異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第64話

トラバント王の葬儀が終わり、トラキア城は深い静寂と、戦争の終結に伴う微かな安堵の空気に包まれていた。 だが、城の最上階、風の吹き抜けるバルコニーに立つアリオーンの背中には、未だに重く冷たい呪縛がのしかかっていた。

 

(……トラキアは生き延びた。だが、私は……父上の誇りを捨て、敵に降った裏切り者だ)

 

アリオーンは、手すりに置いた己の拳をギリッと握り締めた。 トラキアの民を飢えから救うという父の悲願は、リーフとの泥に塗れた休戦協定によって果たされた。しかし、武人としての己の死に場所を失った彼は、これから先、どのような顔をしてトラキアの竜騎士たちを、そして何より、義妹であるアルテナを導けばいいのか分からなかった。

 

「……兄上」

 

背後から、静かな声がした。 振り返ると、夜風に長い髪を揺らしながら、アルテナが立っていた。彼女もまた、トラバントの葬儀を終え、その瞳には深い悲しみと疲労が色濃く残っている。

 

「……アルテナか。お前は、リーフ王子の元へ行かなくていいのか。お前はレンスターの公女、彼のただ一人の実の姉なのだぞ」

 

アリオーンは、自嘲気味に顔を背けた。

 

「私は、お前の本当の両親を奪った男の息子だ。……共にトラキアを復興すると誓ったとはいえ、お前が私の傍にいる義務など、もう何もない」

 

「……義務で、あなたの傍にいると思っているのですか?」

 

アルテナの言葉は、静かだが、ひどく熱を帯びていた。 彼女はゆっくりとアリオーンに歩み寄り、その背中にそっと、しかし逃がさないほどの強さで腕を回した。

 

「アルテナ……!」

「父上(トラバント)は、あなたの父親であり、私の父親でもありました。私たちは共に、あの痩せた大地で、あの人の背中を見て育ちました」

 

アルテナの声が、震える。

 

「レンスターの血がどうとか、そんな過去の呪いなんてどうでもいい。私の魂の居場所は、あなたの隣にしかないの。……アリオーン、私を一人にしないで」

 

それは、血の繋がらない義妹としての慰めではない。 すべてを失い、それでも共に同じ泥(トラキアの歴史)を啜ってきた「一人の女」としての、退路を断った愛の告白であった。

 

だが、アリオーンはアルテナの腕を優しく解き、距離を取った。

 

「……駄目だ、アルテナ。私は敗将だ。トラキアの罪を一人で背負って生きていかなければならない。……そんな泥だらけの人生に、お前を巻き込むわけにはいかない」

 

アリオーンの拒絶。それは、彼女を愛しているからこそ、彼女を地獄から遠ざけようとする彼の真摯さの表れであった。

 

「……意気地なしですね」

 

ふと、バルコニーの暗がりから、鈴を転がすような声が響いた。

 

「「……?」」

 

アリオーンとアルテナが驚いて振り返ると、そこには、ユリア、リノアン、そしてコープルの三人が、静かに佇んでいた。

 

「サラさんが言っていた通りですね。あなたたちは、本当に面倒くさいです」

 

リノアンが、ため息をつきながら歩み出た。彼女の瞳には、かつて自分がターラを捨ててコープルに縋り付いた時と同じ、生々しい業への理解が宿っていた。

 

「相手を想って身を引く? そんな綺麗な自己犠牲で、女の魂が救われると思っているのですか? ……彼女は、あなたと一緒に泥を被りたいと、自分から地獄へ飛び込んできているのですよ。それを拒絶するなんて、ただの自己満足です」

 

「リノアン殿……しかし……」

 

「アリオーンさん」

 

アリオーンの言葉を遮ったのは、コープルであった。彼は、隣に立つユリアの手をしっかりと握りしめたまま、アリオーンを真っ直ぐに見据えた。

 

「僕も、同じ間違いをしそうになった。自分の罪で、愛する人を汚したくないって。……でも、それは違うんだ」

 

コープルは、自分を泥ごと抱きしめてくれたユリアの光を思い出しながら、静かに、だが力強く語りかけた。

 

「彼女たちは、僕たちが想像するよりずっと強くて、恐ろしい。僕たちが背負う罪なんて、彼女たちにとっては『あなたと繋がるための鎖』でしかないんだ。……覚悟を決めてください。彼女を愛しているなら、その呪いごと、彼女を一生あなたの檻に閉じ込めるべきだ」

 

少年でありながら、極限の死地で女の業(愛)の重さを知ったコープルの言葉は、アリオーンの胸を強く打った。

 

「……コープルの言う通りです」

 

最後に、ユリアが静かに一歩前に出た。彼女の放つ純白の光が、バルコニーの暗闇を柔らかく照らし出す。 「アルテナさんの魂は、もうあなたの泥の中でしか息ができません。……どうか、彼女の手を取ってあげてください」

 

三人の言葉に、アリオーンは己の逃げを完全に打ち砕かれた。 彼はゆっくりと振り返り、涙を浮かべて立ち尽くすアルテナを見た。

 

「……アルテナ」

 

アリオーンは、自らの意思で彼女に近づき、その手を強く、骨が軋むほどの力で握りしめた。

 

「私の道は、修羅の道だ。トラキアを復興させるため、帝国と戦い、北の諸国から浴びせられる蔑みにも耐え続けなければならない。……それでも、お前は私の傍にいてくれるか」

 

「ええ。何度でも言います」

 

アルテナは、アリオーンの胸に深く顔を埋め、彼に縋り付くように腕を回した。

 

「私が選んだ道は、ここです。……あなたと一緒に、トラキアの泥を啜って生きる。もう絶対に、離れません」

 

アリオーンもまた、彼女の身体を強く抱きしめ返した。 トラバントという巨大な呪縛から解き放たれ、義兄妹という殻を破り捨てた二人が、一人の男と女として完全に結びついた瞬間であった。

 

バルコニーの影で、その様子を静かに見届けていたコープルたちは、言葉を交わすことなく、夜の闇へと消えていった。

 

トラキア半島を二分した血みどろの戦争は、ついに終わった。 トラキア王国を率いるアリオーンとアルテナは、リーフとセリスの解放軍に正式に合流し、共通の敵であるグランベル帝国を討つための『絶対的な矛』となることを決意する。

 

だが、安息の時間は短い。 彼らの次なる目的地は、帝国の支配下で苦しむミレトス地方。そして、その先には、真の巨悪であるロプト帝国と、暗黒神ロプトウスの狂気に沈む皇子ユリウスが待ち構えている。

 

血と泥に塗れた解放軍の行軍は、いよいよ大陸の最終決戦へとその舞台を移そうとしていた。

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