強烈な縄張り意識。

 

だが、ナンナの反応は全く違った。 彼女は、嫉妬で身を焦がすミランダの横を静かにすり抜け、膝をつくアルテナの傍らへと歩み寄った。

 

「……アルテナ義姉様。ひどいお顔色です。私の杖で、癒やさせてください」

 

ナンナの声は、春の陽だまりのように優しかった。 リライブの杖の力が、アルテナの疲労した肉体を温かく包み込む。

 

「……あなたは?」

 

「ナンナと申します。リーフ様と……『ずっと一緒』に泥を這いずり回ってきた者の一人です」

 

ナンナは、アルテナの冷え切った手を両手で包み込み、ふわりと微笑んだ。

 

「第二の祖国であるトラキアを裏切るお辛さ、心中お察しいたします。ですが、義姉様は、ただその聖槍で、リーフ様のために道を切り開いてもらいます。」

 

「……ええ。私は、私の為すべきことをするだけだわ」

 

アルテナはナンナから静かに手を引き抜き、再びゲイボルグを握りしめて立ち上がった。 彼女は己の居場所がリーフの隣(心の中)にはないことを、この少女の立ち振る舞いによって痛いほどに理解させられたのだ。

 

「……進みましょう、リーフ。この道の果てに、トラバント王が待っている」

「ええ」

 

アルテナという強大な道案内を得て、解放軍はトラキア山脈の最も深く険しい道へと足を踏み入れていく。 その先には、トラキアの盾ハンニバル、トラキアの真なる王トラバントと、トラバントの息子アリオーンが、死の牙を研いで待ち構えていた。

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