ミレトス地方に上陸した解放軍が、オルエン率いる帝国防衛部隊と血みどろの激突を繰り広げたその日の夜。
前線の喧騒から遠く離れた後方の野営地において、すべてを覆すような暗黒の凶行が、音もなく幕を開けようとしていた。
この後方キャンプには、疲労困憊の負傷兵たちと、軍の生命線たる治療班(コープルやユリア)が留め置かれている。彼らを敵の別働隊や奇襲から死守するため、マリータ、タニア、リノアンの三人は「治療班の専属護衛」という正式な任務を得て、この野営地に駐留していた。
無論、それはあくまで軍としての建前である。彼女たちの真の目的は、絶対的な死地へ向かう中で、己の依存先である少年(コープル)の傍を片時も離れないこと。そして何より、彼と「共に泥を被る」と誓い合ったユリアを間近で監視し、牽制し続けるという、業の深い独占欲からであった。
だが、その異常なまでの『情念』こそが、結果として軍を致命的な崩壊の危機から救うこととなる。
薄暗い天幕の中。負傷兵の治療で魔力をすり減らし、わずかな仮眠を取っていたユリアは、肌を突き刺すような異常な冷気と死臭で目を覚ました。
(……寒い。……だれ?)
周囲の空気が、まるでタールのように重く淀んでいる。 見張りに立っていたはずの解放軍の兵士たちは、武器を握りしめたまま、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちていた。彼らの目には生気がなく、深き『スリープ』の魔法によって完全に魂を絡め取られている。
「ククク……迎えに来たぞ、ユリア皇女よ」
天幕の入り口から、闇そのものを引き連れて現れたのは、ロプト教団の大司教マンフロイであった。 彼から放たれる漆黒のオーラは、人間のそれではない。大陸全土に子供狩りの恐怖を撒き散らし、数え切れないほどの命を暗黒神への贄として貪ってきた、純粋な悪意の結晶。
「……あなたは……」
ユリアは、本能的な恐怖に全身の血を凍らせながらも、震える手で光の魔道書を抱え込んだ。
「ワシとともに来い…」
マンフロイが、枯れ木のような指をユリアへと伸ばす。 その指先から放たれた邪悪な魔力が、ユリアの純白の光を強制的に押さえ込み、彼女の意識を深い泥の底へと引きずり込もうとした。
(……コープル……!)
ユリアの視界が黒く反転していく。暗黒神の司祭に抗う力など、今の彼女には残されていなかった。
「ユリアから離れろォォォッ!!」
その絶対的な暗黒の結界を、凄まじい突風が物理的に粉砕した。
「……む?」
マンフロイが煩わしそうに目を細める。 天幕を吹き飛ばして飛び込んできたのは、息を切らし、全身を泥と汗に塗れさせたコープルであった。
彼は手にした聖風『フォルセティ』の魔道書から、限界を超えた強烈な風の刃をマンフロイに向けて放ちながら、崩れ落ちるユリアの体を間一髪で抱きとめた。
「フン……シレジアの小倅めが。その程度の風で、わしを殺せるとでも思ったか?」
マンフロイは、飛来するフォルセティの暴風に対し、瞬時に膨大な魔力を込めた闇の障壁『ヨツムンガンド』を展開し、正面から激突させた。
神技の風の刃は、確かに暗黒の結界を鋭く削り取った。だが、マンフロイの底知れぬ魔力量と、長きにわたる血塗られた歴史を生き抜いてきた『経験から来る実力の壁』が、若きコープルの決死の一撃を冷酷にねじ伏せて相殺したのである。
「……勝てないことくらい、分かってる……ッ!」
コープルは、腕の中で意識を失いかけているユリアを庇うように立ち塞がり、血を吐くような声で叫んだ。
「でも、僕はもう決めたんだ……! この泥だらけの世界で、彼女の手を絶対に離さないって……! お前みたいな化け物に、ユリアを渡すくらいなら、ここで僕の命を全部燃やし尽くしてやる!!」
「……愚かな。蟲の如き命を燃やしたところで、この闇は晴れんぞ」
マンフロイの瞳に、冷酷な殺意が宿る。彼が右手を掲げ、コープルとユリアを空間ごと押し潰す絶対的な闇の重力『ヘル』の魔法陣を展開しようとした、その刹那。
「……させないわよ、お爺様」
不意に、マンフロイの背後から、鈴を転がすような、だが底知れぬ狂気を孕んだ声が響いた。
音もなく闇の中に立っていた銀髪の少女、サラ。彼女が翳した異端の魔力が、結界を歪め、ヘルの重力場に強引な亀裂を走らせる。
「……サラ。貴様、なぜここにおる」
マンフロイの動きが、ほんのわずかに止まった。
「退きなさい、化け物ォォッ!!」
暗闇を切り裂き、マリータの凶刃(流星剣)が音速を超えてマンフロイの首筋へと殺到する。同時に、タニアの放った数本の矢が彼の魔力障壁の死角を正確に叩き、リノアンが展開した強烈な光魔法が、天幕の周囲を覆っていた暗黒の結界を力任せに焼き払った。
本来ならば、彼女たちも他の一般兵士たちと同様に、暗黒神の司教が放つ深き『スリープ』の魔法によって、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ち、完全に魂を絡め取られているはずであった。
しかし、絶対的な闇の魔術すらも、彼女たちの『執着』を完全に眠らせることはできなかったのだ。
剣士としての異常な殺気感知を持つマリータ。野山の獣の如き直感を持つタニア。そして、コープルへの狂信的な依存心で精神干渉を弾き返したリノアン。
欲深い情念を抱いた三人の少女たちは、スリープの呪縛に意識を微睡ませかけながらも、本能の奥底でコープルに迫る死の気配を察知し、血を吐くような精神力で暗黒の眠りを強引に食い破り、この死地へと駆けつけてきたのである。
「チッ……忌々しい小娘どもが。ひよっこの分際で、わしの邪魔をするか」
マンフロイは、飛来するすべての攻撃をヨツムンガンドの障壁で弾き飛ばしながら、忌々しげに舌打ちをした。
彼にとって、この程度の小娘たちなど一捻りにして皆殺しにすることは容易い。だが、ここでサラの干渉を受けながら彼女たちと乱戦になれば、ユリアを無傷で『生け捕り』にするという目的が果たせないばかりか、騒ぎを聞きつけたセリスやリーフたち本隊が駆けつけてしまう。
「……今日は退いてやろう。だがユリアよ。お前の運命は、すでに我が主の手の中にあるのだぞ」
マンフロイは無駄な消耗を避け、その姿を濃密な闇の霧へと変え、音もなく夜の空気へと溶け落ちていった。
残されたのは、荒らされた野営地と、全身の魔力を使い果たしてその場にへたり込むコープルだけであった。
「はぁっ……はぁっ……!」
コープルは、泥の地面に膝をつき、必死にユリアの体を抱きしめた。
「ユリア……! 大丈夫なのかい、ユリア!」
「……コープル……」
ユリアが薄く目を開け、自分を庇って震えている少年の頬に、冷たい手をそっと添えた。
「あなたが……私を、引き留めようとしてくれたのですね。」
「当たり前さ……! 君が僕と一緒に泥を被ってくれるって言ったんだ。……絶対に、離すもんか」
コープルは、恐怖と安堵で涙をこぼしながら、ユリアの額に自らの額を強く押し当てた。
その光景を、サラは冷たい夜風に髪を揺らしながら、暗がりから静かに見つめていた。
(……綺麗ね。命を懸けて泥を被り合うなんて、本当に……馬鹿みたいで、綺麗だわ)
サラの唇に、かすかな微笑みが浮かぶ。 だが、その視線の先にあるのは、コープルとユリアの絆だけではない。彼女の瞳の奥には、去っていった祖父マンフロイが背負うロプト教団の何百年にわたる怨念に対する、ひどく退廃的な郷愁が揺らめいていた。
(……待っててね、お爺様。あなたのその真っ黒な絶望の底……私が全部、見届けてあげるから)
ミレトスの夜に渦巻く、それぞれの業と執着。 解放軍と帝国の戦いは、いよいよミレトス城を巡る血で血を洗う総力戦へと雪崩れ込んでいく。