異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第65話

トラキア半島が泥まみれの休戦協定によって統一された数日後。 解放軍の本隊は、休む間もなく海を渡り、グランベル帝国の直轄領であるミレトス地方へと進軍を開始した。

 

豊かな商業都市と美しい海岸線を持つミレトス地方だが、その実態はロプト教団による過酷な子供狩りの最前線であり、街の至る所に絶望の悲鳴が満ちていた。

 

痩せたトラキアの岩山を抜け、海峡を渡ってミレトスの地を踏んだ兵士たちは、すぐにこの地の「空気の異常さ」に肌を粟立てた。 戦火の匂いではない。それは、親から子を奪い、逆らう者を容赦なく処刑する、帝国とロプト教団による絶対的な恐怖の匂いであった。

 

「……静かすぎる。街に、子供の泣き声一つ聞こえやしない」

 

先陣を切るリーフが、無人の廃墟と化したミレトスの寒村を見渡し、光の剣の柄を強く握りしめる。 トラキアで背負った数万の民の業が、彼の背中を力強く、そして残酷に押し出していた。この静寂の奥に潜む巨悪を討たねば、今まで散っていった者達が無駄な犠牲になってしまう。それだけは絶対に避けねばならなかった。

 

***

 

そのミレトス地方を統治する帝国軍の中枢、ミトレス城の玉座の間。 そこには、暗黒神ロプトウスの狂気に完全に呑まれた皇子ユリウスが、冷酷な笑みを浮かべて身を横たえていた。

 

彼の足元には、二人の女性が侍っている。 一人は、フリージの王女にして帝国最強の雷神、イシュタル。

そしてもう一人は、ユリウスによって左遷された名将ラインハルトの妹であり、雷魔法ダイムサンダの使い手であるオルエンであった。

 

「……セリスの反乱軍がミレトスに上陸したそうじゃないか。トラバントめ、結局トラキアのハイエナもあの程度だったか」

 

ユリウスが、退屈そうに玉座の肘掛けを指で叩く。

 

「イシュタル。ミレトスの子供狩りは順調か?」

「……はい、ユリウス様。教団の司祭たちが、予定通りに……」

 

イシュタルは、血の気を失った真っ青な唇で嘘をついた。 彼女は、左遷されたラインハルトや、皇族であるサイアスと密かに連絡を取り合い、「意図的な子供狩りの遅延工作」に加担している。

 

だが、それをこの狂気の皇子に悟られればどうなるか。今のユリウスにとって人の命など塵芥に等しい。もし裏切りが露見すれば自分はともかく、遠く離れたラインハルトやフリージの家族全員が、想像を絶する拷問の末に皆殺しにされるかもしれない

 

彼女はこの美しき皇子の中に、サイアスや皇帝アルヴィスたちが言う「かつて持っていたという優しさ」など微塵も感じたことはなかった。

 

出会ったその瞬間から、彼は得体の知れない絶対的な『化け物』であった。それでも彼女がこの腕の中に侍っているのは、愛情からではなく、一歩でも機嫌を損ねればすべてが破滅するという恐怖の呪縛からであった。

 

 

「そうか、それでいい。集めた子供たちはその都度、帝都バーハラへ送るのだ。そこで友であろうと兄弟であろうと、互いに殺し合わせる」

 

ユリウスは、背筋の凍るようなおぞましい凶行を語りながらも、ひどく甘やかな笑みを浮かべ、イシュタルの顎を冷たい指で乱暴に掴んだ。

 

「生き残った奴らだけが、ロプトウスの忠実なしもべとなる。……イシュタル、おまえは私の愛しい女だよ」

 

「ユ、ユリウス様……」

 

その光景を、玉座の反対側に控えるオルエンが、ギリッと血が滲むほど唇を噛み締めながら見つめていた。

 

オルエンは、本来ならば兄ラインハルトを左遷し、ミレトスの民を苦しめるという凶行を重ねるユリウスに対し、明確な憎悪を抱くか、あるいは騎士として命がけの諫言を行うかの、どちらかを選ぶべきであった。

 

だが、彼女は偶然にも、この闇の皇子の奥底で泣き叫ぶ『かつての優しき皇子』の姿を垣間見てしまっていた。

 

重苦しい中庭の空気を裂くように響いた悲痛な叫び声。 それは、かつてヴェルトマー城の回廊を歩いていたオルエンの鼓膜を鋭く打ち据えた。 踏み込んだ先で彼女が目にしたのは、月明かりだけが差し込む冷たい石床の上で、たった一人、自らの頭をかきむしりながらうずくまるユリウスの姿だった。

 

『……あぁ……やめろ……。僕の頭の中で、囁かないでくれ……!』

『オルエン……君の、手は……』

『……温かいね。君の傍にいると、少しだけ……あの声が、遠のくんだ……』

 

世界中が恐怖する絶対的な闇の中で、自分だけが彼の真の苦しみに触れたのだ。

その事実は、兄と決別したオルエンの心に、歪でグロテスクな庇護欲を生み出していた。

 

しかし、現実は残酷だった。

 

今のユリウスの中には、彼女が救おうとした『心優しい青年』など欠片も表れない。

それでもオルエンは、過去の気高い誓いと、「自分だけが彼の本当の孤独を知っている」という強烈な自負に縛り付けられ、引くに引けなくなっていた。 世界中が恐怖する絶対的な闇の中で、自分だけが彼を救えるはずだった。

 

(あの方は、……本当はあんなにも傷つき、苦しんでおられるのだ。世界中がこの方を悪魔だと罵ろうと……世界を敵に回すことになっても、私がこのお方を守り通していこう)

 

……それこそが今の彼女を支える、ただ一つの痛ましい信念であった。

 

だからこそ、彼女は許せなかった。

ユリウスの真の苦しみを理解しようともせず、内心では彼を「化け物」と嫌悪し、怯えながら媚びへつらうイシュタルの存在が。同性の直感でその無理解と欺瞞を見抜いているオルエンにとって、それは強烈な不快感と憤りの対象であった。

 

そして何より――自分がどれほど命を懸けて彼を理解しようとしても、彼が最も愛し、執着するのは、自分ではなくその『怯えるイシュタル』であるという絶望的な事実。

その矛盾が、オルエンの胸の奥底に、タールのように黒く粘り着く『醜い嫉妬』をこびりつかせて離さなかった。

 

「……ユリウス様。反乱軍の迎撃には、私も出撃いたします。どうか、私にご命令を」

 

オルエンが、耐えきれずに玉座の前に進み出て、床に膝をついた。

 

「我がダイムサンダの魔法で、必ずやセリスめの首を取ってご覧に入れます。ですから……私にも、お言葉を……」

 

私を見てほしい。私を使ってほしい。私を必要だと言ってほしい。

それは、騎士としての誇りを捨ててまでユリウスの傍にすがりつきたいと願う、一人の少女のあまりにも純粋で、どうしようもなく哀しき願いであった。

 

「ん?……ああ、何だオルエンか。まだここにいたのか?」

 

ユリウスは、ひざまずいて懇願するオルエンを、無慈悲なまでに無関心に見下ろした。

 

「っ……!」

 

オルエンの心が、屈辱と絶望で傷ついていく。彼女は跪いたまま、憎々しげにイシュタルを激しく睨み付けていた。

 

(なぜ……なぜこの女ばかり!愛してもいないくせにユリウス様に媚を売り続ける卑怯者なのに!なぜ殿下は……)

 

イシュタルは、オルエンから向けられる憎悪の視線に、ただ黙って耐えるしかなかった。

 

(……違うわ、オルエン。私は……)

 

イシュタルは、ユリウスに抱かれながら、声なき絶叫を心の中で響かせていた。私は彼を愛してなどいない。私はただ、この狂気から逃げ出したいだけなのに。あなただって助けたいし、何より……私を守るために自ら泥を被っている彼(ラインハルト)を、これ以上苦しめたくないの。

 

「……いい顔をしているな、オルエン」

 

ユリウスは、嫉妬と劣等感に狂うオルエンの顔を見て、心の底から楽しそうな、酷薄な悦びの笑みを浮かべた。女同士の生々しい愛憎劇など、彼にとっては退屈しのぎの遊戯の一つに過ぎない。

 

「なら、お前に命令を与えよう。私のために、クロノスの防衛線でセリス軍を迎え撃っててもらおうか」

 

「……は、はいっ! ありがとうございます、ユリウス様!」

 

オルエンは、自分が捨て石扱いされているのだと理解しながらも、ユリウスから向けられた言葉に顔を紅潮させ、深く頭を下げた。

 

恐怖と憎悪が絡み合うミレトス城の玉座。 その歪な支配の檻をぶち壊すため、リーフとセリスの解放軍は、いよいよ帝国軍の絶対防衛線へとその牙を突き立てようとしていた。

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