トラキア王トラバントの死によってもたらされた休戦協定は、大陸南半分の歴史を根底から覆すものであった。
リーフたち解放軍からトラキア王国へ提示されたのは、敗戦国への懲罰や賠償要求ではない。 北トラキア(マンスター地方)の豊かな穀倉地帯から南トラキアへ向けた無条件の大規模食糧援助、関税の即時撤廃、国境の開放、そして共通の敵である帝国を討つための対等な攻守同盟の締結。
数日後。北から山脈を越えて、大量の麦や干し肉を積んだ馬車がトラキア城へと到着した時、死を覚悟していたトラキアの兵士や民衆たちは、泥に塗れた手を震わせ、声を上げて泣き崩れた。 彼らが百年にわたって北の大地を恨み、略奪と殺戮を繰り返してきた根本の呪い(飢え)が、かつての仇敵であったリーフの手によって、いま静かに満たされようとしていたのだ。
その歴史的な救済の裏側、トラキア城の巨大な中庭では、生き残った両軍の兵士たちが共に武器を置き、配給された食料を口にしていた。
「……信じられないな。つい数日前まで殺し合っていた相手と、同じ火に当たってスープを啜ることになるなんて」
セリス軍の若き騎士ディルムッドが、熱い木の実のスープが入った椀を両手で包み込みながら、隣に座る男に視線を向けた。
「俺たち裏の人間にとっちゃ、王様が誰に変わろうが、今日食う飯があるかどうかがすべてだからな。……まあ、お前らみたいな『お行儀のいい騎士様』が、俺たちを見下さずに飯を分けてくれるってのは、悪くない気分だがよ」
ダキアの義賊・パーンが、短剣で削り取った干し肉を咀嚼しながら、皮肉げに、だが微かな笑みを浮かべて肩をすくめた。 北の正規軍であるセリスの騎士たちと、泥水を啜って生き抜いてきたリーフ軍の傭兵や盗賊たち。彼らの間に綺麗事の友情はないが、同じ地獄(死線)を越えた者同士にしか分からない、言葉少なき重い連帯感が確かに生まれていた。
その喧騒から少し離れた、崩れかけの城壁の影。
「……おい。パン、半分食うか」
オーシンが、自分に配給された黒パンを無造作に二つに割り、隣に座るマチュアの膝の上に放り投げた。 彼の体は、トラバントの竜騎士団との死闘で負った打撲と切り傷でボロボロであったが、その瞳の奥には強靭な生命力が宿っていた。
「……ありがとう」
マチュアは短い礼を言い、固いパンを静かにかじった。
「……生きて、このトラキアの果てまで辿り着いたわね。私たち」
「あぁ。何度も死にかけたがな。……お前が俺の背中を守ってくれなきゃ、とっくにあの世行きだった」
オーシンは、己の愛斧『プージ』を泥の上に置き、ゴツゴツとした傷だらけの手で、マチュアの細くしなやかな指をそっと握りしめた。 甘い言葉など、一つも必要なかった。血の匂いと汗に塗れた互いの体温。それだけが、今の二人にとって世界で最も確かな愛の証明であった。 マチュアはオーシンの手を握り返し、そのゴツゴツとした肩に、音もなく己の額を預けた。
***
そして、トラキア城の最深部、ひんやりとした安置所。 そこには、全身の血と泥を拭い清められ、両目を静かに閉じた覇王トラバントの遺体が安置されていた。
「……父、上……」
アリオーンは、父の亡骸の前に膝をつき、声を殺して泣いていた。 国を守るため、愛する者を守るため、自らすべての憎悪を被って修羅の道を歩み続けた偉大なる父。その絶対的な背中を失った悲しみと、残された重圧が、若き竜騎士の魂を激しく揺さぶっている。
「アリオーン……」
背後から、アルテナが静かに歩み寄り、泣き崩れる義兄の広い背中を、後ろから強く抱きしめた。
「アルテナ……私は……私は……っ!」
「泣いていいのです。今はただ……父上のために、涙を流しましょう。あの方は……手段は間違っていたかもしれない。でも、間違いなくこのトラキアを、そして私たちを、誰よりも深く愛してくれていたのだから」
アルテナの目からも、大粒の涙が溢れ落ち、アリオーンの背中の甲冑を濡らしていく。 血の繋がりはない。互いの真実の親は、かつてトラバントによって殺し合わされた宿敵同士だ。だが、そんな呪われた血脈の因果すらも、共に同じ父(トラバント)の温もりを知り、共にトラキアの泥を啜って育った彼らの『魂の繋がり』を引き裂くことはできなかった。
***
翌日。 冷たい雨が上がったトラキアの荒野において、トラバント王の葬儀が執り行われた。
反乱軍の将の遺体は野ざらしにされるのが戦場の常である。だが、リーフとセリスは、トラバントの亡骸に『トラキアの真なる王』としての礼を尽くし、両軍の兵士が立ち並ぶ中で、荘厳な火葬を執り行った。
「トラバント王よ。あなたの遺した重い業は、僕たちが引き継ぐ。……どうか、安らかに眠ってくれ」
リーフが静かに弔辞を述べ、松明の火が薪に放たれる。
天を衝くように燃え上がる赤い炎を、アリオーンとアルテナは並んで見つめていた。 トラキア半島の百年にも及ぶ飢えと怨念の歴史が、覇王の肉体と共に、燃え尽きて天へと昇っていく。
残された彼らが、この焼け跡からどのような未来を紡ぎ出すのか。 決断の時は、間近に迫っていた。