トラキア王国の終着点、トラキア城。 その最も奥深く、冷たい石造りの玉座の間は、死のような静寂に包まれていた。
「……反乱軍が、グルティア城を突破しました。もはや、防衛線は維持できません」
血塗れの伝令が絶え絶えに報告する中、玉座の前に立つ竜騎士アリオーンは、父トラバントから押し付けられた天槍グングニルを強く握りしめたまま、彫像のように動かなかった。
(……トラキアは、終わるのか。父上がすべてを懸け、泥を啜ってまで守ろうとしたこの国が)
アリオーンの瞳には、死への恐怖はない。あるのは、為す術もなく国が滅びゆくことへの底知れぬ絶望と、王族としての強烈な虚無感であった。
「……全竜騎士に乗騎を命じよ」
沈黙を破ったアリオーンの声は、感情の死滅した、ひどく虚ろなものであった。
「これより我が軍は『三頭の竜』の陣形を展開し、全軍をもって反乱軍の本隊へ突撃する。父上の仇を討ち、我らの死をもってトラキアの誇りを歴史に刻むのだ」
それは、戦術ではなく単なる『玉砕』の命令であった。
「お待ちください、アリオーン様!!」
その悲壮な命令を、血相を変えて遮ったのは、トラキア竜騎士団の将ディーンと、その妹エダであった。
「誇りのために全軍で死に急ぐなど、狂気の沙汰です! トラバント王の悲願は『民を飢えから救う』ことであったはず。王家がここで全滅し、トラキアの竜騎士がすべて死に絶えれば、一体誰がこの痩せた大地の民を導くというのですか!」
ディーンが床に膝を打ちつけ、血を吐くような声で諫言する。
「兄上の言う通りです!」
エダもまた、涙ながらに兄の隣にひれ伏した。
「ここで死んで逃げるのは、トラバント王の遺志への最大の裏切りです。どうか、どうか生きてください!」
「黙れッ!!」
アリオーンの激怒の咆哮が、玉座の間に響き渡る。
「誇りを捨て、父上を殺した北の侵略者どもに頭を垂れ、泥水を啜って生き延びろと言うのか! それがトラキアの……王族の遺すべき道だと……ッ!」
グングニルを構えるアリオーンの腕は、怒りと、どうしようもない絶望で激しく震えていた。
「ええ。泥水を啜ってでも生き延びるのが、為政者の為すべきことですわ」
開け放たれた玉座の間の巨大な扉から、毅然とした声が響いた。 軍勢を城外に留め、わずかな護衛と使者のみを連れて玉座の間へと足を踏み入れたリーフ一行である。
声の主は、ターラ領主リノアンであった。 彼女は、かつて自らの街を包囲した敵将を真っ直ぐに見据え、一歩前に出た。
「アリオーン様。……かつてターラが包囲された際、あなたは無駄な血を流さないよう、私に降伏を勧告してくださいましたね。あの時、あなたは確かにターラの民の命を案じておられた。……その優しさを持つあなたが、ご自身の民を捨てて、誇りという名の死に逃げようとなさるのですか」
「リノアン殿……。だが、もはや退路はないのだ」
アリオーンの顔が苦痛に歪む。そこに、アルテナが悲痛な面持ちで歩み寄り、膝をついた。
「兄上……お願いです、槍を下ろしてください! 私が父上を裏切った罪は、どんな裁きでも受けます。でも、兄上が死ぬ必要なんてありません!」
「アルテナ……お前は……」
アリオーンが義妹の涙に言葉を詰まらせた、その時。
「……逃げないでよ、卑怯者」
冷たく、刃のように鋭い声が玉座の間に響いた。 リーフの背後から歩み出たのは、かつて祖国アルスターを奪われ、すべてを失った亡国の王女・ミランダであった。 彼女の燃えるような瞳が、アリオーンの絶望を容赦なく射抜く。
「誇りのために死ぬ? 笑わせないで。あなたはただ、国を失い、親を殺されたこの『痛くて惨めな絶望』から、一秒でも早く逃げ出して楽になりたいだけでしょ?」
「……なんだと?」
「私には分かるわ。ずっとその絶望の中で、息もできずに狂いそうになっていたから!」
ミランダは、ドレスの胸元を強く握り締め、背後のリーフを庇うように立ち塞がった。
「でもね、リーフ様は私のその泥のような絶望から目を逸らさず、全部一緒に背負ってくれたの! そして今、あなたの父親の業まで背負って、血反吐を吐きながらそこに立っているわ!」
ミランダの言葉は、綺麗事などではない。国を失い、誇りを砕かれ、それでも一人の男にすがって生き延びる道を選んだ女としての、生々しく重い『覚悟の咆哮』であった。
「あなたがここで死んで逃げるなら……トラバント王が託した願いすらも無駄にする、ただの愚か者よ!!」
その言葉は、アリオーンの胸を物理的な刃よりも深く抉った。
(父上の願いを、私が……無駄にする……?)
「……それに、死ぬのなんて簡単すぎてつまらないわ」
さらに、ミランダの影からふわりと姿を現したサラが、玉座に近づきながら無邪気に首を傾げた。
「死んじゃったら、全部終わり。真っ白な灰になるだけ。……そんなのより、この泥だらけの彼(リーフ)の隣で、一緒に真っ黒になって苦しみながら生き続ける方が……ずっと綺麗で、楽しいのに。あなたも、こっちの『泥の中』においでよ」
マンフロイの血脈でもあるサラの死生観。それは「生への執着」を、最も退廃的で肯定的な形で突きつける、魔女の囁きであった。
「……アリオーン王子」
リーフが、静かに、だが決して退かぬ王としての歩みで玉座の前に進み出た。
「あなたの父上は、僕の理想でトラキアの民に麦を食わせろと仰った。……でも、僕一人ではトラキアのすべては救えない。あなたが必要だ、アリオーン。どうか……僕と一緒に、誰も泣かないトラキアを作るために、生きて泥を被ってほしい」
玉座の間に、重く、息の詰まるような沈黙が降りた。 アリオーンの脳裏に、ディーンとエダの涙が、リノアンの毅然とした眼差しが、アルテナの悲痛な声が、そしてミランダとサラが突きつけた「生きて泥を啜る覚悟」が、そして何より、リーフの泥だらけの王としての器が、渦巻くように駆け巡る。
「…………ッ!!」
アリオーンは、天槍グングニルを床に叩き落とし、静かに慟哭した。 それは、トラキアの竜騎士としての誇りが完全に砕け散り、トラバントの遺志とトラキアの民の命を背負う、一人の『人間』として生まれ落ちた瞬間の産声であった。
トラキア暦777年。 無敵を誇ったトラキア王国は、三頭の竜作戦という戦術を取ることなく、アリオーン王子の決断により、リーフ王子との全面的な休戦条約を締結した。 トラキア半島を二分した血みどろの歴史は、ここに、泥まみれの和解という形で劇的な終焉を迎えたのである。