異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第6話

数日後。

シレジアの雪原を抜け、荒涼とした国境の平野を東のイザークへと向かうレヴィン一行は、身を隠すように冷たい泉のほとりで足を止めていた。

 

「……おい、お前たち。そこで何をしている」

 

澄んだ、しかしひどく刺々しい少年の声が響いた。

泉の対岸に立っていたのは、十歳ほどの少年だった。擦り切れた外套を羽織ってはいるものの、その隙間から覗く上質な衣服の仕立てと、何より周囲の空気を微かに陽炎のように歪ませる「異常な熱量の魔力」が、彼がただの平民ではないことを示している。

極秘の護送中、護衛の目を盗んで泉に降りてきたサイアスであった。

 

少年の双眸は、泥に塗れたレヴィンの一行を鋭く、そして明確な【嫌悪】を込めて睨みつけていた。

ボロボロの外套を被るレヴィンの両脇には、薄布の衣装を纏い熱で頬を紅潮させたシルヴィアと、明らかに身重でありながら彼の世話を焼くフュリーが寄り添っている。

 

「……みっともない。一人の男が二人の女を侍らせて、しかも一人は身重なのに、こんな泥だらけの荒野を引きずり回しているのか」

 

サイアスの声は怒りに震えていた。

愛人という日陰の身に置かれ、表舞台に出ることも許されず、夜な夜な息を殺して泣いていた母アイーダの姿。少年の目に映るレヴィンは、母を絶望の底に縛り付けた「無責任な男(父親)」の姿と完全に重なっていた。

 

「奥さんがいるのに、別の女の人にまで子供を産ませて……! 僕のお母様も、そういう男のせいでずっと暗闇で苦しんでいる! あなたみたいな男がいるから……ッ!」

 

刺すような少年の糾弾。

フュリーが咄嗟にレヴィンを庇うように前に出ようとしたが、レヴィンはそれを無言で手で制した。

彼は、少年の赤い髪と、その奥から滲み出る圧倒的な『炎の気配』を静かに見つめ、ひどく重い、血の味がするような息を吐き出した。

 

「……そうだな。お前の言う通りだ」

「え……」

「俺は、本当に守らなきゃならねえものを守れなかった。この女たちを泥水の中に引き摺り込んで、毎日命の危険に晒しながら、俺の都合でしがみつかせている。……最低のクズ野郎に見えるなら、お前のその目は正しい」

 

言い訳など一切ない。ただ、過酷な逃避行の中で削り取られた男の、血の滲むような事実の肯定だけがあった。

シルヴィアがレヴィンの冷え切った手を両手で強く包み込み、フュリーが静かに首を振る。彼女たちの間に悲壮感はない。あるのは、この男と共に泥を這うことを自ら選んだ、息苦しいほどの『共犯関係(愛)』だけだ。

 

「あの……」

サイアスが、彼らの間に流れる異様なほどの強靭な連帯感に気圧され、言葉を失った時だった。

 

「へっ。坊主、あんまりこのおっさんを虐めてやんな」

 

泉の茂みから、血の匂いを染み込ませた短剣で爪の泥を掻き出しながら、デューが音もなく姿を現した。

かつてのお調子者の面影はない。その瞳は、愛する女を失いながらも他人の子供を背負って死線を越えてきた、本物の生存者のそれだった。

 

「大人の世界ってのはな、坊主の頭ん中みたいに綺麗に白と黒で分かれてねえんだよ。……お前の母ちゃんがどんな暗闇で泣いてるかは知らねえ。だがな」

デューは、短剣の切っ先をスッとサイアスに向けた。

「母ちゃんが本当に呪ってんのは、その相手の『男』か? ……それとも、息を潜めて生きなきゃならねえ、この狂った『世界』のほうか?」

 

「……っ!」

 

デューの冷徹な観察眼から放たれた言葉が、サイアスの胸を鋭く抉った。

アイーダが時折見せていた、遠くを見るような悲哀と、どうしようもない慕情が入り混じった眼差し。男を憎んでいるのではなく、運命という檻の中で身動きが取れなくなっていた母の『本当の絶望』の輪郭に、少年は初めて触れた。

 

「……ごめんなさい。僕、何も知らないのに……っ」

 

サイアスは、ひきつるような声で謝絶すると、背後の林から護衛の呼ぶ声が響いたのに弾かれ、逃げるように走り去っていった。

その後ろ姿を、レヴィンは冷たい泉の水を掬いながら、静かに見送った。

 

(……あの赤い髪と、異常な熱量。まさかな……)

レヴィンは、かつて王都で見た炎の魔道士アゼルの顔と、そしてこの世界を地獄に突き落とした男の顔を、泥水の中に重ね合わせていた。

 

***

 

数日後。

グランベル帝国、王都バーハラ。

豪奢な皇帝の執務室の重い扉が、鈍い音を立てて開かれた。

 

「陛下! 申し訳ありません、お止めしたのですが……!」

 

衛兵の静止を振り切り、執務室の中央へと踏み込んできたのは、サイアスだった。その後方には、血の気を失ったアイーダと、ヴェルトマーの重鎮コーエン伯爵が立ちすくんでいる。

 

「サイアス……! お前、なんということを……!」

 

アイーダが悲鳴のような声を上げ、息子の肩を掴んで引き戻そうとする。だが、サイアスはそれを振り払い、玉座に座るアルヴィスを真っ直ぐに見据えた。

少年の全身から、玉座の間の空気を焦がすほどの強烈な『熱』が放たれている。それは間違いなく、赤子である正統な皇太子ユリウスすらも凌駕する、圧倒的な『ファラの聖痕』の脈動であった。

 

「あなたが、皇帝アルヴィス……僕の、本当のお父様ですね」

 

隠し子であるサイアスの、自らの意志での表舞台への登場。

それは、アルヴィスが緻密に組み上げていた盤面を根底から揺るがす、致命的な変数だった。

 

「誰に聞いた、サイアス」

アルヴィスの声は、氷のように冷たく、一切の感情を排していた。

 

「誰にも聞いていません。ただ、僕はもう、逃げて隠れるのは嫌なんです! お母様を……アイーダ将軍を、これ以上暗闇で泣かせたくない! 僕は、ヴェルトマーの血に恥じぬ働きを……!」

 

「黙りなさいッ!!」

乾いた音が響き、アイーダの平手がサイアスの頬を激しく打ち据えた。

 

「……お前が表に出れば、マンフロイが……あのロプトの狂信者たちが、お前のその力をどう扱うか……! なぜ、血を吐くような母の願いが分からないのです!」

 

アイーダの絶望的な叫びが、重苦しい執務室に吸い込まれていく。

アルヴィスは玉座からゆっくりと立ち上がり、ステンドグラス越しの曇り空を見つめた。

サイアスの存在を公式には認められない。だが、この異常なまでの才覚とファラの力をただの隠し子として腐らせるには、あまりにも惜しい。何より、ロプト教団の専横が目立ち始めた今、ヴェルトマー家の純粋な手駒として、彼を手元に置く価値はある。

 

「……コーエン」

「はっ」

「サイアスの存在を、公式には認めぬ。だが……ヴェルトマーの分家として、軍の指揮権の一部を与えよ。アイーダ、お前は引き続きサイアスの監視を怠るな。マンフロイの目が届かぬよう、ヴェルトマーの総力を挙げてこの子を盤面の裏に隠し通せ」

 

「陛下……!」

 

それは、父親としての愛情ではなく、冷酷な統治者としての、ロプト教団に対する『防波堤(手駒)の配置』であった。

 

時を同じくして。

帝都バーハラ、フリージ家陣邸。

 

「ブルーム、聞いたかい?」

 

豪奢な長椅子に深く身を沈めたヒルダが、血のように赤いワイングラスを揺らしながら、ねっとりとした声で夫に語りかけた。

 

「陛下に『ファラの血を色濃く引くご落胤』が現れたそうじゃないか。しかも、あのアイーダのガキだっていうから、傑作だねぇ」

 

ブルームは腕組みをして、渋面を作った。

 

「うむ。まだ公式な発表はないが、宮廷の裏はその噂でもちきりだ。……しかし、それがどうした。我々フリージ家は、正当な皇太子ユリウス殿下に我が娘イシュタルを近づけ、帝室の藩屏として確固たる地位を築く。その方針に変わりはない」

「アンタは本当に、見通しが甘い男だねぇ」

 

ヒルダは鼻で笑い、ワイングラスを大理石のテーブルに音を立てて置いた。

 

「いいかい、ブルーム。今の皇太子(ユリウス)が、本当に次代の皇帝として玉座に座り続けられるか……分からなくなってきたって言ってんのさ。もしあの赤ん坊にヘイムの聖痕が出なくて、あのサイアスとやらがファラの力を背景にのし上がってきたら、どうするつもりだい?」

 

「それは……」

 

「しばらく様子を見ることにしよう。フリージの至宝(イシュタル)を、沈むかもしれない泥船に急いで乗せる必要はないからねぇ」

ヒルダの冷酷な瞳が、暗い権力欲に歪む。

 

「勝つのがユリウスか、サイアスか……。盤面がはっきり見えるまで、一番の切り札(娘)は大事に手元に置いて、出し惜しみすることにしよう。……フリージ家が最も甘い汁を吸える、その時までねぇ」

 

娘の人生や愛情すらも、ただの「最も価値の高いチップ」として盤上に留め置く冷血な打算。

この強欲な政治的判断により、幼きイシュタルが、後の運命の相手となる皇太子ユリウスと出会う時期は、大幅に遅れることとなるのであった。

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