異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第58話

切り立った岩肌、足を踏み外せば一巻の終わりの底知れぬ谷。そして、上空からはトラキア竜騎士団の残存兵たちが、決死の覚悟で投槍の雨を降らせてくる。 「……そこよ! 右の稜線の影に、伏兵が潜んでいるわ!」 先頭を進むのは、トラキアを裏切り、解放軍へと寝返った王女アルテナであった。 彼女はゲイボルグを振るい、かつての自分の部下たちを次々と叩き落としていく。

 

「アルテナ王女! なぜだ、なぜ我らを裏切ったァァッ!!」

 

血を吐きながら墜落していくトラキア兵の悲痛な絶叫が、谷底からこだまする。

 

「……っ!」

 

アルテナの顔は死人のように蒼白であり、唇は噛み破られて血を流していた。 故郷の痩せた大地を守るために戦ってきた同胞を、自らの手で殺戮し、憎き侵略者(解放軍)を父トラバントの喉首へと案内しているのだ。その罪悪感と自己嫌悪は、彼女の気高き魂を毎秒ごとに八つ裂きにしていた。

 

「アルテナ姉さん、退いてくれ! ここは僕が……!」

 

泥だらけのリーフが前に出ようとするが、アルテナは血の滲む目で彼を制止した。

 

「手出しは無用よ、リーフ! これは私が選んだ『罪』……。トラキアの血は、この私の手で引き受けなければならないの!」

 

彼女は悲鳴のような咆哮を上げ、ゲイボルグの切先で同胞の胸を貫き続けた。

 

***

 

血肉が飛び散る最前線から少し離れた後方の野戦病院。 雨風を凌ぐ薄暗い天幕の中では、次々と運び込まれる重傷兵たちのうめき声と、むせ返るような血と汚物の匂いが充満していた。

 

その地獄絵図の中で、ユリアはただ一人、穢れを知らぬ純白の光を放ちながらリライブの杖を振り続けていた。 彼女の聖なる力は、兵士たちの裂けた肉を塞ぎ、痛みを癒やしていく。だが、あまりにも凄惨な戦場の現実に、彼女の細い肩は小刻みに震えていた。

 

「……ねえ、ユリア。あなたの『声』、真っ白で綺麗ね。でも、ここだと少し浮いてるわ」

 

ふと、死臭の漂う天幕の隅から、鈴を転がすような声が響いた。

負傷兵の血の海を避けるでもなく、ただ面白そうにしゃがみ込んでいる銀髪の少女、サラである。

 

「サラ……? 声って、どういうこと……?」

「聞こえないの? あの子たち(マリータやリノアンたち)の心の中の、すっごくうるさい声」

 

サラは、細い指で天幕の外――最前線で戦うリーフやコープル、そして彼らを血走った目で守り抜く少女たちの方向を指差した。

 

「『私だけのもの』『私の居場所を奪わないで』……みんな、ドロドロした黒い声で叫びながら剣を振ってる。リーフやコープルの周りは、そういう痛くて、重くて、悲鳴みたいなノイズでいっぱいなのよ」

 

サラの瞳は、人間の持つ醜くも生々しい『執着の本質』を、他人の心の声が聞こえる彼女特有の残酷な純粋さで見透かしていた。

 

「みんな、その黒くてうるさい声で自分を縛り付けて、やっと立ってるの。……だからね、ユリア。あなたのその、何もかもを癒やして許してしまいそうな『真っ白な声』が近付くと、自分の黒い声が消されちゃいそうで怖いのよ。……必死で威嚇してるわ。ふふっ、おもしろい」

 

「私が、みんなを怖がらせている……?」

 

ユリアは杖を持つ手を止め、ハッとして外を見た。

自分が良かれと思って放つ絶対的な『光(救済)』が、泥水の中でしか息ができない者たちにとっては、己の生存証明である執着(ノイズ)を奪い、自我を焼き払う暴力になり得るという残酷な真実。

 

サラの容赦ない言葉に、ユリアの胸が締め付けられるように痛んだ。

 

「……ふふっ。可哀想なユリア。綺麗な光のままでいるのも、辛いわね」

 

サラは立ち上がり、ユリアの頬に冷たい指先でそっと触れた。

 

「でもね、私は好きよ。あなたのその、誰にも理解されない真っ白な声も……リーフたちがもがいている、悲しいけれどあたたかい声もね」

 

サラはクスクスと笑いながら、再び暗い天幕の影へと消えていった。

取り残されたユリアは、自分の手のひらを見つめた。

 

(私の光が、みんなの『声』を消してしまう……? それでも、私は……)

 

ユリアは、震える両手で杖を強く握り直した。

 

(それでも、私はこの光を消さない。彼らがどれだけ黒い声で泣き叫んでいても、私がそのノイズごと、全部抱きしめてみせる……!)

 

無自覚な聖女から、戦場の業とノイズを理解した上で手を差し伸べようとする、一人の気高き少女への覚悟の芽生えであった。

 

***

 

その頃。

血路を切り開きながら南下を続けていた解放軍の眼前に、トラキア半島南部の山岳地帯を塞ぐようにそびえ立つ、堅牢な防衛要塞がその威容を現した。

トラキア城の防衛の要にして、難攻不落の『カパドテキア城』である。

 

「……見えたぞ。あれが、トラキアの第一防衛線……!」

 

セリスが銀の剣の血を払いながら、鋭い視線を向ける。

 

城の周囲には、すでにトラキア軍の精鋭部隊が分厚い防衛陣形を敷いていた。

 

「……来たか、光の皇子。そして、レンスターの若獅子よ」

 

城壁の上から静かに見下ろすのは、トラバント王の絶対的な忠臣であり『トラキアの盾』と称される大将軍ハンニバルである。トラキア最大の激戦が幕を開けようとしていた。

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