大将軍ハンニバルが守るカパトギア城が、一滴の血も流さずに無血開城したという報せは、南のトラキア本城に直ちに届けられた。 玉座でその報告を受けたトラキア王トラバントは、驚くことも怒ることもなく、ただ静かに天井を仰ぎ見た。
「……そうか。あのハンニバルが、剣を置いたか」
トラバントの呟きには、長年トラキアを支え続けた老将への労いと、己の覇道がここで完全に潰えたことへの冷徹な理解があった。
「父上! グルティア城の防衛線を厚くし、このトラキア城で籠城すれば、まだ勝機はあります!」
傍らに控えていた竜騎士、王子アリオーンが悲痛な声で進言する。 だが、トラバントはゆっくりと首を横に振った。
「アリオーンよ。籠城戦などすれば、民の食料がさらに枯渇するだけだ。それに……北の若獅子たちは、もはや私が力で押さえつけられるような小石ではない。ハンニバルを説服したその『器』……私が最も恐れていたものが、ついに完成してしまったのだ」
トラバントは玉座から立ち上がり、トラバントは玉座から立ち上がり、天槍『グングニル』を息子に押しつけた。
「私は、これより竜騎士団を率いて出撃する。お前はこの城に残り、トラキアの未来を守れ」
「父上! なぜですか! 私も共に……!」
「ならん!!」
トラバントの凄まじい覇気に、アリオーンは思わず息を呑んだ。
「……私のやり方は、北の豊かな大地を奪い、血で血を洗う怨念の連鎖しか生まなかった。私が生きている限り、トラキアが北の諸国と和解する道は永遠に閉ざされる。……泥と呪いは、私一人がすべて被ってあの世へ持っていく。お前は生き残り、新しい時代を築け」
それは、独裁者として手を汚し続けた王の、我が子と国に対する深い愛情の吐露であった。 トラバントは、絶句するアリオーンを背に、振り返ることなく玉座の間を歩み去っていった。
数刻後。 カパトギアを抜け、トラキア山脈の盆地へと進軍していた解放軍の頭上に、空を覆い尽くすほどの巨大な暗雲が立ち込めた。
「……来たぞ。トラキアの竜騎士団……本隊だ!」
セリスが銀の剣を引き抜き、上空を睨みつける。 暗雲を裂き、先頭を切って急降下してくる巨大な飛竜。その背には、銀の槍を構えたトラキア王・トラバントの姿があった。
「トラバント王……!!」
リーフの瞳に、光の剣を握る手に、凄まじい力がこもる。 愛する父キュアンと母エスリンを惨殺し、姉アルテナを奪った仇。だが、同時にこの男は、飢えたトラキアの民を救うために誰よりも血反吐を吐いてきた、もう一人の『王』なのだ。
「よくぞここまで来た、レンスターの小倅! そして光の皇子よ!」
トラバントの咆哮が、雷鳴のように盆地に響き渡る。
「私が生きている限り、トラキアの牙は決してお前たちを許さん! 民を食わせるためならば、私は何度でも悪鬼になろう! 」
上空からのトラバントの突撃。それは、戦術も駆け引きも超越した、王の魂そのものを叩きつけるような凄絶な質量を持っていた。
「……痛いほど、分かります」
リーフは、泥に塗れた足で大地を強く踏みしめ、光の剣を正眼に構えた。
「あなたの民を想う心は本物だ。……でも、他者の血と涙の上に築かれた豊かさは、必ず次の復讐を生む。あなたのやり方では、トラキアの血塗られた歴史は永遠に終わらない!」
「青臭い理想だな! ならば、その理想が私の槍を砕けるか、試してみせよ!!」
激突。 銀の槍の刺突が、リーフの光の剣をかすめ、彼の肩の甲冑を砕き割る。
「くっ……あぁっ!」
鮮血が舞い、リーフが泥水に膝をつきそうになる。その圧倒的な重さは、トラバントが背負ってきたトラキア数万人の民の『飢えと呪い』そのものであった。
「どうした、王子! 貴様の理想はその程度か!!」
トラバントが飛竜を反転させ、トドメの一撃を振り下ろそうとした、その刹那。 リーフの背後から、大地の剣のオーラと、セリスの銀の剣が同時に閃き、トラバントの槍の軌道を強引に弾き逸らした。
「リーフ様! 前を!!」
ナンナの悲痛な叫び声に、リーフは己のすべての業を込めて、渾身の力で大地を蹴った。
「覚悟ッ!!」
リーフの放った光の剣が、トラバントの胸当てを貫き、その心臓を深々と刺し貫いた。
「が、はっ……!」
トラバントの巨体が、飛竜の背からズルリと滑り落ち、重い音を立てて泥の地面に叩きつけられた。
「……見事だ、リーフ……王子……。私の、負けだ……」
トラバントは口から大量の血を吐き出しながら、貫かれた自らの胸を見下ろし、ひどく満足げな、王としての微かな笑みを浮かべた。
「お前は……私のやり方を、否定したな。……ならば、お前のその『理想』で……トラキアの民に、腹一杯の麦を……食わせてやって、くれ……」
トラキア半島を血に染めた覇王トラバントは、最期まで己の民の腹を案じながら、息絶えた。 親の仇を討った。だが、リーフの胸にあるのはカタルシスではない。両肩にのしかかる、トラキア全土の民の命という『途方もない重圧』だけであった。
「……リーフ、様」
立ち尽くすリーフの傍らに、ナンナが静かに寄り添い、泥と血に塗れた彼の腕にそっと両手を添えた。
「これで、あなたは本当の意味で『王』になられたのですね。トラキアのすべての泥を、あなたが背負うのですね」
ナンナの瞳の奥で、暗く、狂おしいほどの甘い愛着の炎が揺らめいていた。
***
トラバントの討死により、指揮系統を失ったトラキア竜騎士団は完全に瓦解した。 解放軍はそのまま南下を続け、ルテキア城を制圧。トラキア本城の手前にある最後の砦『グルティア城』へと迫った。
「……トラバント王が討たれただと!? 馬鹿な、あの最強の竜騎士団が……!ええい、本国の援軍はまだ来ないのか!?」
グルティア城のジュダは、信じられない報告にパニックを起こし、城の防衛は瞬く間に崩壊していった。 戦意を失った残存兵たちを無慈悲に掃討し、解放軍はわずか半日でグルティア城を制圧。いよいよ、トラキア半島の終着点であるトラキア王都が、彼らの目の前にその巨大な城門を晒した。
「……父上が、死んだ……」
トラキア城の玉座で、逃げ帰ってきた兵士から報告を受けたアリオーンは、天槍グングニルを握りしめたまま、彫像のように固まっていた。 トラキアの誇り、そして未来。父が遺したあまりにも重い呪いを前に、若き竜騎士は最後の決断を迫られていた。