トラキア半島南部、最後の巨大な防衛拠点『カパドテキア城』。
その城門の前には、「トラキアの盾」と謳われる大将軍ハンニバルが、重装甲の兵を率いて鉄壁の陣形を敷いていた。
「……セリス様。待ってください」
冷たい雨の降る最前線。銀の剣を抜こうとしたセリスの腕を、リーフが無言のまま、しかし強烈な力で掴んで制止した。
「リーフ王子? なぜ止めるのですか?彼を突破しなければ、トラキア城へは……」
「絶対に、あの将軍を殺してはなりません。……あの老将は、僕たちがフィアナの村で帝国から逃げ惑っていた時、山荘を提供してドリアス伯を匿ってくれた恩人です。それに、帝国の厳しい監視下にあったターラで、グレイドたち旧レンスターの騎士が生き延びられたのも、すべて彼が密かに庇護してくれていたからだ」
リーフの瞳には、かつての恩人に対する痛切な念が宿っていた。
自分が泥水をすすっていた時に差し伸べてくれた手を、自分が強くなったからといって無慈悲に切り捨てるなら、それは帝国のやり方と何も変わらない。
「しかし、あの男は明確な殺気で我々の行く手を阻んでいるぞ! このままではこちらの被害が……」
苛立ちと共に現実的な苦言を呈したのは、漆黒の魔剣を提げたアレスであった。
「アレス殿の仰る通りですぞ、リーフ様」
軍議の幕舎から最前線へと歩み出てきたアウグストが、氷のような声で口を挟んだ。
「将軍の恩義は事実。ですが将軍が我らを倒そうとしているのも事実です。……もっとも、かの御仁は『自らの意志』で我々の前に立ち塞がっているわけではないようですが」
アウグストは、傍らに控えていたラーラに目配せをした。
「……さっき、敵地に探りを入れてたパーンたちから報告があったの。ハンニバル将軍の養子であるシャルローっていう小さな男の子が、トラバントの命によってルテキアって城の地下牢に軟禁されてるって」
「人質、というわけか……!」
アレスがギリッと奥歯を噛み締める。
「ええ。孤児たちを愛するあの男にとって、養子を盾に取られれば、意に反して我々に槍を向けるほかに道はない。……あの盾を殺せば、間違いなくトラキアの民は永遠に殿下を恨むでしょうな。統一の象徴たる王ではなく、ただの『侵略者』に成り下がる」
アウグストの冷徹な分析が、雨音の中に重く響いた。
「……アウグスト。ルテキア城への別働隊は出せるか」
リーフは、雨に濡れた光の剣を強く握り直した。
「正面の盾(ハンニバル)を殺さずに戦線を維持したまま、背後のルテキア城を電撃的に落とし、シャルローを救出する。……無茶なのは分かっている。だが、僕たちに恩義を与えてくれた者を平然と踏み躙って玉座に座れるほど、僕は面の皮の厚い男じゃない!」
それは軍略の定石を外れた、リーフという少年の『意地』であり、血を伴う強烈なエゴであった。
「……やれやれ。リーフ王子の無茶にはもう慣れたつもりでいましたが……死ぬ気で盾の猛攻を凌ぎ、その間に背後を突く。極めて困難な作戦になりますぞ」
「……ああ。だからこそ、その最も過酷な役目は、僕たちが引き受ける」
リーフは、雨に濡れた光の剣を真っ直ぐに構え直した。
「リーフ王子……」
「セリス様…裏から回った『彼ら』が、シャルローを救い出してくれるまで……僕たちマギ団とレンスター軍が共に盾となり、あの猛攻を絶対に耐え抜く所存です!」
セリスは、軍略の定石を外れたリーフの無茶な決断、そして己の信念と恩義を絶対に曲げない若き王に対する、深い感嘆と信頼の思いを抱いた。
***
リーフの悲壮な決意と共に、トラキア軍の激突が始まった。 だが、それは「戦い」と呼ぶにはあまりにも凄惨な、血反吐を吐くような泥仕合であった。敵の急所を避けて攻撃をいなし、防戦に徹する解放軍の兵士たちは、次々とトラキア兵の容赦ない刃に傷つき、泥水の中へ倒れ込んでいく。
「くっそォ! 思いっきり『プージ』で叩き割れねえってのは、こんなに息が詰まるもんかよ!」
最前線で、オーシンが血走った目で敵の重装兵の斧を弾き返し、泥水に足を取られながら悪態をつく。
「文句を言わないのオーシン! リーフ王子が無駄な血を流すなと仰ったのよ!」
その死角を突こうとしたトラキア兵の槍を、マチュアの剣が紙一重でいなす。彼女もまた、殺さずに敵を無力化する極限の剣技に息を上げ、額から脂汗を流していた。
リーフもまた、足元を泥に取られながら、ハンニバルの放つ重い一撃を必死に剣で受け止めていた。手首の骨が軋み、口の中に血の味が広がる。
(耐えろ……! ここで僕が崩れれば、すべてが終わる……ッ!)
「王の理想」のために味方を犠牲にし、自らも死の淵に立たされる。これこそが、リーフが選んだ『泥の道』であった。
***
その激戦の裏側。 カパトギアから南西に離れた、断崖絶壁に建つ『ルテキア城』。 トラバント王の腹心ディスラーが統治し、シャルローが幽閉されているこの城の城壁を、雨に紛れて音もなく這い登る影があった。
パーン、リフィス、ティナ、ラーラ、パティ。 解放軍が誇る、裏社会の生存者(プロフェッショナル)たちである。
「……いいか、お前ら。表じゃ王子様たちが、俺たちのために泥まみれになって殴られ続けてるんだ。……しくじったら、全員まとめて串刺しだぞ」
城内の暗がりで、パーンが短剣の刃を黒く塗りつぶしながら、冷酷な声で仲間に告げた。
「や、やっぱり俺は外で見張りを……」
リフィスはこっそりと後退りしていくが、その背中をティナの杖がコツンと突いた。
「駄目よ、リフィス。……お姉ちゃん(サフィ)が言ってたよ。『リフィスさんなら、きっと立派に子供を助け出してくれます』って」
「うぐっ……あ、あのサフィさんが、俺をそんなに高く……!」
リフィスは絶対に裏切れないサフィの言葉に縛られ、腹を括って鍵開けの道具を握り直した。
「ラーラ、見張りはどう?」
パティが壁越しに囁く。元ダンサーで身軽なラーラが、天井の梁から音もなく降りてきた。
「牢屋の前に重装兵が二人。……パティ、いける?」
「ええ。ティナ、あの嫌な奴(ディスラー)の部屋の鍵を魔法でこじ開けて。その隙に、私とパーンで兵士の喉を掻っ切るわ」
一切の無駄を省いた、冷徹な連携。 ティナが『アンロックの杖』を振り、城主ディスラーの寝室の重い扉を遠隔で弾き飛ばした。
「な、なんだ!? 侵入者か!?」
ディスラーと護衛の兵士たちがパニックに陥り、牢屋の前から注意が逸れた、まさにその瞬間。
「……お休み」
パティとパーンの刃が、闇の中から音もなく重装兵の首筋に深々と食い込んだ。 血の音すら立てさせずに崩れ落ちる巨体。 その隙に、リフィスが震える手で――しかし、裏社会で培った神業的な速度で――牢屋の複雑な鍵を解除した。
「開いた! 坊主、こっちだ!」
「……あなたたちは?」
暗い牢の中から、怯えた顔の幼い少年・シャルローが顔を出す。
「……お前の親父さんを助けに来た、ただの泥棒だよ」
パーンがニヤリと笑い、シャルローの口を塞いで小脇に抱え上げた。
「ずらかるぞ! 表で死にかけてる王子様たちに、良い知らせを届けてやれ!」
***
そして、再びカパトギア城の最前線。
「……はぁっ、はぁっ……!」
リーフ達は、すでに立っているのが不思議なほどに限界を迎えていた。 防戦一方の作戦は、彼らの体力を極限まで削り尽くし、陣形は今にも崩壊しようとしていた。
「もう限界だ! 降伏せよ、反乱軍!」
ハンニバルが、血の涙を流すような悲壮な決意と共に、最後の一撃を振り下ろそうとした、その時。
「待って!! 父上!! 僕ならここだよ!!」
戦場の怒号を切り裂いて、澄んだ少年の声が響き渡った。
「……シャ、シャルロー!?」
ハンニバルが驚愕に目を見開く。 視線の先、泥だらけの崖の上で、パーンに抱えられたシャルローが無事に手を振っていた。
「……救出、成功ですな。裏の連中も、良い仕事をします」
アウグストが、眼を細めて微かに口角を上げる。
「父上! この人たちは、僕をディスラーから助け出してくれたんだ! だから、もう戦わないで!!」
シャルローの叫びが、戦場に静寂をもたらした。
ハンニバルは、その手に握っていた重い槍を取り落とし、泥水の中に両膝をついた。
「……おお……シャルロー……! 無事であったか……!!」
トラキア最強の盾を動かしていた「鎖」が、完全に砕け散った瞬間であった。
「……リーフ王子。そしてセリス公子よ」
ハンニバルは、這いつくばるようにして二人の前に頭を垂れた。
「私の目は、完全に曇っていた。トラキアの未来を託すべきは、力と恐怖で支配するトラバント王ではなく……自らの血を流してまで、敵将の命と家族を守り抜こうとした、あなた方のような『真の王』であったというのに」
「……頭を上げてください、ハンニバル将軍」
リーフは、傷ついた腕を必死に持ち上げ、光の剣を鞘に収めた。
「あなたがいなければ、トラキアの民は本当に飢え死にしていました。……どうか、僕たちに力を貸してください。共に、誰も泣かないトラキアを作るために」
「……ははぁっ!! この命に代えましても!!」
極限の忍耐と、泥臭い裏工作の末にもたらされた、大将軍ハンニバルの降伏。 それは、トラキア城への最後にして最大の扉が、完全に開かれたことを意味していた。