異説聖戦の系譜   作:鰻天ぷら

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第66話

ミレトス地方に上陸した解放軍が、帝国軍の絶対防衛線と血みどろの激突を繰り広げているその裏側。

グランベル帝国の帝都バーハラ、その中枢に位置するヴェルトマー城の奥深くにおいて、帝国の崩壊を決定づける静かなる反逆が始まろうとしていた。

 

天才的な戦術眼を持つヴェルトマー家の当主にして、皇帝アルヴィスの庶子、サイアス。彼は、誰も寄り付かない深夜の皇帝の私室の前に、音もなく立っていた。

 

(……見張りの近衛兵が、すべて外されている)

 

サイアスは、完璧に無人となった長い回廊を見渡し、微かに目を細めた。皇帝の私室という、帝国で最も厳重に警備されるべき場所が、まるで誰かを招き入れるかのように無防備に口を開けている。この異常な空白を作れるのは、この城にたった一人しか存在しない。

 

サイアスは油断なく、しかし迷いのない足取りで、重い木扉を押し開けた。

 

月明かりだけが差し込む広い部屋の中央、豪奢な執務机の上に、それは無造作に、まるで読みかけの書物のように置かれていた。真紅の装丁に、脈打つような熱を帯びた宝石がはめ込まれた魔道書。ヴェルトマー王家の象徴にして、触れる者すべてを灰燼に帰す大陸最強の炎魔法、『ファラフレイム』である。

 

「……父上」

 

サイアスは、その恐るべき聖書の前まで歩み寄り、静かに立ち尽くした。

 

皇帝アルヴィスは、己の理想のために世界を欺き、結果としてロプトウスという最悪の暗黒神を息子の肉体に降臨させてしまった。その取り返しのつかない絶望と罪の重さに、かつての気高き覇王は完全に心をすり減らし、今はただロプト教団とユリウス皇子の傀儡として、死んだように玉座に座り続けているだけだ。彼にはもう、表立ってユリウスを止め、世界を救う力も、資格も残されていない。

 

「だからこそ、あなたは……自らの手でこれを渡すのではなく、私に『盗ませる』ことを選んだのですね」

 

サイアスは、ファラフレイムの装丁にそっと指先を這わせた。この書がここにあること。近衛兵が意図的に外されていること。それは、アルヴィスがすべてを計算した上で仕組んだ、あまりにも泥臭く、不器用な『裏工作』であった。

 

声に出すことすら許されない、一人の父親としての悲痛な願いが、熱を帯びた魔道書の表面からサイアスの掌へと伝わってくる。

 

「……あなたの不器用な情愛、そして帝国のすべての業、確かに受け取りました」

 

サイアスは、ファラフレイムを手に取り、自らの外套の奥深くに隠した。皇帝アルヴィスは、ヴェルトマー家が聖戦士の末裔たる『証の炎』を、他ならぬ自分に託したのだ。その凄絶な信頼を前に、サイアスの冷徹な戦術眼には、かつてないほどの鋭い光が宿っていた。

 

「……子供狩りの遅延工作だけでは、もはや帝国の民は救えない。私がセリス軍と接触し、ユリウス皇子からロプトの狂気を引き剥がさねば、この世界は終わる」

 

サイアスは、月明かりの差し込む窓から、遠く南の空――激戦が続くミレトス方面を見据えた。

 

ロプト教団の大司教マンフロイの目を欺き、帝国軍の最高指揮官としての権限を悪用しながら、解放軍を最も被害の少ないルートで帝都へと導く。それは、一歩でも計算を間違えれば、自分だけでなく接触した解放軍をも全滅させる、綱渡りのような内部工作の始まりであった。

 

「……待っていてください、ユリウス様。私が必ず、あなたをその暗黒の呪縛から解き放ってみせます」

 

天才軍師は、手に入れたファラフレイムの熱を胸に抱きながら、音もなく皇帝の私室を後にし、深い夜の闇へと溶け込んでいった。

 

だが、彼が緻密に組み上げた反逆の盤面を、鼻で笑うかのように。

帝国の闇の底で蠢くロプト教団の大司教マンフロイが、解放軍の最も脆く、そして最も致命的な急所――皇女ユリアの誘拐に向けて、すでにその邪悪な魔手を伸ばし始めていた。

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