トラキア王トラバントの絶命から数時間後。 血の匂いが立ち込めるトラキア城の円卓において、ユグドラル大陸南半分の歴史を決定づける、極めて現実的で冷徹な交渉劇が幕を開けた。
円卓の片側には、泥と返り血に塗れたリーフとセリス、そして冷徹な眼差しを崩さない軍師アウグスト。 対する側には、父から押しつけられたトラキアの未来をその双肩に背負い、死に場所を失った若き竜騎士アリオーンが、ディーンとエダを従えて重い沈黙の中に座していた。
「……此度の休戦条約、および今後の『対等なる同盟』に関する具体的な要項です」
アウグストが、羊皮紙をアリオーンの前に滑らせる。 そこには、勝者が敗者に強要するような屈辱的な隷属条件は一切書かれていなかった。
第一に、北トラキア(レンスター、マンスター方面)と南トラキア間の国境封鎖の即時解除。 第二に、解放軍が確保した北部穀倉地帯からの、南トラキアへの無条件かつ大規模な『食糧援助』の即時実行。 第三に、関税の撤廃と、南北間の対等で公平な経済協定の締結。 そして第四に、共通の敵であるグランベル帝国を打倒するための『攻守同盟』の成立である。
「……アウグスト殿。これは……」
アリオーンは、羊皮紙に書かれた条項に目を落とし、微かに声を震わせた。
「我らトラキアは、豊かな北の大地を蹂躙し、数多の血を流させた侵略者だ。……なぜ、敗者である我々に、これほどまでの譲歩と援助を約束するのだ」
「譲歩ではありません。これは『投資』であり、『清算』です」
アウグストは冷たく言い放つ。
「トラバント王が為した虐殺は決して許されるものではありません。しかし、彼をそうさせた根本の理由は、北の諸国がトラキアを貧困のまま見捨て、封じ込めてきたからです。……この恨みの連鎖を断ち切るには、トラキアの民の腹を満たし、剣ではなく鍬を握らせるしかない。リーフ王子は、そのすべての責任を背負うと決断されたのです」
リーフは、包帯が巻かれた痛む腕を卓の上に置き、アリオーンを真っ直ぐに見据えた。
「あなたの父上が流した血も、僕がトラキア兵を殺して進んだ罪も、決して消えはしない。……だからこそ、僕たちはこの血みどろの卓の上で、誰も飢えない明日を作らなければならない。アリオーン王子、あなたの力が必要です」
「……リーフ王子」
アリオーンは、かつての敵将の、あまりにも壮絶な『王の器』を前に、深く目を閉じた。 誇りのために死ぬことは容易い。だが、父の遺志を継ぎ、かつての敵から差し出された麦を啜ってでも民を生かすこと。それこそが、トラキアの真の王に課せられた責務なのだ。
「……承知した。トラキア王国は、この条約に署名する」
アリオーンの羽ペンが羊皮紙に走る。 それは、トラキア半島を長年血で染め上げてきた憎悪の歴史が、妥協と相互理解によって、ついに幕を下ろした瞬間であった。
一方、重苦しい交渉が続く玉座の間から離れた城の中庭。 そこでは、生き残った両軍の兵士たちが、互いの傷を庇い合いながら短い休息を取っていた。
「お互いに酷い有様ですね。フィン殿」
シグルドの代から戦い抜いてきた歴戦の騎士オイフェが、水筒を差し出しながら声をかけた。 受け取ったのは、レンスターの忠臣フィンである。光り輝くセリス軍の装備に比べ、フィンの甲冑は敵の返り血と泥で本来の色すら分からないほどに変色していた。
「ええ。ですが……生き延びました。我々も、そしてリーフ様も」
フィンは水筒の水をあおり、ひどく疲れた顔に、ほんのわずかな安堵の笑みを浮かべた。
「セリス様たち北の英雄の支えがなければ、我々はトラキアの泥の中で朽ち果てていたでしょう」
「何をおっしゃる。補給もない極限の状態で、たった一軍で半島を駆け抜け、この帝国最強の防衛線を内側から崩壊させたのは、間違いなくあなた方の血と執念です。……我々の方こそ、あなた方に敬意を表したい」
オイフェとフィン。世代を超えて苦難を背負ってきた騎士同士の間に、言葉以上の重い連帯感が交わされていた。
その少し離れた石段の影。
「……おい。そこ、もうちょっと優しく巻けねえのか」
オーシンが、プージを傍らに置きながら、包帯を巻くマチュアに向かって悪態をついた。彼の体には、重装兵から受けた無数の打撲と切り傷が刻まれている。
「文句を言わないの。傷が塞がらないまま死なれたら、私の背中を守る盾がいなくなって困るのよ」
マチュアは冷たく言い放ちながらも、その手つきは素早く、そしてオーシンの痛みを正確に把握した的確なものであった。
「へっ……誰が盾だ。お前こそ、無理して前に出すぎる癖を直せよ。俺がいなけりゃ、今頃三回は首が飛んでただろうが」
「あら、誰の斧の死角をカバーしてあげてると思ってるの?」
憎まれ口を叩き合いながらも、二人の間にある距離は極めて近い。それは、甘い言葉や口付けなどよりも遥かに強靭な、死線において互いの命を預け合い、その生存を誰よりも渇望する『戦場の絆』であった。
そして、野戦病院として使われている礼拝堂の奥。 フォルセティの絶大な魔力を解放し、極度の疲労で昏々と眠っていたコープルが、重い目蓋を開けた。
「……目が覚めましたか、コープル様」
彼の視界に飛び込んできたのは、純白のローブを纏ったユリアの姿であった。 彼女の聖なる光が、コープルのすり減った魔力回路をゆっくりと温め、修復していく。
「ユリア……。君が、ずっと治療してくれていたの?」
「はい」
ユリアは、自分の白い手がコープルの泥と血に汚れた服に触れることを、一切ためらわなかった。
「……僕は、たくさんの人を殺した。トラキアの兵を、風でバラバラに引き裂いた」
コープルは、自らの血塗られた両手を見つめ、ひどく暗い声で呟いた。
「君のような綺麗な光を持つ人が、僕みたいな『人殺しの泥』に触れちゃいけない」
「……泥でも、血でも、構いません」
ユリアは、コープルの震える両手を、自らの両手でしっかりと包み込んだ。
「サラに言われました。私の光が、泥の中で必死に生きている人を傷つける暴力になることもあると。……でも、私は決めました」
ユリアの瞳には、かつての無自覚な純粋さとは違う、この世界の絶望(業)を理解した上での、凄絶なまでの『聖女の覚悟』が宿っていた。
「あなたがどれほど泥に塗れても、どれほど業を背負っても。……私はこの光で、あなたのその泥ごと、すべてを照らして抱きしめます。絶対に、あなたの傍を離れません」
コープルの瞳が、驚きに見開かれる。 その神聖でありながら、退路を断った重い愛情の宣言は、礼拝堂の入り口で息を潜めていた三人の少女たちにも、はっきりと届いていた。
「……っ!」
タニアは、ユリアが放つその圧倒的で絶対的な『光』を前に、己の居場所が根底から揺らぐのを感じ、激しく動揺して後ずさった。自分には、あの少女のようにすべてを包み込むことなどできないという、圧倒的な格の違いに対する焦燥感。
マリータは言葉を一切発さず、ただ腰の剣の柄をギリッと握り締め、氷のように冷たく、そして鋭利な視線をユリアの背中へと放っていた。
だが、リノアンの瞳は違った。
彼女は、壁の石柱に爪が白くなるほど指を立て、暗く淀んだ、しかし絶対的な優越感に満ちた瞳でユリアを見下ろしていた。
(泥ごと抱きしめる……? 戯言を。コープル様が流した血の重さとその罪を、本当に『理解』し、共有できるのは……)
――リノアンの脳裏に、凄惨な死の気配が満ちていた数ヶ月前、コノート城の薄暗い執務室で交わした『あの背徳の夜』の記憶が鮮明に蘇る。
***
全軍がマンスターへの遠征の準備に追われ、城内が殺気と喧騒に包まれる中。
冷たい雨だれが窓を打つ執務室で、ターラの領主であるリノアンは、机上の羊皮紙を見つめたまま、凍りついたように動けずにいた。
その羊皮紙は、綺麗に整えられた軍の公文書ではない。泥と雨、そして何より生々しい『血』によって赤黒く汚れ、何千もの歪な署名が書き殴られた、トラキアの民の悲鳴そのものであった。
『我らの光、リノアン公女殿下。どうか、どうか自由を取り戻したターラへご帰還を』
解放軍によるコノート城の快進撃を受け、南のトラバント王は来るべき決戦に備え、ターラを保護(占領)していたアリオーンの竜騎士団を本国へと撤退させた。
最強の『盾』が消え去った空白を突き、再びターラを蹂躙しようと迫った帝国の残党軍。
グレイドたち精鋭の騎士がリーフと共に北へ去り、圧倒的な武力差という絶望の中にあったターラにおいて――残された市民と名もなき自警団たちは、文字通り自らの屍の山を築き、血の海に沈みながらの一斉蜂起を敢行した。幾千もの命という泥臭い代償を支払い、強引に帝国の軍勢を撃退した彼らは、今度こそ他国の庇護に頼らない『完全なる自力での自由都市解放』を成し遂げたのだ。
(……帰らなければ。みんなが、あんなに血を流して……私を、待っている。……私が、彼らを導かなければならないのに)
頭では理解している。気高きターラの領主として、今すぐこの安全な後方(コノート)から西へ戻り、泥に塗れて復興の先頭に立つべきなのだ。
だが、リノアンの指先は、小刻みに、そしてひどく惨めに震え、どうしてもその羊皮紙に触れることができなかった。
(嫌……。帰りたくない……っ!)
ターラへ戻るということは、解放軍の主力と共に、マンスターへ向かう一人の少年と、決定的に離れ離れになることを意味していた。
死地へ赴く彼を一人で見送れば、彼は間違いなく命をすり減らして死ぬ。己の国が焼かれ、誇りも希望も失った絶望の底で、唯一彼女の魂を繋ぎ止めてくれた温かい光(コープル)を手放せば、自分はターラの重圧という暗闇の中で、今度こそ完全に発狂して砕け散ってしまう。
「……リノアン。ここにいたの」
不意に、執務室の重い扉が開き、静かな足音が近づいてきた。
顔を上げたリノアンの瞳が、切なく揺れる。そこに立っていたのは、激しい行軍と治療で極限まで生命力をすり減らし、ひどく青ざめた顔をしたコープルであった。
「コープル様……っ」
リノアンは弾かれたように立ち上がり、彼の元へ歩み寄った。
「うん、少し休んだから。……それより、君の方こそ顔色が悪いよ。その机の手紙は……?」
コープルが気遣わしげに羊皮紙へ手を伸ばそうとした、その瞬間。
「見ないで……っ!!」
リノアンは耐えきれずに、コープルの細い身体にすがりつき、その視線を強引に遮った。
「……っ、コープル様……私を、私を置いていかないで……!」
堰を切ったように、悲痛な嗚咽が溢れ出す。
「ターラに……戻りたくない。領主としての責任を投げ出す、最低な女だと蔑んでくださって構いません。民の血を無駄にする、恐ろしい悪女だと罵って……! でも……あなたがいなければ、私はもう、息の仕方すら分からないのです……っ」
リノアンの震える両腕が、コープルの腰に強く、痛いほどに回される。
それは、気高きターラの公女という仮面が完全に剥がれ落ち、血の滲む嘆願書すらも踏み躙って一人の男にすがりつく、依存の露呈であった。
コープルは、すがりつくリノアンを突き放さなかった。
彼は視線を落とし、机の上の血塗られた嘆願書を静かに見つめた後――確かな力強さで、リノアンの細い肩を抱き寄せた。
「……コープル、様……?」
予想外の強い引き寄せに、リノアンが潤んだ瞳を上げる。
至近距離で交差する視線。コープルの瞳には、かつての年相応の無邪気さはなく、血と泥の戦場を潜り抜けてきた男としての、静かで深く、そして退路を断つような仄暗い熱が宿っていた。
「……ターラには、僕の父さん(レヴィン)にお願いして、セリス軍の文官と物資を向かわせる手筈を整えよう。……君が無理をして、今すぐあの冷たい瓦礫の山に戻る必要はない」
コープルの顔が、リノアンの顔へとゆっくりと近づく。
二人の距離がゼロに近づき、互いの熱を帯びた吐息が、逃げ場のない執務室の空気にねっとりと絡み合った。
「でも……私はターラの……みんなが血を流して……」
「リノアン」
唇が触れ合う寸前の距離で、コープルが低く、囁くように彼女の言葉を遮った。
その瞬間、彼の発する微かな汗の匂い、戦場の血の残り香、そしてブラギの血脈が放つ抗いがたい熱が、リノアンの理性を完全に麻痺させていく。
「君が民の願いを捨てたというのなら、その罪は、ブラギの血を引く僕がすべて背負う。あの手紙の重さは、僕が一緒に持つから。……君は、ただ僕の傍にいればいい」
コープルの手が、リノアンの銀色の髪をそっと撫で、そのまま彼女のうなじへと滑り込む。脈打つ頸動脈の熱を直接感じ取りながら、彼は逃がさないとばかりにその首筋に己の額を押し当てた。
「……あ……っ」
首筋に触れる彼の熱い皮膚と、吐息の震え。服越しに伝わる、彼の心臓の早鐘のような鼓動。
「僕は……君のオーラ(魔法)がないと、あのマンスターの底知れない闇を生き抜ける自信がないんだ。君が必要なんだ、リノアン。……僕のために、一緒に地獄へ来てほしい」
それは、聖職者としての建前を完全に捨て去った、ひどく泥臭く、我儘な『男』としての独占欲の吐露であった。ターラの民には悪いが、彼女の命も魂も、すべて自分がもらうという冷酷なまでの純愛。
(ああ……)
リノアンの背筋を、今までに感じたことのない強烈な甘い痺れが駆け抜けた。
自分が彼を必要としているのではない。彼が、自分を必要だと言ってくれた。ターラの領主としてではなく、一人の女として、彼が自分の罪ごとすべてを飲み込んでくれると。
彼女の胸を苛んでいた領主としての恐ろしい罪悪感は、その言葉と熱によって一瞬にして溶け落ち、後には骨の髄までとろけるような、狂おしいほどの『心酔』だけが残った。
「……はい……っ。コープル様……私の光、私の、すべて……」
リノアンは、完全に彼の熱に身を委ね、雌のように甘く熱を帯びた吐息を漏らしながら、彼の背中に回した腕にさらに力を込めた。
「あなたの地獄の底まで……この命が尽きるまで、共にお供いたします……」
冷たい雨音だけが響く密室で、二人の体温は境界線を失うほどに溶け合っていた。
もはや彼女の魂に、ターラという土地の重さは存在しない。彼女の居場所は、血塗られた嘆願書を捨ててでも手に入れた、この少年の腕の中という『極小の聖域』だけに限定されたのだ。
***
(……そう。あの恐ろしい夜、国を捨てて、あの方と罪を分かち合って泥の底へ堕ちたのは、私だけですわ)
ユリアの「泥ごと抱きしめる」という痛ましいほどの純粋な誓いを見下ろしながら、リノアンの薄い唇の端が、昏く歪な弧を描いた。
ユリアは今、ようやく泥に降りる覚悟を決めたばかりの無垢な少女に過ぎない。自分はすでに、あの方の命と魂の奥底に、自らの罪業(ターラ)という消えない楔を打ち込んでいる。
政治の決着がつき、戦場が静まり返る中で、彼ら彼女らの魂の奥底で渦巻く『愛という名の生存競争』は、誰一人として降りることのないまま、いよいよ最も濃密な深淵へと沈み込もうとしていた。